忍びしのぶれど

裳下徹和

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第四章

⑺ 敵は見下ろしている

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 参謀局に着いた。衛兵が息を荒げて走ってきた跳を険しい表情で止める。
「これを西郷従道閣下にお渡し下さい。大至急お願いします」
 不審な顔はしていたものの、郵便配達夫の制服と、跳の気迫が効いたのだろう、衛兵の一人が建物の中へと書状を持って消えた。
 汗をぬぐい、息を整えつつ、衛兵達と共に従道の返事を待つ。
 参謀局の内部がにわかに騒がしくなった。この騒ぎは、石走の書状がもたらしたもので間違いないだろう。跳のそばにいる衛兵は不安を隠そうとして、わざと怒ったような顔をつくっている。
 騒々しかった建物内に動きが出てきた。跳が緊張の面持ちで待っていると、威勢良く正面扉が開かれ、鬼気迫った西郷従道が歩み出してきた。
「練兵場にいる兵を全員集めろ。皇居の守備に入る。電信で関東の軍に至急出動するように伝えろ!」
 葛淵と共謀して東京をおとすという選択はしなかったようだ。跳の圧迫された胸が少し緩む。
「書状を持ってきたのはお前か?」
 突然声をかけられ、跳に緊張が走る。
「はい。私です」
「石走はどうしている」
「警察隊の援軍を得る為、警視庁に向かいました。私も御一新の前は、武士の端くれとして戦いました。是非共に戦わせて下さい」
「うむ」
 内心は動揺しているのかもしれないが、従道はその部分は見せず、威厳を保っている。兄と比べられ過小評価されがちだが、なかなかに肝が据わった人物のようだ。
 従道の指示により、部下達が迅速に動いていく。
 部下達の表情や、従道の立ち振る舞いから察するに、葛淵達と共に反乱を企ててはいない。
 跳は、日比谷の練兵場から集められた兵と共に皇居へ向かう。徴兵制によって集められた農民や町人あがりの者が多い。実戦は未経験なのだろう。行軍する足は強張り、小銃をかつぐ手は震えている。
 跳にも小銃が支給された。前込めのミニエー銃だ。弾丸を前から込めるので、連射性には劣るが、射程も威力もそれなりにある。
 軍服に身を包んだ者の端に、郵便配達夫の制服を着ている跳がいるのは、明らかに異質ではある。だが、文句を言う者はいない。軍靴が土を踏みしめている音だけが響いていた。
 桜田門から皇居内へ入り、大手門から入ってきた石走率いる警察隊と合流する。集められた人数は少ない。
「届けたぞ」
 跳が言うと、石走はいつもの固い表情のままうなずいた。
 天皇陛下との談義を終え、従道が待機していた兵の前に立つ。
「陛下より勅令を賜った。これより反乱軍の鎮圧にあたる!」
 兵士達が上げた声は重なり合い、皇居の広い空に吸い込まれていった。
 これでこちらの軍が皇軍となった。自分達が正義だと思えるのは小さくない。当然負ければ賊軍ではあるが。
 戦意高揚に沸き立つ中、跳は横にいる石走に小声で話しかける。
「援軍は間に合うのか?」
 石走もまわりに悟られぬよう、目線も合わせずつぶやくように返してきた。
「ここがどれだけ持ち堪えられるかにかかっている。ただ、間に合ったとしても、向かっているのが永牟田惟義ながむたこれよし大佐率いる中隊だ。幕末最強の軍事力を誇りながら、ぎりぎりまで日和見を決め込んだ肥前藩出身の日和見野郎だ。奴は優勢な方につく」
 跳は舌打ちしたくなるのをこらえながら言う。
「もし、こちらが劣勢だったら?」
「反乱軍につくだろうな」
 肥前藩は、幕末に反射炉の建造に成功し、日本有数の軍事力を持つに至った。しかし、幕府と薩長の戦いは伍せず静観し、優勢だと確信してから薩長についた過去がある。その為、肥前出身の者は勝利者側にも関わらず、新政府では力を持てずにいるのだ。反乱軍に加担し、勢力図を塗りかえようとする動機は充分存在している。その上、肥前の傑物江藤新平が処刑され、永牟田大佐は新政府に恨みを持っているとも聞く。互角くらいなら反乱軍を選ぶ可能性もある。
「ただ援軍を待って、耐えるだけでは駄目ということか……」
 跳は皇居の中を見渡してみる。昔は江戸城だったので、石垣や多少の櫓は残っているが、城郭はもうない。豪華な御所も、美しく整備された木々も戦闘には役立たない。門を突破されたら、皇居は簡単に落とされる。
 そこに伝令兵が走り込んできて、西郷従道に報告を始めた。
「反乱軍は、二十八センチ榴弾砲を持って、神楽坂をのぼっているそうです」
 その場にいた全員が思考停止して固まった。遊興の街神楽坂と二十八センチ榴弾砲が結びつかなかったのだ。二十八センチ榴弾砲は、砲台に固定して、軍艦を攻撃する為に開発されたものだ。あんなもの奪ったとしても砲台がなければ、撃つことが出来ない。砲台に固定しないで撃ったりしたら、砲自体がひっくり返ってしまう。馬に鞭打って坂を上がったところで、ただの骨折り損だ。
 跳も、最初は反乱軍の謎の行動に疑問を覚えるだけだったが、すぐに恐ろしい考えにたどり着き、体を震わせた。
「砲台はある……」
 葛淵辰之助の妾が営む美紗門は、神楽坂の頂上付近にあり、東京の街、ひいては皇居を見下ろすことが出来る。
 将校だけではなく、下士官まで出入りしていたのは、砲台を秘かにつくる為。店を貸し切りにして、どんちゃん騒ぎをしていたのは、工事の音を隠す為だったのだ。
「遊んでいる振りをして、神楽坂の店の中に砲台をつくっていたんだ……」
 跳以外にもその考えに気付いた者はいたようだ。すぐに考えが全体に伝播し、ざわめきが起きる。
「二十八センチ榴弾砲の射程距離は、七千メートル。神楽坂からなら皇居北の田安門どころか、南の桜田門まで吹き飛ばせる」
 誰かが上げた声に、重い沈黙が降り、高揚した戦意が下がっていくのを感じる。無理もない。二十八センチ榴弾砲は、射程だけでなく威力にも速射性にも優れている。前時代には堅牢を誇った皇居の門扉も、たやすくぶち破り、兵士達を無慈悲に消し去っていくことだろう。
 もしかすると、明治六年の政変の時、葛淵親子が西郷と共に下野しなかったのも、西郷が無謀な戦いを始めたのも、ありもしない軍艦の噂を流し、二十八センチ榴弾砲を東京に配備させたのも、全て西郷の思惑通りだったのかもしれない。
 皇居に大砲を撃ち込んで、天皇を自分達側につけるつもりか。天皇を殺して新たな天皇をたてるのか。それとも、天皇の血筋を途絶えさせ、新たな世界をつくるつもりなのか。破壊と創造という言葉があるが、西郷隆盛は破壊の役割を持った者だろう。その力をいかんなく発揮し、徳川幕府を破壊した。しかし、新政府の創造には向いておらず下野。そのまま人生を終えるのかと思いきや、もう一度立った。今度は、天皇制という日本の根幹から徹底的に破壊するつもりだろうか。
 西郷隆盛の意図を考えていても戦況が好転するわけでもない。跳は、今自分が出来ることを思索した。
 二十八センチ榴弾砲を、馬と人力で神楽坂の頂上まで運ぶだけでも重労働だ。さらに砲台に設置するのも簡単な作業ではない。砲撃開始まで、今しばらくの時間はある。
「石走。俺が二十八センチ榴弾砲を破壊する。西郷従道閣下に伝えてくれないか?」
 跳が考えを小声で伝えると、石走は一つうなずき、短く答える。
「伝えよう」
 石走は従道のもとへ向かい。しばしの後、跳が従道のもとへ呼ばれた。
 皇居北寄りの櫓脇に、側近数名を従えて従道は立っていた。軍服姿の中に、警察官の制服を着た石走もいる。
 落ち着き払った口調で、従道が跳に問うてきた。
「川路と前島のところで動いている者か?」
 跳は肯定の返事をする。切支丹事件や、赤報隊の件で、派手に動き過ぎたようだ。しかし、御一新前に兄隆盛の下で暗躍していたことは知らない様子だ。この状況で言うべきことでもないだろう。
「二十八センチ榴弾砲を壊せるのか?」
「はい」
 側近達は、跳に疑わし気な視線を向けてくる。
「やってみろ」
 従道の言葉に、側近達がざわついた。
「別にこれが最後の切り札というわけでもない。失敗しても、次の次の策までは頭にある」
 皆を落ち着かせる為の従道のはったりにも思えたが、異を唱える者はいない。
 跳は深々と頭を下げる。側近達からは疑いの目を向けられ続けるが、気にはしない。
 西郷従道の命令により、兵は皇居内を北へ移動し始める。途中北桔橋きたはねばし門を通り、兵が通り過ぎた後は、堀にかかる橋をはね上げた。ゆっくりと上げられていく橋を見て、退路を断たれたことを実感する。さらに北に進み、田安門にたどり着いた。
 反乱軍は、政府軍がまだ気付いていないか、皇居で籠城戦を選ぶと思っているはず。先に攻撃を加えられるのは想定外だろう。
 田安門が開き、政府軍が行軍を開始する。反乱軍の二十八センチ榴弾砲が、皇居を射程にとらえる前に、押し止められなければならない。行軍は早目のものとなった。
 軍隊は街道を北へ向かい、飯田町付近にさしかかる。徳川時代は立派な武家屋敷が建ち並んでいたが、今は廃れて空き家も目立つ。一部は畑になっている場所もあった。
 飯田町の住人達は、行軍する姿を見て争乱の気配を察し、避難し始める。
 跳は支給された小銃を別の者に渡し、牛込橋へ進む軍と別れ、一人違う方向へ走り出した。
 行軍する兵達の方を振り返ると、石走と目が合った。力強い目をしている。
 逃げ惑い混乱する人々の中を、小石川橋に向けて駆ける。
跳は走りながら、鳥羽伏見の戦いを思い出していた。
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