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篠宮小夜の受難(三十二)

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 シャワーを浴びて、ご飯を食べに出かける。近くのファミリーレストランは土曜日とはいえ生徒たちがいるかもしれないので、行くことはできない。
 宗介たっての希望でどら猫亭へ行ってみたけれど、生憎の満席。奥様の「また来てくださいね」に宗介は悔しがる。
 生徒たちが絶対に来られない居酒屋は、さすがに土曜の夜とあってなかなか空席がない。
 仕方なく、行きつけのラーメン屋さんに入る。

「……ごめんね、宗介の誕生日なのに」
「いいですよ。小夜と一緒にいられるなら」

 宗介の笑顔に裏はない。ラーメン屋でも、イタリアンでも、宗介はきっと喜ぶだろう。私がそばにいるだけで、彼は笑顔になる。痛いほど実感している。

「味噌ラーメン美味しそう」
「じゃあ、そっちの塩も一口ちょうだい」

 厚切りチャーシューを満面の笑みで飲み込みながら、宗介は「美味しい」と私の好きなラーメン屋を褒めてくれる。それが、とても嬉しい。
 私が「煮玉子が好き」だと言えば、煮玉子を半分分けてくれる。それも、とても嬉しい。

 幸せだな、と思う。
 礼二は猫舌で、ラーメンは好きではなかったから、いつも一人で来ていたのだ。食の好みが同じで、二人で「美味しい」と言えるのは、とても幸せなことだと思う。

「ラーメン、美味しかった」
「でしょう? 私はあそこの塩ラーメンが一番好きなの」
「餃子も良かった。美味しかった」
「そう。餃子だけじゃなくて、チャーハンも唐揚げも美味しいの。だから、すぐ食べすぎちゃう」

 帰り道。
 宗介は優しい視線で私を見下ろして、笑う。

「また一緒に行きたい」
「ええ、また」

 宗介が少し私のほうに寄ってくる。避けて歩道の端に寄ろうとすると、「手を」と一言だけ言って、右手を出してきた。

「……繋ぐ、の?」
「繋がないの?」

 意地悪な視線。
 この姿を生徒や先生、保護者に見られてしまったら? 相手が実習生だと知られてしまったら? そんなことを一瞬考えて躊躇する。
 たぶん、それさえも、宗介はわかっている。わかった上で、手を繋ごうと言っている。
 度胸があるのか、考えなしなのか。私にはまだわからない。

「繋ぎ、ます」

 私の左手が宗介に引っ張られる。さっきまでラーメンを食べていたためか、宗介の手のひらはあったかい。
 手を繋ぐのは、嫌いではない。
 宗介を見上げると、嬉しそうにニコニコ笑っている。そんなに嬉しいかと聞いたら、きっと宗介は「当たり前」だと答えそうだ。
 横からの笑顔に、ちょっと、ドキドキする。今なら、いろいろ聞いてもいいだろうか。私は彼のことをまだあまり知らない。

「宗介は、いつから私のことが、その……」
「出会ったときから、小夜のことが好きだよ」

 私が教育実習で学園に来たときかな? そのときは宗介を指導したりはしていないから、挨拶をしたときに一目惚れをしたというやつだろうか。

「だから、こんなふうに手を繋いで歩くことができて嬉しい。幸せだよ、本当に」
「……はい」
「しかも、俺の誕生日に小夜がプレゼントされるなんて、六年前の俺に教えてやりたいくらい」

 うん?
 私は空いている右手で指折り数える。私は今年二十七だから、教育実習は五年前のはず。計算が合わない?

「六年前?」
「六年前の昨日」
「……教育実習では、ない?」
「はい」

 え?
 教育実習より前に、宗介に会っている?
 宗介を見上げても、笑うだけでヒントはくれない。思い出せ、ということか。

「六年越しの想いが小夜に伝わったから、『長かった』って言ったんだよ、俺」
「それはそれは……だいぶお待たせしたみたいで」
「本当に。いっぱい待った。待ちくたびれた」

 宗介は繋ぐ手にぐっと力を込める。痛い、痛いよ! 私、怒られるようなこと、何もしていないよ!

「だから、今夜はとことん付き合って」
「……」
「俺の誕生日だからね」

 楽しみだなぁと宗介は笑う。

「今夜は眠りたくないな。ずっと小夜を貪りたい」

 さっきのセックスを思い出して引きつった笑みになってしまう。あんな濃厚なのは当分はいいです!

「そういえば、後朝(きぬぎぬ)の歌、あったよね。確か、君がため?」

 百人一首の歌に後朝の歌はいくつかある。けれど、「君がため」から始まる歌は、確か藤原義孝の。

「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」

 あなたのためなら捨てても惜しくはないと思っていたこの命でさえ、こうしてあなたに会えた今となっては、少しでも長くありたいと思うようになりました。

 ――あなたと、末永く一緒にいられたら幸せです。

「まぁ、まだ朝ではないけどね」
「……宗介」

 恋した女性と初めて一夜過ごした、翌朝の歌。もっと長く、あなたと一緒に生きていきたい。そういう想いの歌だ。
 藤原義孝は二十一歳の若さで亡くなってしまった。恋する人と長く一緒に生きていたかっただろうに。

「私、宗介とずっと一緒に生きたいかどうかは、まだ……」
「いいよ」

 私の不安も、優柔不断さも、ぜんぶ飲み込む言葉が、簡単に発せられて戸惑う。宗介はぎゅうと私の手を強く握る。

「俺の六年に早く追いついて、なんて小夜には言わないから安心して。今は隣にいてくれるだけで幸せだし、今後もそうであって欲しい」
「でも、そんな状態で結婚なんてやっぱり……」
「結婚してからも、気持ちが俺に向くまでずっと待ってる。向くまで俺も努力する。向いてからも努力するから」

 なんて強い、決意の言葉。
 なんて恐ろしい、執着の言葉。

「小夜の夫の座は絶対に誰にも譲らない。絶対に、誰にも、小夜を渡さない」

 何でそこまで、私にこだわるんだろう?
 こんなふうに執着されるような恋愛をしたことがなかったから――比較対象が礼二しかいないから、よくわからない。

「私、普通の女だよ? 普通の国語教師だよ」
「わかっているよ。恋に落ちるのに理由が必要だなんて言わないよね?」
「……確かに」

 自分の気持ちが簡単に制御できるなら、誰も悩んだりはしない。梓から、なんでそんな人を好きになったのか、と礼二のことを責められても答えようがなかった。
 それと同じだとは言わないけれど、宗介も、ただ、私のことが好きなのだ。きっと。

「小夜の好きなところを教えてもらいたいなら、教えるよ」
「っへ?」

 いつの間にか、見慣れたエントランスに着いていた。パネルに鍵を差し込んで、ロックを解錠する。

「知りたい? 一晩かけて教えてあげる」

 いや、あれ以上濃厚な時間を過ごすのはしんどいです! 非常にしんどいです!

「小夜」

 人目はなくても、エレベーターはカメラがあるので駄目! と、必死で宗介から逃げて、部屋へとたどり着く。

「小夜」

 背後から聞こえる欲情の声を振り払いながら、部屋の鍵を開けて。

「捕まえた、小夜」

 後ろから抱きすくめられながら、その暖かさを好ましいと思う自分に驚く。

「二回戦、頑張ろうか」

 もう隠すことなく私に硬く滾った熱を押しつけながら、宗介は耳元で開戦の狼煙を上げる。

「宗介、もう少し、我慢――」
「しない」

 即答の声にため息をつきながら、後ろを振り向く。性急に重ねられる唇に、彼の余裕のなさを感じながら、苦笑する。
 今日は玄関で最初にキスしてばかりだわ。


◆◇◆◇◆


「誕生日おめでとう」

 ぎゅうぎゅうと抱きついて離れない宗介の魔の手から何とか逃れながら、リビングに置いたままだった紙袋を渡す。

「ありがとうございます」
「ケーキはないよ。今からコンビニで買ってきてもいいけど、明日どこかで食べよ?」
「はい、それでいいので。開けても?」
「どうぞー」

 ピアスが嬉しかったから、身につけていられるものがいいなと思った。
 でも、宗介はアクセサリーに興味はなさそうだったし、ネクタイだとありきたりかな、と思った。時計は好みもあるし、ネクタイピンもつけていないし、何にしようか結構悩んでしまった。

「……ベルト?」
「そう、スーツのベルト! 抱き心地から宗介のウエストサイズを想像したから、長さは大体合っていると思う。でも、穴が開いてるんじゃなくて、自由な位置で留められるんだって」
「へぇ、面白い」

 バックルが特殊な仕様になっていて、自由な場所で留められる。太っても痩せても大丈夫ですよと店員さんから言われた。本革製だから、長く使えると思う。

「ピアスには魔除けの意味があって、俺以外の虫がつかないようにと願ったけど、ベルトは何だろう?」
「……意味とかないよ。これから先スーツもよく着るし、長く身につけていてもらえるかなと思って」
「なるほど。俺の下半身を縛りつけておくためのものか」

 勝手に解釈して納得している宗介を冷ややかな目で見つめながら、「そんなんじゃないし」と呟く。ほんと、絶対そんな意味じゃないのに!

「俺の下半身じゃないとすれば――」
 
 するりと手首が取られ、輪っかがはめられる。輪っかがベルトであると気づいた瞬間に、その後の展開を想像して、絶望した。

「や、やだ、やめて!」
「縛られたいなら、そう言ってくれたらいいのに」

 両手首がぎゅうと締まる。パチンと音がして、宗介がニヤリと笑う。
 私がプレゼントしたベルトは、ベルトの役目を開始する前に、私の手首を縛り上げる道具として使われてしまった。

「ベルトを見るたびに、今夜のことを思い出すくらい――気持ち良くなろうね」

 宗介は耳元でそう笑って、私をソファに押し倒した。
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