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第三十四話 森での暮らし
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あれから二ヶ月。
そよ風が入る仕事部屋の窓際で、私は筆を休め、原稿用紙の束を両手に持ち、机の上でトン、と揃えた。
神の棲家から帰って以来、私はコテージで、セプタ教大経典の翻訳に励んでいる。
経典は分厚く、私が親指と人差し指を精一杯広げた程度の厚みがあるが、もう二ヶ月もあれば完成するだろう。
外国との折衝が多い父の後を継ぐため、幼い頃から外国語に力を入れていたけれど……
こうして語学を役立てることができて、嬉しい。
あれからエルデさんには、アロイス様が事情を説明をした。
驚いてはいたが、どこか納得もしていたらしい。それでも、今は力の回復を優先させ、自ら動くことはしないそうだ。
怪我の功名とでもいうべきか、衆人の目前で神に攫われた私を探そうとする者は、いなかった。王家では亡骸だけでもと、密かに捜索したらしいが、諦めたようだ。
両親には、私の無事を伝えてある。私の我儘で、それだけはアロイス様にお願いした。お父様は今、後継に選んだ私の従兄弟、ロイの教育に力を入れているようだ。18歳で貴族学院を卒業したら、すぐにでも実務に入れるようにと、ロイ本人も意気込んでいると聞く。彼は成績が良いけれど、驕らないし努力家だ。きっと立派に跡を注いでくれるだろう。
ふと、自分も本来ならば、あと二年、学院に通っていたはずだったのを思い出し、少しだけ複雑な気持ちになった。
気分を変えようと椅子から立ち上がり、視線を下にやると、もう服の上からでもお腹が膨らんできているのがわかる。そろそろ安定期に入るらしい。
つわりで食欲を失ったり、かと思えば、急に酸っぱいものが食べたくなったり……
自分の身体が少しずつ変化しているのを自覚する。
思えば安定期に入る前に、随分と大変な目にあってきたものだ。この子が流れたりしなくて本当に良かった。
最初は戸惑いしかなかったけれど、自分が母親になる覚悟が、日々根付いてくる。なんとか無事に生まれてきてほしい。
「お仕事、一区切り、つきました? だったら食事をお持ちしますね。ご主人様は午後三時頃、ここを訪れるそうです」
パールがひょこっとドアから部屋を覗くと、キッチンへ向かった。
身の回りは、パールがこうして世話をしてくれる。アロイス様も週に二、三日は様子を見に来て、王都の話を聞かせてくれる。生活には何の不都合もない。つくづく恵まれている。
この平和な時間が、ずっと、ずっと、続いてくれたら……
***
午後三時、彼は時間きっかりに、やって来た。
「いらっしゃいませ、アロイス様」
「やあ、ご令嬢。今日も変わりはないか?」
「お嬢様はお元気ですよ。そんなに心配なら、毎日来ればいいのに。そんなに遠くないんですから」
パールの言葉に、彼は苦笑している。
木漏れ陽が入るリビングで、二人でお茶をいただく。
テーブルにはベルガモットティーに、レモンカードのタルト。
この時間は、私が唯一、外の世界と繋がる時間だ。
両親の近況や、王家の動向も、アロイス様からもたらされる会話で知った。
しかし、今日のアロイス様の様子は、少しおかしい。何か、ためらっている。
お茶を一口飲んで、彼は話を切り出した。
「これは、話すべきか迷ったが……」
「何でしょうか?」
「第二王子・シェラン殿下の新しい婚約者が決定した」
「そうなんですか」
「いや……殿下とは何かと揉め事も多かったが、あなたの元婚約者だ。
その……何か思うところがあるのではないかと」
「いえ、私はとっくに婚約を破棄された身の上です。もともと恋仲などでもありませんでしたし……むしろ、あの方には私など早く忘れて、相応しい方と幸せになっていただければと思っていました」
「そうなのか」
「あ、でも、新しいお相手が、誰方なのかは気になります」
「ベリンダ・ノーツ公爵令嬢だ」
「ああ、ノーツ公爵令嬢は私の一学年上の方ですね。とても優秀で、大人びた美貌を持つ方ですわ。
安心しました、あの方なら、上手く殿下の舵取りができるでしょう」
殿下とは最悪な別れ方になったけれど、これから国を支えていく立場の一人として、真っ当に生きていってもらいたいとは思っていた。それに、こんな話を聞いても、心は凪いだままだ。完全に過去の人になったのだろう。
「ところで、翻訳はどの程度まで進んでいるのか?」
アロイス様がティーカップを置き、私に問いかける。
「そうですね、六割ほど終わってて、八百年前の大災害について記された部分に、突入したところです。この大陸が半分になった原因だという……
今は、地底の女神・マーモアとその神託を受ける聖女・サザークが出てくる辺りをやってます。エストリールだと、マーモアは魔女じゃなくて、女神の扱いなんですよ」
「…………そうか」
……?
何か、妙な間が空いたような気がする。
アロイス様にとって、あまり興味がないくだりなんだろうか?
「とりあえず、あと二ヶ月もあれば、作業は終わると思います」
「了解した。こんな状態のあなたに仕事を依頼して、すまない。
終わったらゆっくり養生して、出産に備えてもらいたい」
「いえ、私などでも、お役に立ててよかったです」
何だろう……さっきから、微妙に彼と目線が合わない気がする。
どうして……?
何か、何かが、おかしい。
そよ風が入る仕事部屋の窓際で、私は筆を休め、原稿用紙の束を両手に持ち、机の上でトン、と揃えた。
神の棲家から帰って以来、私はコテージで、セプタ教大経典の翻訳に励んでいる。
経典は分厚く、私が親指と人差し指を精一杯広げた程度の厚みがあるが、もう二ヶ月もあれば完成するだろう。
外国との折衝が多い父の後を継ぐため、幼い頃から外国語に力を入れていたけれど……
こうして語学を役立てることができて、嬉しい。
あれからエルデさんには、アロイス様が事情を説明をした。
驚いてはいたが、どこか納得もしていたらしい。それでも、今は力の回復を優先させ、自ら動くことはしないそうだ。
怪我の功名とでもいうべきか、衆人の目前で神に攫われた私を探そうとする者は、いなかった。王家では亡骸だけでもと、密かに捜索したらしいが、諦めたようだ。
両親には、私の無事を伝えてある。私の我儘で、それだけはアロイス様にお願いした。お父様は今、後継に選んだ私の従兄弟、ロイの教育に力を入れているようだ。18歳で貴族学院を卒業したら、すぐにでも実務に入れるようにと、ロイ本人も意気込んでいると聞く。彼は成績が良いけれど、驕らないし努力家だ。きっと立派に跡を注いでくれるだろう。
ふと、自分も本来ならば、あと二年、学院に通っていたはずだったのを思い出し、少しだけ複雑な気持ちになった。
気分を変えようと椅子から立ち上がり、視線を下にやると、もう服の上からでもお腹が膨らんできているのがわかる。そろそろ安定期に入るらしい。
つわりで食欲を失ったり、かと思えば、急に酸っぱいものが食べたくなったり……
自分の身体が少しずつ変化しているのを自覚する。
思えば安定期に入る前に、随分と大変な目にあってきたものだ。この子が流れたりしなくて本当に良かった。
最初は戸惑いしかなかったけれど、自分が母親になる覚悟が、日々根付いてくる。なんとか無事に生まれてきてほしい。
「お仕事、一区切り、つきました? だったら食事をお持ちしますね。ご主人様は午後三時頃、ここを訪れるそうです」
パールがひょこっとドアから部屋を覗くと、キッチンへ向かった。
身の回りは、パールがこうして世話をしてくれる。アロイス様も週に二、三日は様子を見に来て、王都の話を聞かせてくれる。生活には何の不都合もない。つくづく恵まれている。
この平和な時間が、ずっと、ずっと、続いてくれたら……
***
午後三時、彼は時間きっかりに、やって来た。
「いらっしゃいませ、アロイス様」
「やあ、ご令嬢。今日も変わりはないか?」
「お嬢様はお元気ですよ。そんなに心配なら、毎日来ればいいのに。そんなに遠くないんですから」
パールの言葉に、彼は苦笑している。
木漏れ陽が入るリビングで、二人でお茶をいただく。
テーブルにはベルガモットティーに、レモンカードのタルト。
この時間は、私が唯一、外の世界と繋がる時間だ。
両親の近況や、王家の動向も、アロイス様からもたらされる会話で知った。
しかし、今日のアロイス様の様子は、少しおかしい。何か、ためらっている。
お茶を一口飲んで、彼は話を切り出した。
「これは、話すべきか迷ったが……」
「何でしょうか?」
「第二王子・シェラン殿下の新しい婚約者が決定した」
「そうなんですか」
「いや……殿下とは何かと揉め事も多かったが、あなたの元婚約者だ。
その……何か思うところがあるのではないかと」
「いえ、私はとっくに婚約を破棄された身の上です。もともと恋仲などでもありませんでしたし……むしろ、あの方には私など早く忘れて、相応しい方と幸せになっていただければと思っていました」
「そうなのか」
「あ、でも、新しいお相手が、誰方なのかは気になります」
「ベリンダ・ノーツ公爵令嬢だ」
「ああ、ノーツ公爵令嬢は私の一学年上の方ですね。とても優秀で、大人びた美貌を持つ方ですわ。
安心しました、あの方なら、上手く殿下の舵取りができるでしょう」
殿下とは最悪な別れ方になったけれど、これから国を支えていく立場の一人として、真っ当に生きていってもらいたいとは思っていた。それに、こんな話を聞いても、心は凪いだままだ。完全に過去の人になったのだろう。
「ところで、翻訳はどの程度まで進んでいるのか?」
アロイス様がティーカップを置き、私に問いかける。
「そうですね、六割ほど終わってて、八百年前の大災害について記された部分に、突入したところです。この大陸が半分になった原因だという……
今は、地底の女神・マーモアとその神託を受ける聖女・サザークが出てくる辺りをやってます。エストリールだと、マーモアは魔女じゃなくて、女神の扱いなんですよ」
「…………そうか」
……?
何か、妙な間が空いたような気がする。
アロイス様にとって、あまり興味がないくだりなんだろうか?
「とりあえず、あと二ヶ月もあれば、作業は終わると思います」
「了解した。こんな状態のあなたに仕事を依頼して、すまない。
終わったらゆっくり養生して、出産に備えてもらいたい」
「いえ、私などでも、お役に立ててよかったです」
何だろう……さっきから、微妙に彼と目線が合わない気がする。
どうして……?
何か、何かが、おかしい。
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