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42.糸撚
りんごの蜂蜜煮は、とても甘く故郷の味を思い出させた。
3年も帰っていないが、郷愁などは感じない。
「もう一つ食べるか?」
りんごを口に加えると、アーサーはソフィーに口移しで与える。
りんごなのかアーサーなのか、どちらの甘さに蕩けているのかわはわからないが、一糸纏わぬ姿のソフィーはアーサーの下でうっとりしている。
「アーサー様――」
ねだるようにソフィーが顎を上げると、アーサーはそれに応じて深い口付けを与えた。
「君がいなければ私はこの屋敷でどうしたらいいかわからなかった。私がこうして正気を保てているのは君のおかげだ」
「そんな――私のような女をこうして抱いてくださるだけで幸せですのに」
いつものやり取りを繰り返すと、ソフィーはますますその顔を蕩けさせる。
「自分を卑下するのではないよ――可愛い人。君は、とても私の役に立っている」
アーサーが忙しく動くと、ソフィーはもうそれ以上考えられなくなっていた。
自分を求めて、甘えてくれるこの男が、ソフィーには全てだった。
「こんなに美しくても商品にならないんですねぇ」
「そうね。見た目は美しくても触ると糸が均一でないのがわかるわ」
マルグリットの言う通り、糸を指でなぞるとところどころ抵抗を感じる箇所がある。
「これで布を織っても光沢のある生地にはならないの。製糸の技術を向上させないと――」
独り言のように呟くマルグリットを見て、ロニはにこにこと笑っている。
始めは薪を買うために道路の補修を言い出しただけだったはずなのに、いつの間にか領地の運営を活き活きと行っている。
王都に居た時から、夜会に出るくらいなら読書や仕事をしたいと言っていたが、結婚してもそれは変わらなかった。
だが、結婚して変わったこともある。
あの熊のような大きなご主人様――よく見ると男らしい精悍な顔つきだが、未だにロニですら怖いと思ってしまう時があるほど、険しい顔つきをしている。
なのに、あの熊――じゃない、ご主人様の前に立つと、奥様は頬を赤らめて嬉しそうに口元を緩める。
ご主人様も険しい顔を緩めて、奥様しか目に入らないようだ。
あの女――カティアが子供を連れてきた時の奥様は、見ていられなかった。
不安な時間は一晩だけであったが、それでも倒れまい、負けまいと気合いで乗り切っていたのは、子供の頃から見ていたロニだからわかるのだ。
だが、奥様には知らせていないが、あの女は旦那様が内々に処分を下したとオスカーから聞いた。
ロニは、不意にオスカーのことを思い出して、頬が紅潮するのを自覚した。
いけない。ロニは小さく頭を振ると、マルグリットに集中しようと頑張った。
「その糸はどうするんですか?染めて刺繍にでもなさるんですか?」
「そうね――それよりももっと使い道があると思うの」
ロニの言葉に、マルグリットは考えに集中しているのだろう。上の空で答えたのだった。
翌日、マルグリットはバナンの工房を訪ねていた。
「糸車ですか?」
「ええ。糸の撚りが不揃いになっているのは糸車のせいではないかと思うの」
「たしかに、片手で回しながら撚りますから、どうしても粗くはなりますね」
試作品の糸を触りながら、マルグリットの仮説にバナンは頷く。
「細い糸を撚るなら独楽のほうがいいでしょうけど」
バナンの言うことは尤もだが、マルグリットは納得しない顔つきだった。
熟練であれば問題のないことだが、ヴァルデンで働く者たちは皆素人ばかりだ。
せっかく品質の良い生糸が作れるのに修練に時間をかけすぎるのは避けたかったのだ。
バナンは糸を手で何度もなぞると、あることに気がついたようだった。
「確かに、規則的な間隔で糸の撚りが荒くなってるか所がありますね――ああ、なるほど、そういうことか」
次第に一人でなにやらひとしきり呟くと、やがて顔を上げて言った。
「ちょっと試したいことができましたんで、やってみますよ。少しお時間をいただきますが、いいですかね」
3年も帰っていないが、郷愁などは感じない。
「もう一つ食べるか?」
りんごを口に加えると、アーサーはソフィーに口移しで与える。
りんごなのかアーサーなのか、どちらの甘さに蕩けているのかわはわからないが、一糸纏わぬ姿のソフィーはアーサーの下でうっとりしている。
「アーサー様――」
ねだるようにソフィーが顎を上げると、アーサーはそれに応じて深い口付けを与えた。
「君がいなければ私はこの屋敷でどうしたらいいかわからなかった。私がこうして正気を保てているのは君のおかげだ」
「そんな――私のような女をこうして抱いてくださるだけで幸せですのに」
いつものやり取りを繰り返すと、ソフィーはますますその顔を蕩けさせる。
「自分を卑下するのではないよ――可愛い人。君は、とても私の役に立っている」
アーサーが忙しく動くと、ソフィーはもうそれ以上考えられなくなっていた。
自分を求めて、甘えてくれるこの男が、ソフィーには全てだった。
「こんなに美しくても商品にならないんですねぇ」
「そうね。見た目は美しくても触ると糸が均一でないのがわかるわ」
マルグリットの言う通り、糸を指でなぞるとところどころ抵抗を感じる箇所がある。
「これで布を織っても光沢のある生地にはならないの。製糸の技術を向上させないと――」
独り言のように呟くマルグリットを見て、ロニはにこにこと笑っている。
始めは薪を買うために道路の補修を言い出しただけだったはずなのに、いつの間にか領地の運営を活き活きと行っている。
王都に居た時から、夜会に出るくらいなら読書や仕事をしたいと言っていたが、結婚してもそれは変わらなかった。
だが、結婚して変わったこともある。
あの熊のような大きなご主人様――よく見ると男らしい精悍な顔つきだが、未だにロニですら怖いと思ってしまう時があるほど、険しい顔つきをしている。
なのに、あの熊――じゃない、ご主人様の前に立つと、奥様は頬を赤らめて嬉しそうに口元を緩める。
ご主人様も険しい顔を緩めて、奥様しか目に入らないようだ。
あの女――カティアが子供を連れてきた時の奥様は、見ていられなかった。
不安な時間は一晩だけであったが、それでも倒れまい、負けまいと気合いで乗り切っていたのは、子供の頃から見ていたロニだからわかるのだ。
だが、奥様には知らせていないが、あの女は旦那様が内々に処分を下したとオスカーから聞いた。
ロニは、不意にオスカーのことを思い出して、頬が紅潮するのを自覚した。
いけない。ロニは小さく頭を振ると、マルグリットに集中しようと頑張った。
「その糸はどうするんですか?染めて刺繍にでもなさるんですか?」
「そうね――それよりももっと使い道があると思うの」
ロニの言葉に、マルグリットは考えに集中しているのだろう。上の空で答えたのだった。
翌日、マルグリットはバナンの工房を訪ねていた。
「糸車ですか?」
「ええ。糸の撚りが不揃いになっているのは糸車のせいではないかと思うの」
「たしかに、片手で回しながら撚りますから、どうしても粗くはなりますね」
試作品の糸を触りながら、マルグリットの仮説にバナンは頷く。
「細い糸を撚るなら独楽のほうがいいでしょうけど」
バナンの言うことは尤もだが、マルグリットは納得しない顔つきだった。
熟練であれば問題のないことだが、ヴァルデンで働く者たちは皆素人ばかりだ。
せっかく品質の良い生糸が作れるのに修練に時間をかけすぎるのは避けたかったのだ。
バナンは糸を手で何度もなぞると、あることに気がついたようだった。
「確かに、規則的な間隔で糸の撚りが荒くなってるか所がありますね――ああ、なるほど、そういうことか」
次第に一人でなにやらひとしきり呟くと、やがて顔を上げて言った。
「ちょっと試したいことができましたんで、やってみますよ。少しお時間をいただきますが、いいですかね」
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