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【回想】里見宗介の決断
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「なんで里見くんは彼女作らないの?」
誠南学園から誠南大学へ進学する生徒は多く、俺もそのうちの一人であった。しかし、学部や学科が違えばかつてのクラスメイトや同級生と顔を合わせる機会はほとんどなかったし、会ったとしても簡単に挨拶するくらいで終わっていた。
彼女を除けば。
「椿、邪魔」
「うん、邪魔してる」
大学二回生になり、高村礼二とはもう別れた彼女には利用価値はない。俺は椿を焚きつけたし、ホテル出入口での写真も撮ったが、その後の二人の関係には全く興味がない。そもそも、最初から興味はない。
「何で邪魔するわけ?」
テキストを取り上げられて試験勉強ができなくなった俺は、椿奈保子を睨む。椿は頭上でテキストをヒラヒラさせながら、笑う。
広い食堂には、俺と同じように試験勉強をしている学生は多い。そこに椿が現れて、勉強を邪魔されている。
「相変わらず、ガリ勉だね」
「目標があるから」
「へぇ。夢に向かって頑張る人は好きだな」
大学生になって、髪の色を明るく染め、緩いパーマを当てた椿は、化粧をするようになったこともあり、高校時代と比べるとかなり華やかになった。胸元がざっくり開いたトップスに、ホットパンツ。服装もだいぶ派手になっている。
経済学部に進学した椿とは、たまに顔を合わせる程度だったが、俺が試験勉強で教育学部棟に近い食堂を使っていることを知られてからは、毎日のように現れて、このように俺の邪魔をする。
非常に迷惑している。ものすごく迷惑だ。
「バイトは順調? なんで大塚塾に行かなかったの?」
「……別に。家から近い塾にしただけだよ」
塾講師のバイトをしなくても、俺の貯金額は程よくあった。家から通っているから、出費も少ない。必要なのは携帯代と交際費くらいだ。
だから、両親からもバイトをするのは一度は反対された。けれど、「教師になる」という目標のため、説得をしてバイトをさせてもらうことになったのだ。学業を疎かにしない、という条件付きで。
ゆえに、試験勉強ができずに単位を落とすのは、非常に困るのだ。
「高校のときはあれだけ相談に乗ってくれたのに、今は冷たいんだね」
「今は優先順位が違うから」
椿の恋愛トークに付き合う理由も義理もない。そもそも、彼女に関わるメリットがない。
高村礼二は相変わらず別の女子高生と付き合い続けているが、小夜先生と別れた気配はない。それは確認済みだ。
「椿、邪魔しないで」
「じゃあ、頼み事を一つ叶えてくれたら、ね」
勝ち誇ったような笑みを浮かべて、椿は俺を見下ろす。いや、見下(みくだ)しているのか。どちらにしろ、気分は悪い。
高村礼二にあてがうのは、椿ではないほうが良かったのかもしれない。厄介すぎる。
「里見くん、私と付き合わない?」
「付き合わない」
「即答だねぇ。テキストはいらないの?」
「先輩からもらうよ。じゃ、さよなら」
手早く荷物をまとめると、大きくため息をつく。勉強場所をまた見つけなければ。
本当に、馬鹿な女。
食堂のコーヒーに玉置珈琲館のブレンドコーヒーが使われているから、ここが気に入っていたのに。最悪だ。
「ちょっと、待って! 里見くん!」
椿が慌てて追いかけてくる。あぁ、もう、本当に迷惑だ。そのテキストならあげるから、ついてこないで欲しい。
「私、本当に里見くんのことが好きなの!」
「俺は好きじゃない」
「知ってるよ、しの先生のことまだ好きなんでしょ?」
俺は早歩きで逃げる。椿は小走りで追いかけてくる。迷惑だ。とてつもなく迷惑だ。
「私、二番目でいいから!」
一番になろうともしない人間の言葉に耳を貸す道理はない。
なんで、好きな人を前にして「二番目でいい」なんて言えるんだ? 失礼だろ。相手にも、自分にも。もう少し、自分を大事にしろよ。「あなたの一番にして!」くらい、言えよ。
馬鹿じゃねえの。
俺は最初から、一番しか目指さない。椿の考えは、受け入れられない。
「私、本当に里見くんのことが好き!」
「……」
「体だけの関係でもいいから!」
「……」
「お願い!」
はぁ、と一つため息を吐き出す。これだけの大声で馬鹿丸出しの告白をされたのでは、俺の名前に傷がつく。
「里見くん!」
俺が立ち止まったのを見て、椿は嬉しそうに駆け寄ってくる。テキストを手渡してくるので、それを受け取る。取り返すのは諦めて先輩から貰い受けようと考えていた俺にとっては、必要のないものではあったけれど、返してくれるならそれでいい。
「……お前、馬鹿なの?」
「馬鹿じゃないもん」
椿は頬をふくらませる。世間一般では、かわいい仕草、というものなのだろうが、俺には逆効果だ。非常に不愉快だ。
お前は何か勘違いをしていないか? 俺は、お前を受け入れるつもりは、ない。
俺と腕を組んでこようとした椿から距離を置きながら、彼女を睨む。
「迷惑だから、そういうの、やめて」
「……迷惑?」
「すげー迷惑。俺、椿と付き合うつもりはないし、体だけの関係にもならない」
「なん、で?」
「俺には好きな人がいる。俺はその人の一番でないと気が済まない」
涙を浮かべた椿を睨んだまま、俺は利用価値のなくなった彼女を切り捨てる。
「二番目でいい、なんて馬鹿みたいな考え方の椿とは、絶対に価値観が合わない。同じような価値観の人間を見つけてくれ」
馬鹿だよ、椿。
そんな考え方で、幸せになれるわけないだろ。
俺の容赦のない返事に、ここが中庭であることすら忘れて号泣する椿。彼女の泣き声を背にして、俺は安息の地を求めて歩き出す。
俺の欲しい人はずっと一人だけ。
小夜先生だけが欲しい。
◆◇◆◇◆
玉置珈琲館のブレンドコーヒーを小夜先生は気に入っていたようで、国語準備室に必ず常備していた。よく買いに行っているのだろうと考えて、俺も珈琲館によく行くようになった。
「ブレンドで」
通りが見渡せる窓際の席に座り、奥さんにそう告げてテキストとノートを開く。
「試験勉強?」
「はい。二週間くらい、通わせてもらってもいいですか? 店が混んできたら、帰るので」
「いいわよ。うちが満席になることなんてほとんどないからね」
ごゆっくり、と微笑んで奥さんはカウンターの向こうへ消える。マスターは無言でサイフォンの準備をする。
玉置珈琲館は、学園の近くにある小さな喫茶店だ。カウンター席五つと、テーブル席四つ、個室が二つ。個室は学園関係者の会議などで使われることがあるという。
白とダークブラウンを基調とした内装で、レトロな雰囲気。けれど、開店して十年ちょっとなので、決して古くはない。
カウンターの壁面には大きな棚が据え付けられており、販売用のコーヒー豆やディスプレイ用の缶などが所せましと置いてある。見ているだけでも面白い。マスターは無口なので、コーヒーの薀蓄などを語ってくれることはないけれど。
コーヒーを淹れるのは、マスター。ホールで注文を取ったり軽食を準備するのが奥さん。ちなみに、ブレンドコーヒーと焼きハンバーグ定食が俺のお気に入りだ。
玉置珈琲館を訪れるのは、ほとんどが近所の人か学園関係者。にもかかわらず、知り合いや関係のあった先生にはまだ会ったことがない。もちろん、小夜先生にも。
まぁ、バレたら面倒なので、逆光で顔が見えづらい窓際の席に座っているのだ。
「はい、ブレンド」
置かれたコーヒーと、ホイップクリームの添えられたシフォンケーキ。ケーキは頼んでいない。
「それは里見さんへのサービス。試験、頑張ってね」
「ありがとうございます!」
あぁ、落ち着く。
国語準備室でよく嗅いでいたコーヒーの匂いだ。もう、それだけで、小夜先生の顔が思い出せる。小夜先生のことを考えてしまう。
いや、試験勉強、試験勉強!
頭を切り替えて、テーブルの上のものに目を通し始める。
長居しても嫌な顔をされないくらいには、マスターと奥さんの二人と仲良くなっていた。常連のうちの一人だと思われていたら嬉しい。
誠南学園の卒業生で、今は誠南大学へ通っていることを伝えたら、「うちの娘と同じだわ」と喜ばれ、「誠南学園の学園長は実はマスターの父親」だと教えてもらえた。
なるほど、だから、誠南大学の食堂にコーヒーを卸していたのかと納得できた。学園全体にコーヒーを卸しているなら、結構な収益になるはずだ。喫茶店自体が赤字でも構わないのだろう。
……本当は、小夜先生に会いたかった。
それが、正直な気持ちだ。
卒業式に振られてからは、小夜先生に会っていない。珈琲館に出入りしていれば、いつか会えるのではないか、そんな淡い期待を抱いていた。
通い始めて、二年。まぁ、二年も会えていないということだけれど。
現実はそう甘くはなかった、ということだ。
「こんにちはぁ!」
だから、空耳かと思った。
あまりに妄想しすぎて、俺の頭がおかしくなったのかと思った。
「今日ね、名古屋で研修だったの。はい、おばちゃん、お土産!」
「あら、小夜ちゃん、いつもありがとう。小倉トーストラングドシャ?」
「コーヒーに合うかな? あ、ブレンド一杯。それ飲んだら学園に戻らなきゃ」
カウンターに座ったのは、紛れもなく小夜先生。
その姿を見た瞬間に、俺の心臓がばくばくと音を立て始める。三人に聞こえてしまうかもしれないと思えるくらい、その音はうるさい。
やだな。
まだ、諦めきれないんだ。
いや、諦めてなんか、いないんだ。
体が、こんなに熱く、小夜先生を欲している。怖いくらいに、求めている。
思い知る。
俺は、小夜先生が、好きで好きでたまらない。
二年離れてもなお、愛しい。
少し、髪が伸びた。少し、痩せた。パンツスーツとは珍しい。
あぁ、相変わらずかわいい。
小夜先生はスーツケースを置いて、カウンター越しにマスターや奥さんと話している。カウンターの椅子が高すぎるのか、足をぷらぷらさせながら。
「名古屋は喫茶店が多くて、どこに入ろうか悩んじゃった。でも、やっぱりここのブレンドが一番好きだなぁ」
「うふふ。小夜ちゃんたら、うまいんだから」
敬語ではなく、砕けた話し方の小夜先生を、初めて見たかもしれない。
俺は、見つからないように大人しくしている。小夜先生に見つかったら、ストーカーかと思われてしまう。いや、結構ストーカーまがいのことをしている自覚はあるけれど。
心の準備というものが。
「梓はアメリカで元気にやってる?」
「さーあ。相変わらず手紙もメールもないわよぉ」
「梓らしいねぇ。あ、ラングドシャ美味しい!」
「あら、ほんと。小倉トーストは名古屋のモーニングで出されるから、コーヒーにも合うかしら」
三人の話を聞きながら、必要なことはメモを取る。試験勉強なんてできるわけがない。
梓、というのが夫婦の娘だということは知っている。けれど、小夜先生と友達だったとは知らなかった。
ブレンドコーヒーを飲みながら、小夜先生は楽しそうに夫婦に話しかけている。
その姿に、嫉妬さえ覚える。絶対に、俺には向けてくれない笑顔。うらやましい。
醜い。こんな浅ましい感情が自分の中にあるなんて、本当に、醜い。
まだ、二年。もう、二年。焦がれても、欲しくても、まだ手に入れられない。
なんて酷い鎖で、あなたは俺の心を縛り付けたんだ。
苦しい。楽になりたい。
五年は、長すぎる――。
けれど。
完全に狂ってしまうには、まだ早い。
「じゃあまた来るね!」
会計を済ませて、学園のほうへ歩いていく小夜先生の後ろ姿を見つめながら。俺は一つの決断をする。
五年は長い。
ならば、期間を縮めよう。
四年、いや、三年とちょっと。教育実習のときに、何とか、彼女を手に入れるんだ。
そのために、できることは今のうちにやっておこう。単位取得も、学園への根回しも、高村礼二のことも。できる限り。
あと、二年。
全力で、やれ。里見宗介。やるんだ。
誠南学園から誠南大学へ進学する生徒は多く、俺もそのうちの一人であった。しかし、学部や学科が違えばかつてのクラスメイトや同級生と顔を合わせる機会はほとんどなかったし、会ったとしても簡単に挨拶するくらいで終わっていた。
彼女を除けば。
「椿、邪魔」
「うん、邪魔してる」
大学二回生になり、高村礼二とはもう別れた彼女には利用価値はない。俺は椿を焚きつけたし、ホテル出入口での写真も撮ったが、その後の二人の関係には全く興味がない。そもそも、最初から興味はない。
「何で邪魔するわけ?」
テキストを取り上げられて試験勉強ができなくなった俺は、椿奈保子を睨む。椿は頭上でテキストをヒラヒラさせながら、笑う。
広い食堂には、俺と同じように試験勉強をしている学生は多い。そこに椿が現れて、勉強を邪魔されている。
「相変わらず、ガリ勉だね」
「目標があるから」
「へぇ。夢に向かって頑張る人は好きだな」
大学生になって、髪の色を明るく染め、緩いパーマを当てた椿は、化粧をするようになったこともあり、高校時代と比べるとかなり華やかになった。胸元がざっくり開いたトップスに、ホットパンツ。服装もだいぶ派手になっている。
経済学部に進学した椿とは、たまに顔を合わせる程度だったが、俺が試験勉強で教育学部棟に近い食堂を使っていることを知られてからは、毎日のように現れて、このように俺の邪魔をする。
非常に迷惑している。ものすごく迷惑だ。
「バイトは順調? なんで大塚塾に行かなかったの?」
「……別に。家から近い塾にしただけだよ」
塾講師のバイトをしなくても、俺の貯金額は程よくあった。家から通っているから、出費も少ない。必要なのは携帯代と交際費くらいだ。
だから、両親からもバイトをするのは一度は反対された。けれど、「教師になる」という目標のため、説得をしてバイトをさせてもらうことになったのだ。学業を疎かにしない、という条件付きで。
ゆえに、試験勉強ができずに単位を落とすのは、非常に困るのだ。
「高校のときはあれだけ相談に乗ってくれたのに、今は冷たいんだね」
「今は優先順位が違うから」
椿の恋愛トークに付き合う理由も義理もない。そもそも、彼女に関わるメリットがない。
高村礼二は相変わらず別の女子高生と付き合い続けているが、小夜先生と別れた気配はない。それは確認済みだ。
「椿、邪魔しないで」
「じゃあ、頼み事を一つ叶えてくれたら、ね」
勝ち誇ったような笑みを浮かべて、椿は俺を見下ろす。いや、見下(みくだ)しているのか。どちらにしろ、気分は悪い。
高村礼二にあてがうのは、椿ではないほうが良かったのかもしれない。厄介すぎる。
「里見くん、私と付き合わない?」
「付き合わない」
「即答だねぇ。テキストはいらないの?」
「先輩からもらうよ。じゃ、さよなら」
手早く荷物をまとめると、大きくため息をつく。勉強場所をまた見つけなければ。
本当に、馬鹿な女。
食堂のコーヒーに玉置珈琲館のブレンドコーヒーが使われているから、ここが気に入っていたのに。最悪だ。
「ちょっと、待って! 里見くん!」
椿が慌てて追いかけてくる。あぁ、もう、本当に迷惑だ。そのテキストならあげるから、ついてこないで欲しい。
「私、本当に里見くんのことが好きなの!」
「俺は好きじゃない」
「知ってるよ、しの先生のことまだ好きなんでしょ?」
俺は早歩きで逃げる。椿は小走りで追いかけてくる。迷惑だ。とてつもなく迷惑だ。
「私、二番目でいいから!」
一番になろうともしない人間の言葉に耳を貸す道理はない。
なんで、好きな人を前にして「二番目でいい」なんて言えるんだ? 失礼だろ。相手にも、自分にも。もう少し、自分を大事にしろよ。「あなたの一番にして!」くらい、言えよ。
馬鹿じゃねえの。
俺は最初から、一番しか目指さない。椿の考えは、受け入れられない。
「私、本当に里見くんのことが好き!」
「……」
「体だけの関係でもいいから!」
「……」
「お願い!」
はぁ、と一つため息を吐き出す。これだけの大声で馬鹿丸出しの告白をされたのでは、俺の名前に傷がつく。
「里見くん!」
俺が立ち止まったのを見て、椿は嬉しそうに駆け寄ってくる。テキストを手渡してくるので、それを受け取る。取り返すのは諦めて先輩から貰い受けようと考えていた俺にとっては、必要のないものではあったけれど、返してくれるならそれでいい。
「……お前、馬鹿なの?」
「馬鹿じゃないもん」
椿は頬をふくらませる。世間一般では、かわいい仕草、というものなのだろうが、俺には逆効果だ。非常に不愉快だ。
お前は何か勘違いをしていないか? 俺は、お前を受け入れるつもりは、ない。
俺と腕を組んでこようとした椿から距離を置きながら、彼女を睨む。
「迷惑だから、そういうの、やめて」
「……迷惑?」
「すげー迷惑。俺、椿と付き合うつもりはないし、体だけの関係にもならない」
「なん、で?」
「俺には好きな人がいる。俺はその人の一番でないと気が済まない」
涙を浮かべた椿を睨んだまま、俺は利用価値のなくなった彼女を切り捨てる。
「二番目でいい、なんて馬鹿みたいな考え方の椿とは、絶対に価値観が合わない。同じような価値観の人間を見つけてくれ」
馬鹿だよ、椿。
そんな考え方で、幸せになれるわけないだろ。
俺の容赦のない返事に、ここが中庭であることすら忘れて号泣する椿。彼女の泣き声を背にして、俺は安息の地を求めて歩き出す。
俺の欲しい人はずっと一人だけ。
小夜先生だけが欲しい。
◆◇◆◇◆
玉置珈琲館のブレンドコーヒーを小夜先生は気に入っていたようで、国語準備室に必ず常備していた。よく買いに行っているのだろうと考えて、俺も珈琲館によく行くようになった。
「ブレンドで」
通りが見渡せる窓際の席に座り、奥さんにそう告げてテキストとノートを開く。
「試験勉強?」
「はい。二週間くらい、通わせてもらってもいいですか? 店が混んできたら、帰るので」
「いいわよ。うちが満席になることなんてほとんどないからね」
ごゆっくり、と微笑んで奥さんはカウンターの向こうへ消える。マスターは無言でサイフォンの準備をする。
玉置珈琲館は、学園の近くにある小さな喫茶店だ。カウンター席五つと、テーブル席四つ、個室が二つ。個室は学園関係者の会議などで使われることがあるという。
白とダークブラウンを基調とした内装で、レトロな雰囲気。けれど、開店して十年ちょっとなので、決して古くはない。
カウンターの壁面には大きな棚が据え付けられており、販売用のコーヒー豆やディスプレイ用の缶などが所せましと置いてある。見ているだけでも面白い。マスターは無口なので、コーヒーの薀蓄などを語ってくれることはないけれど。
コーヒーを淹れるのは、マスター。ホールで注文を取ったり軽食を準備するのが奥さん。ちなみに、ブレンドコーヒーと焼きハンバーグ定食が俺のお気に入りだ。
玉置珈琲館を訪れるのは、ほとんどが近所の人か学園関係者。にもかかわらず、知り合いや関係のあった先生にはまだ会ったことがない。もちろん、小夜先生にも。
まぁ、バレたら面倒なので、逆光で顔が見えづらい窓際の席に座っているのだ。
「はい、ブレンド」
置かれたコーヒーと、ホイップクリームの添えられたシフォンケーキ。ケーキは頼んでいない。
「それは里見さんへのサービス。試験、頑張ってね」
「ありがとうございます!」
あぁ、落ち着く。
国語準備室でよく嗅いでいたコーヒーの匂いだ。もう、それだけで、小夜先生の顔が思い出せる。小夜先生のことを考えてしまう。
いや、試験勉強、試験勉強!
頭を切り替えて、テーブルの上のものに目を通し始める。
長居しても嫌な顔をされないくらいには、マスターと奥さんの二人と仲良くなっていた。常連のうちの一人だと思われていたら嬉しい。
誠南学園の卒業生で、今は誠南大学へ通っていることを伝えたら、「うちの娘と同じだわ」と喜ばれ、「誠南学園の学園長は実はマスターの父親」だと教えてもらえた。
なるほど、だから、誠南大学の食堂にコーヒーを卸していたのかと納得できた。学園全体にコーヒーを卸しているなら、結構な収益になるはずだ。喫茶店自体が赤字でも構わないのだろう。
……本当は、小夜先生に会いたかった。
それが、正直な気持ちだ。
卒業式に振られてからは、小夜先生に会っていない。珈琲館に出入りしていれば、いつか会えるのではないか、そんな淡い期待を抱いていた。
通い始めて、二年。まぁ、二年も会えていないということだけれど。
現実はそう甘くはなかった、ということだ。
「こんにちはぁ!」
だから、空耳かと思った。
あまりに妄想しすぎて、俺の頭がおかしくなったのかと思った。
「今日ね、名古屋で研修だったの。はい、おばちゃん、お土産!」
「あら、小夜ちゃん、いつもありがとう。小倉トーストラングドシャ?」
「コーヒーに合うかな? あ、ブレンド一杯。それ飲んだら学園に戻らなきゃ」
カウンターに座ったのは、紛れもなく小夜先生。
その姿を見た瞬間に、俺の心臓がばくばくと音を立て始める。三人に聞こえてしまうかもしれないと思えるくらい、その音はうるさい。
やだな。
まだ、諦めきれないんだ。
いや、諦めてなんか、いないんだ。
体が、こんなに熱く、小夜先生を欲している。怖いくらいに、求めている。
思い知る。
俺は、小夜先生が、好きで好きでたまらない。
二年離れてもなお、愛しい。
少し、髪が伸びた。少し、痩せた。パンツスーツとは珍しい。
あぁ、相変わらずかわいい。
小夜先生はスーツケースを置いて、カウンター越しにマスターや奥さんと話している。カウンターの椅子が高すぎるのか、足をぷらぷらさせながら。
「名古屋は喫茶店が多くて、どこに入ろうか悩んじゃった。でも、やっぱりここのブレンドが一番好きだなぁ」
「うふふ。小夜ちゃんたら、うまいんだから」
敬語ではなく、砕けた話し方の小夜先生を、初めて見たかもしれない。
俺は、見つからないように大人しくしている。小夜先生に見つかったら、ストーカーかと思われてしまう。いや、結構ストーカーまがいのことをしている自覚はあるけれど。
心の準備というものが。
「梓はアメリカで元気にやってる?」
「さーあ。相変わらず手紙もメールもないわよぉ」
「梓らしいねぇ。あ、ラングドシャ美味しい!」
「あら、ほんと。小倉トーストは名古屋のモーニングで出されるから、コーヒーにも合うかしら」
三人の話を聞きながら、必要なことはメモを取る。試験勉強なんてできるわけがない。
梓、というのが夫婦の娘だということは知っている。けれど、小夜先生と友達だったとは知らなかった。
ブレンドコーヒーを飲みながら、小夜先生は楽しそうに夫婦に話しかけている。
その姿に、嫉妬さえ覚える。絶対に、俺には向けてくれない笑顔。うらやましい。
醜い。こんな浅ましい感情が自分の中にあるなんて、本当に、醜い。
まだ、二年。もう、二年。焦がれても、欲しくても、まだ手に入れられない。
なんて酷い鎖で、あなたは俺の心を縛り付けたんだ。
苦しい。楽になりたい。
五年は、長すぎる――。
けれど。
完全に狂ってしまうには、まだ早い。
「じゃあまた来るね!」
会計を済ませて、学園のほうへ歩いていく小夜先生の後ろ姿を見つめながら。俺は一つの決断をする。
五年は長い。
ならば、期間を縮めよう。
四年、いや、三年とちょっと。教育実習のときに、何とか、彼女を手に入れるんだ。
そのために、できることは今のうちにやっておこう。単位取得も、学園への根回しも、高村礼二のことも。できる限り。
あと、二年。
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