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貧民街にいる時のカインは、裕福な平民や平騎士が着るような、素材こそ高級だが華美ではない服が多かった。見た目こそ美しく気品が滲み出ているが、気さくな性格と話し方で、身分など考えることもなく接する事が出来ていた。
だからこそ、イレリアもカインに恋心を抱くことが出来ていたのだ。
だが、今目の前にいるこの人は果たして自分の知っているカインなのだろうかと、イレリアは身じろいだ。
「見違えたよ」
部屋に入ってきたイレリアを見ると、カインはその表情を緩めた。いつもイレリアが会っていたカインだ。
イレリアの緊張が少しだけ解れたが、それでも見た事がないほど豪華な部屋に溶け込んでいるカインは、イレリアが知るカインとは別人に思えて仕方なかった。
カインは入り口でたじろいでいるイレリアに歩み寄ると、彼女の手を取ってソファにエスコートした。
誘導されるがままに腰を下ろしたソファは、イレリアが経験したことがないほど柔らかかった。床まで体が沈み込んでしまうのではないかと内心慌てたが、適度な深さで止まってくれた。
夢のような座り心地のソファの前に置かれたテーブルには、ハムやチーズを挟んだパンや、瑞々しい果物など、イレリアがこれまで見たこともない食べ物が並べられていた。
ついさっきまで私はいつもの寝床で体を横たえていたというのに……一体どうしたというの?
状況が落ち着くにつれ、イレリアの頭は混乱を極めていった。
「カイン……私、帰らないと」
イレリアは居心地が悪くなって、自分の肩を抱いて離さないカインを振り払おうと力を込めたが、カインの力の方が強く、身じろぎすらかなわなかった。
「あんなところに大事な君を返せるはずがない」
カインはイレリアの肩を抱く腕に力を込めた。
「……私の居場所はここではないわ」
イレリアは自分がとても惨めに感じられた。貧民街では感じなかった感覚だ。
これまで何度でも綺麗な格好をした平民や裕福な商人を目の前にしても、こんな気持ちになったことはなかった。
しかし、物語に聞いた天上の城のような侯爵邸に来て、みすぼらしい自分を嫌というほど自覚させられた。
その環境を当たり前と疑わずに過ごしてきたカインは、これまで出会ったどんな金持ちよりも美しく、高貴な存在で、あの街道で出会わなければ自分とは一生すれ違う事さえあり得なかった人なのだと、イレリアは痛感させられた。
こんな見たこともない柔らかな服、私が一生働いても買うことはおろか、触れる事さえ許されないものだわ。
「イレリア。僕は言ったよね。君を幸せにする権利が欲しいと」
「カイン――私は十分幸せなのよ。こんな素敵なところで生きてきたカインには理解ができないかもしれないけど」
「もっと幸せにすることができるんだよ。僕は」
「求めていないのよ。私は。働いて、みんなと助け合って生きていける事が私にとっての幸せなの。ここで生きる事ではないわ」
イレリアの強い口調に、カインは悲しそうな表情を浮かべた。
「それなら――せめて明日一日だけでいい。僕と過ごしてくれないか」
漸く取れた休日を一緒に過ごしてほしい。その程度の望みを断ることはイレリアにはできなかった。
イレリアが侯爵邸に来てから7日が経っていた。
カインの休日を一緒に過ごした翌日、貧民街に帰ろうとしたイレリアに、カインは「僕が帰るまで待っていて欲しい」と懇願した。
カインと濃密な一日を過ごして離れがたい気持ちになっていたイレリアは、共に過ごした時間を思い出して、つい承知してしまった。
カインの帰宅を待ち、食事を共にして、いざ帰ろうと切り出す前にイレリアはカインに抱きしめられ、そのままベッドになだれ込むように連れて行かれた。カインの求めに応え、気が付くと朝を迎えていた。
3日目には侯爵邸を黙って抜け出そうとしたが、侯爵邸の敷地は広かったうえに、イレリアが過ごしていた部屋は屋敷の奥に用意されていた為、玄関にたどり着くまでに使用人に見つかり、連れ戻された。
4日目にはカインはイレリアに専属の女中を付けた。
「カイン、私は戻らないと。師匠も心配しているわ」
「薬屋なら問題ない。ちゃんと毎日使いを出しているし、貧民街の人達にもちゃんと支援はしているから心配はいらない。どうか、もう少しだけでいいから僕の傍にいてほしいんだ」
イレリアの帰らせてくれという嘆願は日を追うごとに弱くなり、7日が過ぎる頃には何も言わなくなっていた。
イレリアは用意されたテラスで、女中が淹れた茶を飲みながら侯爵邸の美しい庭園を眺めていた。
ここに連れてこられた時に着せられたのは部屋着だったが、次の日の朝には貴族が着る屋内用のドレスが用意されていたし、イレリアが過ごす部屋も用意されていた。
――どうなっているのかしら。
イレリアの傍に控えている女中だって、確実に捨て子のイレリアよりいい身分だろう。
貴族の家で働く女中は、最低でも裕福な平民以上ではないと採用されないと聞いたことがある。
身元を確かなものにするため、一定以上の身分の者の推薦がないと下働きでさえ屋敷で働くことはできないのだ。
つまり、出自がはっきりしておらず、貧民街で生まれ育ったイレリアは、草竜の獣舎で飼育係をしている、あの下男よりも更に身分が低いのだ。
そんな自分がこんな上等なドレスを着て、侯爵邸のテラスで、目を合わせる事も許されなかった人達に傅かれて世話を受けているなんて――
間違っている。頭ではそうわかっていた。
せめて、自分の過ごす部屋くらいは自分で掃除をしようとしたが、魔力で動く水道も床を磨く布も初めて見るものばかりで、どうしていいかわからず、女中に尋ねたが「お嬢様は掃除などなさる必要はございません」と言われるだけで、イレリアはますます惨めな気持ちになった。
カインがいない日中は非常に居心地が悪く、早くこの屋敷から出ていきたいと思っていた。
しかし、毎日遅くまで働き、帰宅するやイレリアを見て顔を輝かせて抱き寄せ、毎夜のように激しくイレリアを求めるカインを思い出すと、イレリアはそれ以上考える事が出来なくなってしまうのだった。
だからこそ、イレリアもカインに恋心を抱くことが出来ていたのだ。
だが、今目の前にいるこの人は果たして自分の知っているカインなのだろうかと、イレリアは身じろいだ。
「見違えたよ」
部屋に入ってきたイレリアを見ると、カインはその表情を緩めた。いつもイレリアが会っていたカインだ。
イレリアの緊張が少しだけ解れたが、それでも見た事がないほど豪華な部屋に溶け込んでいるカインは、イレリアが知るカインとは別人に思えて仕方なかった。
カインは入り口でたじろいでいるイレリアに歩み寄ると、彼女の手を取ってソファにエスコートした。
誘導されるがままに腰を下ろしたソファは、イレリアが経験したことがないほど柔らかかった。床まで体が沈み込んでしまうのではないかと内心慌てたが、適度な深さで止まってくれた。
夢のような座り心地のソファの前に置かれたテーブルには、ハムやチーズを挟んだパンや、瑞々しい果物など、イレリアがこれまで見たこともない食べ物が並べられていた。
ついさっきまで私はいつもの寝床で体を横たえていたというのに……一体どうしたというの?
状況が落ち着くにつれ、イレリアの頭は混乱を極めていった。
「カイン……私、帰らないと」
イレリアは居心地が悪くなって、自分の肩を抱いて離さないカインを振り払おうと力を込めたが、カインの力の方が強く、身じろぎすらかなわなかった。
「あんなところに大事な君を返せるはずがない」
カインはイレリアの肩を抱く腕に力を込めた。
「……私の居場所はここではないわ」
イレリアは自分がとても惨めに感じられた。貧民街では感じなかった感覚だ。
これまで何度でも綺麗な格好をした平民や裕福な商人を目の前にしても、こんな気持ちになったことはなかった。
しかし、物語に聞いた天上の城のような侯爵邸に来て、みすぼらしい自分を嫌というほど自覚させられた。
その環境を当たり前と疑わずに過ごしてきたカインは、これまで出会ったどんな金持ちよりも美しく、高貴な存在で、あの街道で出会わなければ自分とは一生すれ違う事さえあり得なかった人なのだと、イレリアは痛感させられた。
こんな見たこともない柔らかな服、私が一生働いても買うことはおろか、触れる事さえ許されないものだわ。
「イレリア。僕は言ったよね。君を幸せにする権利が欲しいと」
「カイン――私は十分幸せなのよ。こんな素敵なところで生きてきたカインには理解ができないかもしれないけど」
「もっと幸せにすることができるんだよ。僕は」
「求めていないのよ。私は。働いて、みんなと助け合って生きていける事が私にとっての幸せなの。ここで生きる事ではないわ」
イレリアの強い口調に、カインは悲しそうな表情を浮かべた。
「それなら――せめて明日一日だけでいい。僕と過ごしてくれないか」
漸く取れた休日を一緒に過ごしてほしい。その程度の望みを断ることはイレリアにはできなかった。
イレリアが侯爵邸に来てから7日が経っていた。
カインの休日を一緒に過ごした翌日、貧民街に帰ろうとしたイレリアに、カインは「僕が帰るまで待っていて欲しい」と懇願した。
カインと濃密な一日を過ごして離れがたい気持ちになっていたイレリアは、共に過ごした時間を思い出して、つい承知してしまった。
カインの帰宅を待ち、食事を共にして、いざ帰ろうと切り出す前にイレリアはカインに抱きしめられ、そのままベッドになだれ込むように連れて行かれた。カインの求めに応え、気が付くと朝を迎えていた。
3日目には侯爵邸を黙って抜け出そうとしたが、侯爵邸の敷地は広かったうえに、イレリアが過ごしていた部屋は屋敷の奥に用意されていた為、玄関にたどり着くまでに使用人に見つかり、連れ戻された。
4日目にはカインはイレリアに専属の女中を付けた。
「カイン、私は戻らないと。師匠も心配しているわ」
「薬屋なら問題ない。ちゃんと毎日使いを出しているし、貧民街の人達にもちゃんと支援はしているから心配はいらない。どうか、もう少しだけでいいから僕の傍にいてほしいんだ」
イレリアの帰らせてくれという嘆願は日を追うごとに弱くなり、7日が過ぎる頃には何も言わなくなっていた。
イレリアは用意されたテラスで、女中が淹れた茶を飲みながら侯爵邸の美しい庭園を眺めていた。
ここに連れてこられた時に着せられたのは部屋着だったが、次の日の朝には貴族が着る屋内用のドレスが用意されていたし、イレリアが過ごす部屋も用意されていた。
――どうなっているのかしら。
イレリアの傍に控えている女中だって、確実に捨て子のイレリアよりいい身分だろう。
貴族の家で働く女中は、最低でも裕福な平民以上ではないと採用されないと聞いたことがある。
身元を確かなものにするため、一定以上の身分の者の推薦がないと下働きでさえ屋敷で働くことはできないのだ。
つまり、出自がはっきりしておらず、貧民街で生まれ育ったイレリアは、草竜の獣舎で飼育係をしている、あの下男よりも更に身分が低いのだ。
そんな自分がこんな上等なドレスを着て、侯爵邸のテラスで、目を合わせる事も許されなかった人達に傅かれて世話を受けているなんて――
間違っている。頭ではそうわかっていた。
せめて、自分の過ごす部屋くらいは自分で掃除をしようとしたが、魔力で動く水道も床を磨く布も初めて見るものばかりで、どうしていいかわからず、女中に尋ねたが「お嬢様は掃除などなさる必要はございません」と言われるだけで、イレリアはますます惨めな気持ちになった。
カインがいない日中は非常に居心地が悪く、早くこの屋敷から出ていきたいと思っていた。
しかし、毎日遅くまで働き、帰宅するやイレリアを見て顔を輝かせて抱き寄せ、毎夜のように激しくイレリアを求めるカインを思い出すと、イレリアはそれ以上考える事が出来なくなってしまうのだった。
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