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002.「しつこい男は嫌われるものよ、エリアス」

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 サリタの借りていた一軒家は、既に半年分の家賃を支払っている。借りるときに大家の老婦人には事情を話し、急な引っ越しがあるかもしれないと伝えてある。その場合、家に残してあるものは村の教会に寄付してもらいたいとも。
 大きめの鞄に服と下着、路銀など最低限のものを突っ込んで、大家に向けての手紙を残す。そうして、サリタはすぐに家を出――ようとした。
 扉を開けた瞬間に、その足がすくむ。

「ただいま、サリタ様」

 サリタの目の前に、にっこりと微笑む勇者の姿がある。サリタは無言のまま扉を閉めようとするが、勇者の靴が隙間に入れられているため、どんなに引いても扉は閉まらない。

「酷いなぁ、サリタ様。靴が歪んじゃうよ」
「お願い、お願いだから、もう、私に関わらないで!」
「無理」

 扉がぐいと開かれる。勇者が、サリタの前に立つ。ぱたんと閉じた扉は、サリタの希望を奪っていく。

「サリタ様、会いたかった。すごく会いたかった」
「……エリアス」

 へたり込むサリタと同じ目線になるように跪き、勇者エリアスは困ったような笑みを浮かべる。

「ねぇ、サリタ様。どうして逃げるの? 俺、早くあなたと結婚したいのに、いつになったら大人しく捕まってくれるの?」
「エリアス、ごめん」
「大丈夫。喪が明けるまで待つよ。それまで、指一本触れないから」
「ごめんなさい」
「俺、夕飯まだなんだ。食べて行ってもいい? あと、ちょっと寝かせて。あんまり眠っていないんだ」

 本当にごめんなさい、と呟いて、サリタはすっくと立ち上がり、台所へ向かうエリアスの後頭部目がけて鞄を振り下ろした。大きく振りかぶって躊躇なく殴りつけたため、ゴッという鈍い音が響く。話の通じない勇者は、そのまま昏倒する。
 サリタは冷ややかな目で勇者エリアスを見下ろし、ハァと小さく溜め息をついた。

「しつこい男は嫌われるものよ、エリアス」

 サリタは帽子を目深にかぶり、さっさと家から立ち去る。倒れたエリアスは幸せな夢でも見ているのか、時折笑みを浮かべていた。



 教会で飼っている馬の手綱を引く。馬と装備の代金を藁の上に置き、男たちの被害に遭った娘がいないかどうか確認してほしいという書き置きを残して、ゴヨにも挨拶しないままサリタは村を出る。
 最後にゴヨと握手したかったが、叶わない。明日到着すると言っていたエドガルドの無事を確認したかったが、叶わない。勇者は南の森の『瘴気の澱』はまだ祓っていないだろう、と算段して北へ向かう。
 人が触れると死に至る『瘴気の澱』は、各国二人、聖女と勇者でなければ祓うことができない。聖女は祈ることにより王都の聖女宮から国全体を守り、勇者は地方を転々としながら直接『瘴気の澱』を祓う。
 サリタは先代聖女、エリアスは現役勇者だ。一年前まで、二人は『瘴気の澱』を祓う存在であった。サリタが結婚して聖女を引退するまでは。

 老馬に無理をさせぬよう、慎重に夜道を走らせる。夏なので外套は持ってこなかったが、少し肌寒い。
 どこで、何を間違えたのか、サリタにはわからない。
 エリアスは、勇者に着任して早々に「俺と結婚してください」とサリタに求婚した。十六歳の少年のキラキラと輝く瞳がまぶしすぎて、二十歳のサリタは即座に断った。当時は、まだ現役の勇者と聖女の結婚は認められていなかったため、断るのは容易かった。
 適齢期などとっくに過ぎていた。会うたびにエリアスから求婚されていたものの、サリタの好みではなかったため、聖教会の禁止事項を理由にやんわりと断っていた。
 しかし、あるとき突然、聖教会の聖職者たちが法を整備し、現役勇者と聖女の結婚を許可してしまったので、サリタは途方に暮れることとなる。エリアスが「断る理由がなくなったね」と満面の笑みを浮かべて目の前に現れたときには、「こわっ」とつい本音が零れてしまったものだ。

「結婚しましょう」
「しない」
「必ず幸せにするから。ずっと愛すると誓うから」
「信じない」

 何度、その会話を繰り返したかわからない。何度、適当な理由を挙げて断ったか、わからない。
 なぜエリアスからの求婚を断り続けるのか、サリタにもわからない。好みではないが美青年で、人当たりもよく、民からの信頼も厚い勇者だ。給金もいい。何よりも、誰よりも、サリタを愛していることもわかっている。
 しかし、サリタがエリアスの求婚に応じることはなかった。
 「結婚してあげればいいのに」と、事情を知る人は皆そう言った。「何となく嫌だ」という言葉にしづらい感覚に従っているだけのサリタを、理解する人は皆無だった。

 サリタに結婚願望がないわけではない。エリアスから求婚されるたび、彼以外の人と結婚したい、と強く思うようになった。
「勇者以外の人と結婚したい」と訴えても、神官や聖職者たちからはのらりくらりとはぐらかされる。当時の副神官長だったエドガルドに求婚したことなど数え切れない。しかし、「新たな聖女を迎える準備が整うまでお待ちください」と言われ、それから何ヶ月も待たされるのだ。エリアスが手を回していることは、容易に想像できた。
 だから、サリタは顔なじみの独身老人からの求婚に、一も二もなく応じることとなる。

「年寄りで不能な私と結婚するのはお嫌でしょう。しかし、引き継いできた財産だけはたくさんあります。私が死んだら邸を売り、領地も国に返してしまって構いません。聖女様、そばにいるだけで構わないので、この身寄りのない老いぼれに、いい夢を見させてくれませんか」

 昔からよく世間話をする、優しく信心深いおじいちゃんだった。神殿を訪れるたび、毎回欠かさず差し入れをくれる聖職者の元重鎮であり、エドガルドの友人でもあった人物だ。
 本音を言えば、たくさんあるという財産には少し心が傾いたものの、元来好ましく思っていた老人であるため結婚を了承した。穏やかに余生が過ごせることのほうがサリタには大切だった。毎日毎日、休みなく、国のため民のために気を張っていたからだ。
 老いた夫が勇者の手の者だと気づいたのは、結婚式当日だった。
 あの夜のことを思い出すたび、惨めで、苦しくて、腹立たしい。「何となく嫌だ」という感情が「絶対に嫌だ」に変わった日だ。エリアスの中では美しい思い出になっているのだろうが、サリタはそうではない。

「……逃げよう」

 サリタは馬を走らせる。
 どこへ行っても、エリアスは必ずサリタの前に現れて求婚してくる。ものすごく気味が悪い。「そんなに愛されるなんて幸せね」と誰かから言われたこともあるが、そんな幸福感は一切ない。ひたすら怖い。
 どんなことをしようとも、必ずあなたを手に入れる――そんなふうに想われるのが愛であるわけがない。そんな凶暴なものが、愛であるわけがない。

「私はもっと穏やかな愛がいい」

 やはり、聖教会に居場所を知らせるのはやめておこう。聖女の手当は送らないように伝えておこう。
 それから、とサリタは考える。
 目立つ銀髪は染粉で染めて、先代聖女であることを隠して、なるべく目立たないように生きていこう。エリアスに見つからないように、息を潜めて生きていこう。
 幸福とは程遠い生活になるが、仕方がない。望んだ生活ではないが、仕方がない。

 勇者エリアスと結婚するのだけは、絶対に嫌だ。
 サリタは強く、そう思うのだ。


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