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第三夜
072.ラルスの査問会(一)
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「君はっ、お前はっ、なんてことをしてくれたんだ! トニアと離縁するだけでなく、聖女と姦淫しただと? 恥知らずが! 育ててやった恩を忘れたか!」
あなたに育ててもらった恩などありませんが、と言おうとしてラルスは口をつぐんだ。これ以上逆上されて部屋のものを壊されるのは勘弁してもらいたい。既に椅子が二脚散らばってしまっている。
ラルスの鼻の下と顎には数日切り揃えていない銀色の髭が伸びている。文字通り、無精髭だ。
「大人しくトニアと子を作っていれば、大主教への道が拓かれたものを! どこまでも愚かな男だな、お前は!」
恥知らずだ愚かだと罵られても、ラルスには響かない。エレミアスほどの出世欲もなかったのだ。何もかもを失う覚悟はできている。
ラルスはハァと溜め息をついて、早馬を走らせて先ほどここにやってきたばかりの義父を眺める。トニアはもうここにはいないと言っても、椅子を振り回して暴れたのだ。大変迷惑な客だ。
「聖女と姦淫した男が娘婿ではなくて良かったではありませんか」
「あぁ、本当に! 一度でも縁があったと思うと汚らわしい!」
「ええ、汚らわしいですね。すぐに浮気する娘を娶らされたのは私のほうです。そして、浮気相手の子どもを孕んで嬉々として出ていった。本当に汚らわしい」
ばちん、と頬に衝撃があった。殴られたことに対する怒りはない。憐れな男だと蔑むだけだ。
「お、お前は、なんて、ことを!」
「あぁ、別にいいんですよ。査問会であなたが紫の国で行なっていることを洗いざらいお話しても構わないんですよ」
「な、に」
「第二王子を傀儡にし、聖女宮に住まわせ、聖女様に子どもを生ませようとしていることは、既に聖女様も気づいておられます。紫の国にとって総主教の椅子は悲願ですからね」
大主教の顔が一気に青くなる。そこで表情を変えずに「何のことだ」とうそぶくほどの度量はない。どこまでも浅はかで、どこまでも愚かな男。
どれだけ探っても彼が行なったという虐待の事実は出てこなかった。義父はそこまでの悪事を働く男ではない。根は小心者なのだとラルスも知っている。
ゆえに紫の君の虚言――聖女が騙されているのだとすぐにわかったが、義父が総主教の椅子のために彼を利用していることは事実だ。それは間違いない。
ラルスは笑う。義父はとんでもなく恐ろしい魔物を相手にしていることに、まだ気づいていない。地位は盤石なのだと過信している。
聖女に伝える前に、こんなことになってしまった。しかし、彼女なら紫の君を何とかするだろう。夫の嘘を見破り、彼を救うだろう。ラルスは聖女を信じている。それも過信だと言われれば、そうかもしれないのだが。
「それとも、第二王子が役目を放棄したら、私にその役目を負わせる気でしたか。紫の国の実を食べさせるであれば相手は誰でも構わない、とでも仰るつもりでしたか。夫以外の男が聖女を孕ませることは大罪だと知りながら、それを私に強要するつもりでしたか」
「なっ」
「そうですよね。だから、あなたは今、紫の国で熟れた命の実をこうして持ってきているのでしょう。それは第二王子への土産ですか? それとも、私への?」
大主教は怯み、後退る。
「あなたが総主教の椅子に座ることなど、絶対に許しません。あなたが総主教の候補に選ばれたら、その瞬間にあなたの罪を告発いたします」
「なっ、なっ」
「ですから、あなたは極刑を求刑するしかないのですよ。私を黒翼地帯に追放しろと、声高に叫ぶしかないのですよ。わかっていますか? そうしないと、あなたはこの先ずっと怯えて暮らす羽目になるのですから」
大主教は、ラルスの周りにまとわりつく濁った空気に気づいている。元来、そういうものによく気づく男なのだ。
「君は……死にたいのか」
「七聖教では……自死は許されざる行為ですからね」
「どうしてそこまで歪んでしまった」
「それは、あなたこそ」
どこで歪んだのか、どこで狂ったのか、二人はもう思い出せない。最初から歪み、狂っていたのかもしれない。そうとすら思える。
「私にはもう、生きている理由がないのです。聖女様こそが私のすべてでしたから。彼女をそばで見守ることができないのなら、生きている意味がない」
「……愚かな」
「そう、利用価値のなくなった愚かな男など、さっさと切り捨ててしまえばいいでしょう。どうせ生かしていたって、使いどころもない上、手を噛まれる可能性すら秘めているのですから」
ラルスは埃が薄っすらと積もった床に寝そべる。服が汚れてしまうことも厭わず。十数歩歩けば寝台があるにも関わらず。
そんな自暴自棄になっているラルスを見下ろし、大主教は溜め息をつく。
「そんなに死にたいのなら、そうしてやる」
「ええ。そうしてください」
大主教はさっさとラルスの前から立ち去る。
ラルスの昏く淀んだ瞳は、何も映さない。脳裏に浮かぶのは、ただ一人の女だけ。笑い、怒り、泣き、喘ぎ、自分の名を呼んでくれ、自分の子を望んでくれた、愛しい人だけ。
「イズミ様……っうう」
もう二度と会えない女の姿を、もう二度と触れることのできない女の熱を、ラルスは何度も何度も思い返して涙するのだ。
査問会は本部の敷地内、評議会のある場所で行なわれる。他の大勢の聖職者たちと顔を合わせることはないが、聖武官たちからは好奇の目で見られるため、移動時には多少の居心地の悪さを感じる。
総主教、七人の副主教、七人の大主教――計十五人の上位役職者が判事として円形のテーブルに座り、その中央に置かれた椅子に、査問対象者ラルスが座る。髭を蓄えたまま、虚ろな表情をして。
「中主教ラルス、紫の国出身の宮文官よ。十五日の大聖樹会の最中に、聖女と姦淫した罪の真偽を問う。聞かれたことに対する答えだけを端的に答えるように」
ベールをつけているため、どこに誰が座っているのかはわからない。また、誰が進行をし、誰が議事を取っているのかもわからない。ラルスは小さく溜め息をつく。すべて、どうでもいいことだ。
「十五日、大聖樹会に出席をしていたのは事実か」
「事実です」
「途中で宮女官レナータがお前を呼び出したのは事実か」
「はい、事実です」
嘘をつくつもりはない。保身をするつもりもない。総主教は極刑を免れるよう取り計らうと言ったが、ラルス自身は極刑でも構わないと思っている。むしろ極刑にしてもらいたいのだ。そのために、わざわざ義父を焚きつけたのだから。
「本部の地下書庫に聖女が捕らわれていたのは事実か」
「事実です」
「聖女を捕らえていた者の姿を見ていないというのは事実か」
「はい、事実です」
ラルスはエレミアスの姿は見ていない。扉の近くにいたという男たちの姿も見ていない。それらを見ていたのは、聖女とレナータだけだ。
「聖女は薬を飲まされていたと言うが、事実か?」
「……飲まされてはいません。事後、膣内から溶け残っていた緑色の錠剤のかけらが出てきました」
「事実かそうでないかのみ、端的に述べよ」
ラルスは溜め息をつく。事実かそうでないかのみを述べるのであれば、意図的に罪を認めさせることも容易だ。陥れることなど簡単にできる。
そこまで考えて、ラルスは自嘲する。助かる道を探しているのではない。名誉の回復など望んでいない。黒翼地帯への追放を希望しているのだ。自分の立場が不利になったところで、どうでもいいことなのだ。
「では続きを。薬で酩酊した聖女を姦淫したことは事実か」
「事実です」
「選ばれた夫ではないのに、聖女を姦淫したことは事実か」
「ええ、事実です」
「苦しむ聖女を憂い、聖女が望むままに姦淫したことは事実か」
「事実です!」
そうだ、聖女を姦淫した。神聖でなければならないはずの聖女を穢したのだ。夫以外が触れてはいけない聖域を、穢し、荒らしたのだ。
それでいい。それが事実だ。
愚かな私を裁いてくれ。黒翼地帯へ追放してくれ。もう二度と、聖女の前に現れることがないように、聖樹の果てで殺してくれ。
ラルスは顔を伏せ、涙を流す。周りのざわめきに気づかない。
「聖女が望み、お前は宮文官としての職務を全うしたというのが、事実か」
ラルスは思わず顔を上げる。職務を全うしたのか、と再度問われる。聖女を男として抱いたのか、宮文官として抱いたのか。その違いか。
「……私は」
ラルスは自問する。どう答えるのが、「正解」なのか。
宮文官として聖女を抱いたと言えば、罪は軽減されるだろうか。男として聖女を抱いたと言えば、極刑に処されるだろうか。あのとき、自分は――。
ラルスは、真っ直ぐ正面を見据える。
「私は、男として聖女様を望みました」
あのときの自分の心に、嘘をつくことはできない。嘘をついて聖女への気持ちを封じたくはない。
ラルスは、真面目で、不器用で、愚かな男なのだ。
あなたに育ててもらった恩などありませんが、と言おうとしてラルスは口をつぐんだ。これ以上逆上されて部屋のものを壊されるのは勘弁してもらいたい。既に椅子が二脚散らばってしまっている。
ラルスの鼻の下と顎には数日切り揃えていない銀色の髭が伸びている。文字通り、無精髭だ。
「大人しくトニアと子を作っていれば、大主教への道が拓かれたものを! どこまでも愚かな男だな、お前は!」
恥知らずだ愚かだと罵られても、ラルスには響かない。エレミアスほどの出世欲もなかったのだ。何もかもを失う覚悟はできている。
ラルスはハァと溜め息をついて、早馬を走らせて先ほどここにやってきたばかりの義父を眺める。トニアはもうここにはいないと言っても、椅子を振り回して暴れたのだ。大変迷惑な客だ。
「聖女と姦淫した男が娘婿ではなくて良かったではありませんか」
「あぁ、本当に! 一度でも縁があったと思うと汚らわしい!」
「ええ、汚らわしいですね。すぐに浮気する娘を娶らされたのは私のほうです。そして、浮気相手の子どもを孕んで嬉々として出ていった。本当に汚らわしい」
ばちん、と頬に衝撃があった。殴られたことに対する怒りはない。憐れな男だと蔑むだけだ。
「お、お前は、なんて、ことを!」
「あぁ、別にいいんですよ。査問会であなたが紫の国で行なっていることを洗いざらいお話しても構わないんですよ」
「な、に」
「第二王子を傀儡にし、聖女宮に住まわせ、聖女様に子どもを生ませようとしていることは、既に聖女様も気づいておられます。紫の国にとって総主教の椅子は悲願ですからね」
大主教の顔が一気に青くなる。そこで表情を変えずに「何のことだ」とうそぶくほどの度量はない。どこまでも浅はかで、どこまでも愚かな男。
どれだけ探っても彼が行なったという虐待の事実は出てこなかった。義父はそこまでの悪事を働く男ではない。根は小心者なのだとラルスも知っている。
ゆえに紫の君の虚言――聖女が騙されているのだとすぐにわかったが、義父が総主教の椅子のために彼を利用していることは事実だ。それは間違いない。
ラルスは笑う。義父はとんでもなく恐ろしい魔物を相手にしていることに、まだ気づいていない。地位は盤石なのだと過信している。
聖女に伝える前に、こんなことになってしまった。しかし、彼女なら紫の君を何とかするだろう。夫の嘘を見破り、彼を救うだろう。ラルスは聖女を信じている。それも過信だと言われれば、そうかもしれないのだが。
「それとも、第二王子が役目を放棄したら、私にその役目を負わせる気でしたか。紫の国の実を食べさせるであれば相手は誰でも構わない、とでも仰るつもりでしたか。夫以外の男が聖女を孕ませることは大罪だと知りながら、それを私に強要するつもりでしたか」
「なっ」
「そうですよね。だから、あなたは今、紫の国で熟れた命の実をこうして持ってきているのでしょう。それは第二王子への土産ですか? それとも、私への?」
大主教は怯み、後退る。
「あなたが総主教の椅子に座ることなど、絶対に許しません。あなたが総主教の候補に選ばれたら、その瞬間にあなたの罪を告発いたします」
「なっ、なっ」
「ですから、あなたは極刑を求刑するしかないのですよ。私を黒翼地帯に追放しろと、声高に叫ぶしかないのですよ。わかっていますか? そうしないと、あなたはこの先ずっと怯えて暮らす羽目になるのですから」
大主教は、ラルスの周りにまとわりつく濁った空気に気づいている。元来、そういうものによく気づく男なのだ。
「君は……死にたいのか」
「七聖教では……自死は許されざる行為ですからね」
「どうしてそこまで歪んでしまった」
「それは、あなたこそ」
どこで歪んだのか、どこで狂ったのか、二人はもう思い出せない。最初から歪み、狂っていたのかもしれない。そうとすら思える。
「私にはもう、生きている理由がないのです。聖女様こそが私のすべてでしたから。彼女をそばで見守ることができないのなら、生きている意味がない」
「……愚かな」
「そう、利用価値のなくなった愚かな男など、さっさと切り捨ててしまえばいいでしょう。どうせ生かしていたって、使いどころもない上、手を噛まれる可能性すら秘めているのですから」
ラルスは埃が薄っすらと積もった床に寝そべる。服が汚れてしまうことも厭わず。十数歩歩けば寝台があるにも関わらず。
そんな自暴自棄になっているラルスを見下ろし、大主教は溜め息をつく。
「そんなに死にたいのなら、そうしてやる」
「ええ。そうしてください」
大主教はさっさとラルスの前から立ち去る。
ラルスの昏く淀んだ瞳は、何も映さない。脳裏に浮かぶのは、ただ一人の女だけ。笑い、怒り、泣き、喘ぎ、自分の名を呼んでくれ、自分の子を望んでくれた、愛しい人だけ。
「イズミ様……っうう」
もう二度と会えない女の姿を、もう二度と触れることのできない女の熱を、ラルスは何度も何度も思い返して涙するのだ。
査問会は本部の敷地内、評議会のある場所で行なわれる。他の大勢の聖職者たちと顔を合わせることはないが、聖武官たちからは好奇の目で見られるため、移動時には多少の居心地の悪さを感じる。
総主教、七人の副主教、七人の大主教――計十五人の上位役職者が判事として円形のテーブルに座り、その中央に置かれた椅子に、査問対象者ラルスが座る。髭を蓄えたまま、虚ろな表情をして。
「中主教ラルス、紫の国出身の宮文官よ。十五日の大聖樹会の最中に、聖女と姦淫した罪の真偽を問う。聞かれたことに対する答えだけを端的に答えるように」
ベールをつけているため、どこに誰が座っているのかはわからない。また、誰が進行をし、誰が議事を取っているのかもわからない。ラルスは小さく溜め息をつく。すべて、どうでもいいことだ。
「十五日、大聖樹会に出席をしていたのは事実か」
「事実です」
「途中で宮女官レナータがお前を呼び出したのは事実か」
「はい、事実です」
嘘をつくつもりはない。保身をするつもりもない。総主教は極刑を免れるよう取り計らうと言ったが、ラルス自身は極刑でも構わないと思っている。むしろ極刑にしてもらいたいのだ。そのために、わざわざ義父を焚きつけたのだから。
「本部の地下書庫に聖女が捕らわれていたのは事実か」
「事実です」
「聖女を捕らえていた者の姿を見ていないというのは事実か」
「はい、事実です」
ラルスはエレミアスの姿は見ていない。扉の近くにいたという男たちの姿も見ていない。それらを見ていたのは、聖女とレナータだけだ。
「聖女は薬を飲まされていたと言うが、事実か?」
「……飲まされてはいません。事後、膣内から溶け残っていた緑色の錠剤のかけらが出てきました」
「事実かそうでないかのみ、端的に述べよ」
ラルスは溜め息をつく。事実かそうでないかのみを述べるのであれば、意図的に罪を認めさせることも容易だ。陥れることなど簡単にできる。
そこまで考えて、ラルスは自嘲する。助かる道を探しているのではない。名誉の回復など望んでいない。黒翼地帯への追放を希望しているのだ。自分の立場が不利になったところで、どうでもいいことなのだ。
「では続きを。薬で酩酊した聖女を姦淫したことは事実か」
「事実です」
「選ばれた夫ではないのに、聖女を姦淫したことは事実か」
「ええ、事実です」
「苦しむ聖女を憂い、聖女が望むままに姦淫したことは事実か」
「事実です!」
そうだ、聖女を姦淫した。神聖でなければならないはずの聖女を穢したのだ。夫以外が触れてはいけない聖域を、穢し、荒らしたのだ。
それでいい。それが事実だ。
愚かな私を裁いてくれ。黒翼地帯へ追放してくれ。もう二度と、聖女の前に現れることがないように、聖樹の果てで殺してくれ。
ラルスは顔を伏せ、涙を流す。周りのざわめきに気づかない。
「聖女が望み、お前は宮文官としての職務を全うしたというのが、事実か」
ラルスは思わず顔を上げる。職務を全うしたのか、と再度問われる。聖女を男として抱いたのか、宮文官として抱いたのか。その違いか。
「……私は」
ラルスは自問する。どう答えるのが、「正解」なのか。
宮文官として聖女を抱いたと言えば、罪は軽減されるだろうか。男として聖女を抱いたと言えば、極刑に処されるだろうか。あのとき、自分は――。
ラルスは、真っ直ぐ正面を見据える。
「私は、男として聖女様を望みました」
あのときの自分の心に、嘘をつくことはできない。嘘をついて聖女への気持ちを封じたくはない。
ラルスは、真面目で、不器用で、愚かな男なのだ。
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