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43.兄弟の提携(七)
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「今日はゆっくり過ごしたい」
私は朝食の席で二人にそう宣言した。翔吾くんと健吾くんは顔を見合わせ、頷く。
「うん、いいよ」
「あかりさんの好きなように」
昨日は、酷かった。
朝から晩まで二人に貪られ、私が何度意識を手放したか。足腰が立たなくなって、介助だと称してトイレのドアを開け放たれたり、ゆっくりしたいと一人でお風呂に入ることを望んでも、倒れるといけないからと二人一緒に入ってきたり……思い出すだけで叫び出したくなるようなことを、された。
だから、夜は一人で眠りたいと主張し、「部屋に入ってきたら別れる」と言って鍵をかけて眠った。「別れる」が効いたのか、二人は夜這いなんて真似はしなかった。
本当に、よく眠れた。
けれど、疲れは取れていない。
腰は痛いし、腕もお腹も筋肉痛だし、喘ぎすぎたのか声はちょっぴり枯れかけている。ハタチの性欲――それも二人分に付き合うのは、本当に、疲れる。
「行きたいところ、ある?」
「癒されるところなら、たくさんあるよ」
翔吾くんが、軽井沢のガイドブックを持ってきてくれる。今年発行されたものだ。わざわざ買ってきてくれていたのだろう。
オニオンスープを飲みながら、翔吾くんがページをめくってくれるのを見る。ところどころにドッグイヤーがしてある。
「美術館を巡ってもいいし、森林浴をしてもいいし」
「滝もあったはず。湖か池も多いよな」
「教会とか古いホテルもあるね。有名な作家のゆかりの地とかも」
へぇ、結構いろいろあるんだなぁ、と覗き込みながら、二人の話を聞く。この滝は綺麗だとか、この周りには何もないとか、翔吾くんが好きなジェラートだとか、健吾くんがよく行っていた美術館だとか。聞いているだけでも楽しい。
「じゃあ、今日と明日は、二人が私を癒やしてよ。順番に、ね」
「……それは、あかりさんを、一日独占できるということ?」
「そうだね、そんな感じで」
「夜も、あかりと一緒に寝てもいい?」
本当はセックスは辞退したいけど、癒やしてもらえたら、何とかできないことも、ない、かな?
「セックスできるかどうかはわからないよ」
「いいよ。一緒に寝られるなら。な、健吾?」
「異論なし」
ということで、桜井兄弟のじゃんけん大会の結果、今日は健吾くん、明日は翔吾くんとデートをすることが決まった。
健吾くんは早速ガイドブックを奪って目を通している。「最近、軽井沢には来ていなかったからなぁ」と真剣にぶつぶつ呟いているのを見ながら、私は食器を片付けて洗う。翔吾くんはテーブルを拭きながら、「この場所ならここを曲がって」と道を教えている。
仲のいい兄弟、だと思う。
その二人にサンドイッチにされながら、けれど、いつか来る別れを思う。
つらい、かもしれない。
叡心先生との別れほどではないけれど、それでも、寂しいかもしれない。
湯川先生にも、二人にも、感情移入しすぎてしまったかもしれない。「心は許さないようにしよう」なんて思いながら、こんなにしっかり、絆され、情が湧いている。
翔吾くんより前にも、他のセフレから彼女になって欲しいと言われたことはある。湯川先生より前に妻になって欲しいとも。
けれど、そういうときはいつも逃げていた。はぐらかして、連絡を控え、少しずつ距離を取り、名前を変えて住む場所を変えて、逃げていた。
明言してくれたら、切り離すだけだから楽なのに、最近みんな「本音」を隠して接してくる。「本音」を言わないから、どうすればいいのかわからなくて、結局居心地の良い腕に抱かれてしまっている。
それは、幸せなこと、なのか。
それとも、ただのモラトリアムに過ぎないのか。
確かめるすべは、ない。
「あかり、どうかした?」
目の前に翔吾くんの心配そうな顔。「なんでもないよ」と笑い、水を止めて手を拭く。健吾くんは行くところを決めたようで、ガイドブックを持って早くも車の鍵の場所を翔吾くんに聞いている。
「行ってくるね、翔吾くん」
「行ってらっしゃい、あかり。また明日、ね」
玄関を出るとき、翔吾くんが少しだけ私の頬に触れた。するりと手の甲が頬を滑り落ち、親指が唇に触れる。キスしたいのかな、と少し上を向いて待つけれど、唇は落ちてこない。
ただ、寂しげに微笑む翔吾くんに、「キスしないの?」と聞く。
「今日は健吾のものでしょ? だから」
「二人でシェアするんでしょ? 今日も明日も明後日も、これから先も、関係ないよ」
「でも、健吾が呼ん」
翔吾くんの首に抱きつき、無理やり唇を奪う。私を呼ぶ健吾くんの声は無視。遠慮がちに薄く開いた唇に舌を捩じ込んで、しばらくの間、コーヒー味のキスを楽しむ。
「あかりさん!」
「あと少し待って!」
健吾くんに声をかけ、翔吾くんの唇に触れ、笑う。
「我慢しなくていいよ、翔吾くん。健吾くんとのことに関しては、遠慮しなくていい」
「……あかり、明日」
「うん、明日、たくさん甘やかしてあげる」
再度触れるだけのキスをして、私は駐車してある車のほうへ向かう。翔吾くんに大きく手を振って車に乗り込むと、健吾くんが少し不機嫌そうな顔をしている。
ごめんね、健吾くん。
明日の別れ際には、ちゃんと君にキスをしてあげるから。機嫌直して、ね。
◆◇◆◇◆
健吾くんが連れてきてくれたのは、意外にもおしゃれな外観の小さな街のようなところ。
ウッドデッキの上に店が建ち並び、周りは木々で覆われている。いや、木々の中に街を作った、そんな感じのする場所だ。
ここには、来たことがない。藍川は軽井沢でも、私を外に連れ出そうとはしなかった。私にとっての軽井沢の記憶は、藍川の別荘とその周りの自然だけ、そして、暴力と情事だけだったのだ。
「ハルニレの木だって」
「へぇ。すごい、綺麗」
風が吹くたび、葉擦れの音が響く。蝉時雨にも負けない緑の音が、耳に心地よい。確かに、癒やされそうだ。
コトコトと足音をさせながら、ショップを覗いて歩く。雑貨の店や飲食店、軽食の店もある。
ジェラートを買って、木陰のベンチに座る。私はバニラ、健吾くんは木いちごのジェラート。ミルクの味が濃く、とても美味しい。お互いのジェラートをシェアしながら、溶けない程度にのんびり過ごす。
「昨日は、ごめん」
「いいよ。しんどかったけど」
観光客が多いのか、避暑で訪れている人が多いのか、歩く人々を見るだけだとわからない。みんな、高そうな服を着ているように見える。そして、誰も急ぐことはせず、穏やかだ。
都会の喧騒から離れ、穏やかな時間を過ごしたい、そんな人たちで溢れている。
「気づいていると思うけど……翔吾がおかしい」
「……やっぱり、そう思う?」
健吾くんもそう思っていた、か。なら、やっぱりそうなのだろう。翔吾くんの態度がおかしい。
「翔吾が、あかりさんの連絡先を渡してくるちょっと前から、おかしかった。たぶん、俺があかりさんを抱きたいと思っていることが、翔吾に伝わったときからだ」
「ご飯、食べた日だね?」
「そう、かもしれない。いや、もう少し前かも。でも、あれが決定打だった」
『健吾に抱かれたいと思う?』
あの言葉が翔吾くんの口から出てきたことが、やっぱりおかしいことだったんだ。
「翔吾は、今まで、色々諦めてきたんだ。いくらお金があっても買えないものはたくさんあるし、親の敷いたレールを歩かなければならないって、ずっと決めつけている」
「翔吾くん、そうしなければならないって思い込んでる?」
「たぶん。親の会社を継がなければならない、親の決めた人と結婚しなければならない、自分の人生には……自由がない、って」
自由。
呟いてみる。
自由。
「翔吾は、あのとき、あかりさんを諦めた」
「……うん」
「あかりさんと生きる道を諦めて、たぶん、俺に譲ろうとしている」
そう、だね。
翔吾くんは私を諦めている。私が彼を愛さないから。愛しても、愛されないから。
想う人から想われないのは、つらい。つらく、悲しいこと。
それを強いているのは、他ならぬ私だ。
「会社を継ぐのは、翔吾じゃなくて俺でもいいんだ。好きな人と結婚して、幸せに暮らす、そんな未来を夢見ても、いいんだ」
「健吾く」
「なんで、あいつは! 全部、諦めようとするんだよ!」
ザア、と風が吹き、葉擦れの音が街を包む。強い風に、葉が飛び、服が煽られ、髪が乱れ、悲鳴があちこちで聞こえる。
「なんで、俺に、あかりさんを譲るんだよ……あんなに、ボロボロになるまで、好きなのに……愛してるのに、なんで」
「何が、あったの?」
健吾くん、教えて。何が、あったの?
ジェラートのコーンの包み紙をぐしゃりと握り潰して、健吾くんは私を見つめる。
「翔吾は、あの……あと、吐いた」
三人でしたあと、のことだろうか。私は健吾くんに連れられて一緒にシャワーを浴びて、その間の翔吾くんの様子を知ることはできなかったはずだけど。
「わかるの?」
「二十年、兄弟やってんだよ。わかるよ」
「そういうもの、なんだ?」
「翔吾は昔からストレスに弱いから。香水をつけるのだって、おまじないみたいなもんだよ。自分に暗示をかけてる」
暗示を、かけてる?
「あかりさんと出会ってから、翔吾は変わったよ。譲りたくないものができた、みたいな顔して、優しくなった」
「そうなの?」
「執着心、見えなかった?」
あぁ、それなら、わかる。
確かに、少しずつ、執着心が増えてきていた気がする。首筋につけたキスマークにしても、そうだ。
「翔吾が誰かに執着するなんて、今までなかった。誰にも、なかったんだよ」
「……けん」
「あかりさんだけだ」
健吾くんの目から、視線が外せない。見据える目が、訴えてくる。
「あんただけなんだ。翔吾が執着心を抱いたのは」
風が止み、静寂が訪れる。けれどまた、風が吹く。髪を乱し、衣服を乱し、心すら乱していく、風だ。
「あいつの気持ちを、受け入れてやってくれよ」
木々のざわめきと蝉時雨の中、静かに落とされた言葉。
私は、健吾くんの言葉に、何も返すことができない。
「俺は翔吾からあかりさんを奪いたくない」
出会って一ヶ月くらいの女より、二十年隣にいた兄のほうが大事だと、健吾くんの目が語る。
「どんな形でもいいから、翔吾のそばにいて――愛してやってくれ」
愛して。
「それができないなら、きっぱり、別れてやってくれ」
別れ、て。
「翔吾は荒れるだろうけど、俺が見てるから。ちゃんと」
健吾くん。
「だから、あかりさんも、覚悟を決めて欲しい。それがどんな結果でも、俺は受け入れる」
覚悟を。決める。
健吾くん、それは……その結果は、たぶん、あなたを。
「大丈夫。俺は――」
いつの間に、そんな穏やかな顔で、笑うようになったの、君は。
いつの間に、そんな優しい目をするようになったの。
「――俺はあんたの、セフレ、だから」
セックスをするだけの。
体だけの、友達。
それだけの、関係。
私は朝食の席で二人にそう宣言した。翔吾くんと健吾くんは顔を見合わせ、頷く。
「うん、いいよ」
「あかりさんの好きなように」
昨日は、酷かった。
朝から晩まで二人に貪られ、私が何度意識を手放したか。足腰が立たなくなって、介助だと称してトイレのドアを開け放たれたり、ゆっくりしたいと一人でお風呂に入ることを望んでも、倒れるといけないからと二人一緒に入ってきたり……思い出すだけで叫び出したくなるようなことを、された。
だから、夜は一人で眠りたいと主張し、「部屋に入ってきたら別れる」と言って鍵をかけて眠った。「別れる」が効いたのか、二人は夜這いなんて真似はしなかった。
本当に、よく眠れた。
けれど、疲れは取れていない。
腰は痛いし、腕もお腹も筋肉痛だし、喘ぎすぎたのか声はちょっぴり枯れかけている。ハタチの性欲――それも二人分に付き合うのは、本当に、疲れる。
「行きたいところ、ある?」
「癒されるところなら、たくさんあるよ」
翔吾くんが、軽井沢のガイドブックを持ってきてくれる。今年発行されたものだ。わざわざ買ってきてくれていたのだろう。
オニオンスープを飲みながら、翔吾くんがページをめくってくれるのを見る。ところどころにドッグイヤーがしてある。
「美術館を巡ってもいいし、森林浴をしてもいいし」
「滝もあったはず。湖か池も多いよな」
「教会とか古いホテルもあるね。有名な作家のゆかりの地とかも」
へぇ、結構いろいろあるんだなぁ、と覗き込みながら、二人の話を聞く。この滝は綺麗だとか、この周りには何もないとか、翔吾くんが好きなジェラートだとか、健吾くんがよく行っていた美術館だとか。聞いているだけでも楽しい。
「じゃあ、今日と明日は、二人が私を癒やしてよ。順番に、ね」
「……それは、あかりさんを、一日独占できるということ?」
「そうだね、そんな感じで」
「夜も、あかりと一緒に寝てもいい?」
本当はセックスは辞退したいけど、癒やしてもらえたら、何とかできないことも、ない、かな?
「セックスできるかどうかはわからないよ」
「いいよ。一緒に寝られるなら。な、健吾?」
「異論なし」
ということで、桜井兄弟のじゃんけん大会の結果、今日は健吾くん、明日は翔吾くんとデートをすることが決まった。
健吾くんは早速ガイドブックを奪って目を通している。「最近、軽井沢には来ていなかったからなぁ」と真剣にぶつぶつ呟いているのを見ながら、私は食器を片付けて洗う。翔吾くんはテーブルを拭きながら、「この場所ならここを曲がって」と道を教えている。
仲のいい兄弟、だと思う。
その二人にサンドイッチにされながら、けれど、いつか来る別れを思う。
つらい、かもしれない。
叡心先生との別れほどではないけれど、それでも、寂しいかもしれない。
湯川先生にも、二人にも、感情移入しすぎてしまったかもしれない。「心は許さないようにしよう」なんて思いながら、こんなにしっかり、絆され、情が湧いている。
翔吾くんより前にも、他のセフレから彼女になって欲しいと言われたことはある。湯川先生より前に妻になって欲しいとも。
けれど、そういうときはいつも逃げていた。はぐらかして、連絡を控え、少しずつ距離を取り、名前を変えて住む場所を変えて、逃げていた。
明言してくれたら、切り離すだけだから楽なのに、最近みんな「本音」を隠して接してくる。「本音」を言わないから、どうすればいいのかわからなくて、結局居心地の良い腕に抱かれてしまっている。
それは、幸せなこと、なのか。
それとも、ただのモラトリアムに過ぎないのか。
確かめるすべは、ない。
「あかり、どうかした?」
目の前に翔吾くんの心配そうな顔。「なんでもないよ」と笑い、水を止めて手を拭く。健吾くんは行くところを決めたようで、ガイドブックを持って早くも車の鍵の場所を翔吾くんに聞いている。
「行ってくるね、翔吾くん」
「行ってらっしゃい、あかり。また明日、ね」
玄関を出るとき、翔吾くんが少しだけ私の頬に触れた。するりと手の甲が頬を滑り落ち、親指が唇に触れる。キスしたいのかな、と少し上を向いて待つけれど、唇は落ちてこない。
ただ、寂しげに微笑む翔吾くんに、「キスしないの?」と聞く。
「今日は健吾のものでしょ? だから」
「二人でシェアするんでしょ? 今日も明日も明後日も、これから先も、関係ないよ」
「でも、健吾が呼ん」
翔吾くんの首に抱きつき、無理やり唇を奪う。私を呼ぶ健吾くんの声は無視。遠慮がちに薄く開いた唇に舌を捩じ込んで、しばらくの間、コーヒー味のキスを楽しむ。
「あかりさん!」
「あと少し待って!」
健吾くんに声をかけ、翔吾くんの唇に触れ、笑う。
「我慢しなくていいよ、翔吾くん。健吾くんとのことに関しては、遠慮しなくていい」
「……あかり、明日」
「うん、明日、たくさん甘やかしてあげる」
再度触れるだけのキスをして、私は駐車してある車のほうへ向かう。翔吾くんに大きく手を振って車に乗り込むと、健吾くんが少し不機嫌そうな顔をしている。
ごめんね、健吾くん。
明日の別れ際には、ちゃんと君にキスをしてあげるから。機嫌直して、ね。
◆◇◆◇◆
健吾くんが連れてきてくれたのは、意外にもおしゃれな外観の小さな街のようなところ。
ウッドデッキの上に店が建ち並び、周りは木々で覆われている。いや、木々の中に街を作った、そんな感じのする場所だ。
ここには、来たことがない。藍川は軽井沢でも、私を外に連れ出そうとはしなかった。私にとっての軽井沢の記憶は、藍川の別荘とその周りの自然だけ、そして、暴力と情事だけだったのだ。
「ハルニレの木だって」
「へぇ。すごい、綺麗」
風が吹くたび、葉擦れの音が響く。蝉時雨にも負けない緑の音が、耳に心地よい。確かに、癒やされそうだ。
コトコトと足音をさせながら、ショップを覗いて歩く。雑貨の店や飲食店、軽食の店もある。
ジェラートを買って、木陰のベンチに座る。私はバニラ、健吾くんは木いちごのジェラート。ミルクの味が濃く、とても美味しい。お互いのジェラートをシェアしながら、溶けない程度にのんびり過ごす。
「昨日は、ごめん」
「いいよ。しんどかったけど」
観光客が多いのか、避暑で訪れている人が多いのか、歩く人々を見るだけだとわからない。みんな、高そうな服を着ているように見える。そして、誰も急ぐことはせず、穏やかだ。
都会の喧騒から離れ、穏やかな時間を過ごしたい、そんな人たちで溢れている。
「気づいていると思うけど……翔吾がおかしい」
「……やっぱり、そう思う?」
健吾くんもそう思っていた、か。なら、やっぱりそうなのだろう。翔吾くんの態度がおかしい。
「翔吾が、あかりさんの連絡先を渡してくるちょっと前から、おかしかった。たぶん、俺があかりさんを抱きたいと思っていることが、翔吾に伝わったときからだ」
「ご飯、食べた日だね?」
「そう、かもしれない。いや、もう少し前かも。でも、あれが決定打だった」
『健吾に抱かれたいと思う?』
あの言葉が翔吾くんの口から出てきたことが、やっぱりおかしいことだったんだ。
「翔吾は、今まで、色々諦めてきたんだ。いくらお金があっても買えないものはたくさんあるし、親の敷いたレールを歩かなければならないって、ずっと決めつけている」
「翔吾くん、そうしなければならないって思い込んでる?」
「たぶん。親の会社を継がなければならない、親の決めた人と結婚しなければならない、自分の人生には……自由がない、って」
自由。
呟いてみる。
自由。
「翔吾は、あのとき、あかりさんを諦めた」
「……うん」
「あかりさんと生きる道を諦めて、たぶん、俺に譲ろうとしている」
そう、だね。
翔吾くんは私を諦めている。私が彼を愛さないから。愛しても、愛されないから。
想う人から想われないのは、つらい。つらく、悲しいこと。
それを強いているのは、他ならぬ私だ。
「会社を継ぐのは、翔吾じゃなくて俺でもいいんだ。好きな人と結婚して、幸せに暮らす、そんな未来を夢見ても、いいんだ」
「健吾く」
「なんで、あいつは! 全部、諦めようとするんだよ!」
ザア、と風が吹き、葉擦れの音が街を包む。強い風に、葉が飛び、服が煽られ、髪が乱れ、悲鳴があちこちで聞こえる。
「なんで、俺に、あかりさんを譲るんだよ……あんなに、ボロボロになるまで、好きなのに……愛してるのに、なんで」
「何が、あったの?」
健吾くん、教えて。何が、あったの?
ジェラートのコーンの包み紙をぐしゃりと握り潰して、健吾くんは私を見つめる。
「翔吾は、あの……あと、吐いた」
三人でしたあと、のことだろうか。私は健吾くんに連れられて一緒にシャワーを浴びて、その間の翔吾くんの様子を知ることはできなかったはずだけど。
「わかるの?」
「二十年、兄弟やってんだよ。わかるよ」
「そういうもの、なんだ?」
「翔吾は昔からストレスに弱いから。香水をつけるのだって、おまじないみたいなもんだよ。自分に暗示をかけてる」
暗示を、かけてる?
「あかりさんと出会ってから、翔吾は変わったよ。譲りたくないものができた、みたいな顔して、優しくなった」
「そうなの?」
「執着心、見えなかった?」
あぁ、それなら、わかる。
確かに、少しずつ、執着心が増えてきていた気がする。首筋につけたキスマークにしても、そうだ。
「翔吾が誰かに執着するなんて、今までなかった。誰にも、なかったんだよ」
「……けん」
「あかりさんだけだ」
健吾くんの目から、視線が外せない。見据える目が、訴えてくる。
「あんただけなんだ。翔吾が執着心を抱いたのは」
風が止み、静寂が訪れる。けれどまた、風が吹く。髪を乱し、衣服を乱し、心すら乱していく、風だ。
「あいつの気持ちを、受け入れてやってくれよ」
木々のざわめきと蝉時雨の中、静かに落とされた言葉。
私は、健吾くんの言葉に、何も返すことができない。
「俺は翔吾からあかりさんを奪いたくない」
出会って一ヶ月くらいの女より、二十年隣にいた兄のほうが大事だと、健吾くんの目が語る。
「どんな形でもいいから、翔吾のそばにいて――愛してやってくれ」
愛して。
「それができないなら、きっぱり、別れてやってくれ」
別れ、て。
「翔吾は荒れるだろうけど、俺が見てるから。ちゃんと」
健吾くん。
「だから、あかりさんも、覚悟を決めて欲しい。それがどんな結果でも、俺は受け入れる」
覚悟を。決める。
健吾くん、それは……その結果は、たぶん、あなたを。
「大丈夫。俺は――」
いつの間に、そんな穏やかな顔で、笑うようになったの、君は。
いつの間に、そんな優しい目をするようになったの。
「――俺はあんたの、セフレ、だから」
セックスをするだけの。
体だけの、友達。
それだけの、関係。
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