朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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入道雲の下でふたりは

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 濃い海風が、爽やかに路地を吹き抜けてゆく。
 八月。鎌倉に住んで、初めての夏が来ようとしていた。
 タキはひとり、鎌倉の坂の上、汗だくで振り返った。
 四苦八苦の奮闘の末、なんとか今日、古物商許可の申請まで辿り着いた。営業所は、横浜にある棚貸しの古本屋のオーナーを古書会館で紹介して貰い、なんとかメドがついた。
(さゆ、俺達また、古本屋が出来るよ)
 久しぶりに浮き足立って家に帰ると、さゆはルークのブラッシングをしていた。
「ただいま。今日早いね」
「うん」
 さゆは曖昧に微笑んだ。
 その夜はそうめんで乾杯をし、秋から貸して貰える予定の棚に、どんな本を置きたいか、スマフォの小さな画面を見ながら、ああでもない、こうでもないと話し合った。
「あ、これ、この本は置きたい」
 さゆが「はてしない物語」の表紙を指差した時、タキは胸が一杯になって、小さく頷いた。
「その本、俺にとっても大事な本なんだ」
 タキは自室からその灰色の函に入った分厚い本を持って来る。
 それは、タキが初めてさゆの店で買った本だ。
「この本のあらすじ、思い出せるけど、また読みたい。貸して貰える?」
「勿論」
 その後、タキが風呂に入っている間、さゆは恋愛ドラマを観ていた。主演は中高生に人気のアイドル。キラキラした学園ドラマがさゆのこの頃のお気に入りで、毎週観ている。
 自分達の暮らしが、また新しい局面に入りつつあるのを、タキは感じていた。

 鎌倉の夏は、潮の香りが濃くなる気がする。数日後、良く晴れた朝に二人は、グラノーラを食べながら、その日の予定を話した。大きな入道雲が、窓の外に出ている。さゆの個展の準備も、そろそろ大詰めだ。打ち合わせは画廊のオーナーとリモートでしていたけれど、あと数点の絵とステイトメント(絵の説明書き)が必要で、その作業を、貴重な二人とも休みの今日、進める予定だ。
「あ、あのね、私・・・・」
「ん?」
 タキが柔らかく聞き返す。さゆは下を向いた。
 この頃、タキと話すとドキドキする。
 タキの輪郭がなんだか、ぼうっと光っているような気がする。
「き、金色の絵の具をもう少し、買いたいな・・・高いけど」
「いいよ、いいよ。午前中の涼しい内に買いに行こうか」
「うん!」
 満腹になったルークは、日陰でお腹を出して寝ている。

「うわあ、キレイだねえ。映画みたい」
 通勤通学ラッシュが収まった時間帯を狙って、二人は江ノ電で鎌倉駅まで向かった。麦藁帽子に小花柄のワンピースを着たさゆは、銀色に光る夏の海を見て歓声を上げた。タキは車両内で一人だけ長袖を着ていて、居心地の悪さを感じていたけれど、さゆは気にしていないようだ。
 観光客の溢れる駅前を抜けて、書店を通り過ぎ、一本脇道に逸れて小さな橋を渡ると、目当ての画材屋はすぐにある。さゆは挨拶をしながら、ゆっくり店内を見回した。沢山の画材や、道具、額縁の置かれた店内で、さゆは人の良さそうな店主から、金色の絵の具を二本買い、両手で宝物の様に恭しく持って出た。
「暑くなって来たね」
 さゆは、高く昇り行く太陽を見上げる。肩から提げた水筒の麦茶をあっという間に飲み干す。身体の内側が熱い気がする。
「早く帰ろう」
 タキが歩道を足早に進みながら、さゆの手を取った。さゆの様子を見ながら途中、コンビニに寄ったけれど、さゆの顔は暫く休んでも赤くなったままだ。
「さゆ、もう少し休んで行かない?」
「ううん、大丈夫。早く帰って作業しよう?」
 江ノ電を降りて、さゆは家へと歩き出す。昼前の鎌倉を、熱風が吹きぬけてゆく。陽炎がゆらめくアスファルトからの照り返しに、さゆの顔は更に紅潮していった。
「ポカリ飲む?」
 黒い帽子を被ったタキは、ビニール袋から少し温くなったポカリを取り出した。
「う、うん…………ちょっと座りたい」
 ポカリを受け取ったさゆの足が、少しふらつき出した。不味い。大通り沿いだけれどベンチはなく、肩を支えて植え込みの縁にようやく腰掛けた。
「ご……ごめん……なんか急に頭いたい……」
「いいから」
 見た目が元気そうだからと、失敗したなとタキはほぞを噛んだ。退院から半年以上経ったけれど、さゆは本調子ではやはり無いのだ。さゆはポカリを開けようとしたけれど、手が震えて上手くいかなかった。
「貸して」
 タキはさゆからポカリを受け取ると栓を開け、さゆに渡したけれど、さゆはもうぐったりして、上手く飲めない。タキは一瞬考えて、自分のマスクと眼鏡を外し、口に含んだ。
「?」
 さゆがぼうっとした頭でマスクをズラしたまま、タキを見つめた。
 すると、次の瞬間。
「!!」
 タキは通行人も気にせずに、さゆの後頭部に手を添えてキスをした。眼を閉じるのも忘れたままうーうーと唸るさゆに軽く舌を差し入れて、口を開けさせ、ポカリを口移しで注ぎ込んだ。ごくり、とさゆの喉が鳴る音がした。口の端から溢れた水分が、スーッと伝って落ちた。
(あわわわわわわわわわあ)
 タキの温かくて柔らかい唇を感じる。驚いてギュッと眼を閉じるさゆを尻目に、もう一度今度は多めにポカリを口に含み、またタキはキスをした。さゆの両手がタキの胸にそっと触れた。
 今のさゆにとって、それは初めての口づけだった。

「ごめんね、さっき」
 結局、救急車を呼ぼうかとタキは言ったが、「いい、家に帰りたい」とさゆが拒否したのでなんとか十分ほど歩き、二人は帰宅した。寒いほどクーラーを効かせた部屋で着替え、ベッドに横になり、アイスノンで暫く頭と脇を冷やすと、さゆは自力で水分補給出来るようになった。なんとか落ち着いたようだ。身体のほてりは抜けたけれど、頭がまだ痛い。タキがベッドサイドで心配そうにさゆを覗き込んだ。ルークは昼寝中だ。
「え、何が?」
「………さっき。勝手にキスしたから」
「う、ううん」
 ついでに言えば、着替えも思いっきり手伝ってもらい、下着姿も見られたけれど、特に不快ではなかった。
「助けて貰ったわけだし、一応、事実婚してるんだし………」
「それでもさ………」
 段々頭がはっきりしてくると、キスの感触と共に、そうか、自分は記憶が無い頃にタキとそういう事をきっと沢山したんだろうなあという事実が、さゆの胸に生々しく重く圧し掛かった。
(愛されてたんだろうな、わたしはきっと)
 タキは本当に献身的に自分の為に頑張ってくれているけれど、タキが好きなのは、決して今の自分ではない。それがとてつもなく辛くて苦しい。この感情の名前は、子供っぽい自分でも知っている。
 嫉妬だ。
 さゆは、自分自身に嫉妬していた。
(妊娠する位だもんね)
 こんなに優しいひとが、自分と一緒に暮してくれて、それでも自分の向こうにいる「誰か」をひたすらに見つめているのがひどく悔しく、そして悲しかった。
 その欠片を、時折思い出しているだけに。
「タキ」
「ん?」
「もう大丈夫だから………もういっぺんキスして」
 タキはさゆの髪を掻きあげ、唇が触れるだけのやさしいキスをした。
 それは砂糖菓子のような、甘い口づけだった。
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