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007.

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「殿下、お食事の準備が整いました。お持ちいたします」

 ディーノの声からしばらくして、テーブルに料理が載せられていく。聞くと、フィオはこの執務室か隣の居室で食事を摂ることが多いのだと言う。
 食前酒と果実水で乾杯をして、春鮭とオレンジトマトのカルパッチョ、黒色牛フィレ肉のステーキ、春野菜のグリルを口に運ぶ。
 美味しいはずなのだが、後ろめたさからあまり味がしない。それでも、ルーチェは笑顔を浮かべて食べる。

「結婚式は半年後、ううん、四ヶ月後くらいにしようか。ドレスも指輪も作らなければならないし、この邸も改装しなければならないからね」
「改装なさるのですか?」
「ルーチェの部屋が必要でしょ。ジラルドの部屋を改装するよ」

 リーナが言っていた通り、ジラルドが花と蔦の宮殿へ移り住むのだろう。三階にフィオとルーチェが住み、二階にはリーナが変わらずに住むのだ。

「結婚式のことも、リーナと一緒に決めてしまって構わないよ。予算が潤沢にあるわけではないけれど、そのあたりのことはリーナのほうが詳しいからね。昼間に二人が決めたことを、僕が夜になって変更することはないから安心して」
「しかし……」
「どうしても僕と二人で決めたいことがあれば、夜に話をしよう。それで構わないかな?」

 婚約中は星の別邸に自由に出入りしてもいいとフィオは言う。改装が終わるまで、二階の客室をルーチェが自由に使っても構わないとも。

「日中には会えないのですね」
「ごめんね。結婚後も夜にしか会えないんだ。長いこと患っているせいか、僕は看病されるのが苦手でね。身の回りのことも自分でできるから、日中は僕の部屋には入ってこないでもらえると助かる」

 フィオは徹底して「夜」にしか会えないと言う。看病も必要がない。本当に吸血鬼みたいだとルーチェは思う。不可思議であっても、それを了承するしかないのだ。

「だから、日中はリーナとアディと過ごしてやってくれないかな。結婚後は王子妃として、リーナの公務を手伝い、僕の代わりをお願いしたい」

 リーナも同じことを言っていた。昨日の今日のことであるのに、随分と根回しのいいことだ。おそらく、兄妹の間でずっと話し合われてきたのだろう。

「髪、綺麗だね。よく似合っている」

 夏の葉っぱのような瞳に見つめられて、ルーチェは困惑する。菜の花色の美しい髪と比べると、短く切った髪など大したものではない。

「短いほうが色々と都合がいいのです。みっともないと父母からはよく叱られていましたが、姉も、友人たちも格好いいと褒めてくれましたので」
「葡萄ソーダのような色、格好良くて僕は好きだな」

 そんなふうに褒められるとくすぐったい気がして、ルーチェはぎこちなく笑みを浮かべる。自分は「可愛い」からは程遠い存在だということをルーチェは認識している。「格好いい」がちょうどいいのだと。

「ここでは好きなような格好をしていいよ。男装をやめろとか、ドレスを着ろとか、僕から強制することはないからね」
「……構わないのですか?」
「もちろん。自分で褒めるのも何だけど、我が王家は割と多様性を認めているからね。役者が女性ばかりの花鳥歌劇場も大盛況だし、昨日の礼服も素敵だった、とリーナが褒めていたよ。公務のときはルーチェを男装させるつもりじゃないかな」
「それは……大変ありがたいことです。私はあまりドレスを着るのが好きではありませんから」

 フィオは「苦しいよね」と頷いている。ドレスを着たことがあるのかという視線で見つめると、フィオは慌てて「と、リーナがよく言っているからね」と付け加える。どうやら王子と王女は仲がいいらしい。

「結婚式だけは我慢して着てくれると嬉しいな」
「はい」
「ありがとう。さすがに僕がドレスを着るわけにはいかないからね」

 リーナと同じ顔なのだから、フィオがドレスを着ても違和感はないだろう。化粧次第では、ルーチェよりもずっと美しく仕上がりそうだ。女装したフィオと男装した自分の結婚式を想像して、ルーチェは苦笑する。

「ねぇ、ルーチェ。あなたこそ僕で構わないの?」
「構いません。殿下からのご配慮も大変嬉しく思います」
「そう。なるべく寂しい思いをさせないようにするから」

 今はまだ婚約をした実感がない。結婚したあと、夜にしか夫に会えないのならば、寂しいと思うのだろうか。
 ルーチェは自分の両親や兄夫婦を思い浮かべる。父も兄も一つ時を過ぎた頃から三つ時になるまで働いている。夫婦が顔を合わせて語らうのは、夜に限られるものだ。
 普通の夫婦と違うのは、それが休日も続くということ。毎日ずっと夜だけにしか会えない夫だということだ。しかし、リーナとアディがそばにいるのならば、寂しくはないだろう。

「リーナとアディをよろしく頼むね」

 フィオはそればかりだ。まるで自分のことなどどうでもいいとでも言わんばかりに、妹と猫のことを心配している。それが兄の愛情だとしても、ルーチェには不思議なものとして映るのだった。



 デザートまで食べ終えると満腹になる。いくら二階の客室を自由に使ってもいいと言われても、今日泊まっていくのは気が引けるため、ルーチェは帰宅することにした。
 フィオとともに階下へ下り、応接室へ向かうと、楽しそうな声が聞こえてきた。二人で顔を見合わせながら応接室の扉を開けると、そこには大きな犬と、それをぐしゃぐしゃに撫で回すエミリーの姿があった。

「エミリー?」
「あっ、ルーチェ様! 申し訳ございません、こんなはしたない……ふふ、やだ、くすぐった……申し訳」

 エミリーをベロベロと舐め回しているのは、どうやらジラルドの飼い犬らしい。フィオは額に手をやり、「……ジラルド」と困ったように呟いた。

「懐かれたようだね、エミリー」
「ふふ、ルーチェ様、この子すごく可愛いんです。すごく人懐っこくて」

 さすがジラルドの飼い犬だ。毛の色だけでなく性格まで飼い主に似るらしい。だからこそ、ジラルドが飼っているのだろうとルーチェは思う。

「こら、ラルド。二人とも帰るんだから、邪魔をしてはいけないよ」

 フィオの言葉がわかるのか、飴色の犬ラルドはくぅんと寂しそうに鳴き、先程までぶんぶんと振っていたしっぽをだらんと垂れ下げてしまう。

「ええと、初めまして、エミリー。僕はフィオリーノ。ルーチェの侍女をしているということは、お父上が爵位を持っているのかな?」
「あ、はい。父はピエテッロ男爵です。わたしは足が悪く、行き遅れておりますので、ルーチェ様にお仕えしているのです……ふふ、くすぐっ」

 エミリーの足元をラルドがぐるぐると回り、裾を噛んだり足に鼻をくっつけたりして、彼女の気を引いている。フィオとルーチェは顔を見合わせ、笑う。

「次に邸に来るときは、エミリーもぜひ連れてきてほしいな。彼女の客室も準備しておくから」
「恐れ入ります。では、結婚の際、エミリーをこちらに住まわせてもよろしいですか?」
「もちろん。気心の知れた人がそばにいるのはいいことだよ。改装するところが増えたね」

 ルーチェたちが馬車に乗り込むときも、ラルドはエミリーの裾をがっしりと咥えて離さなかった。ジータに叱られてようやくしょんぼりとうなだれながらエミリーを解放したのだった。

 そうして、翌日にはフィオリーノ王子とルーチェ・ブランディの婚約が告知されることとなった。


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