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第八章 異世界の中の異世界とか、本当に勘弁してほしいです
3.愛しの我が家?
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私はしばらくの間、本気で思考が停止していたと思う。
落下の衝撃、無の暗闇から昼間の自然光。そして何より、私のアパートの「天井」に座っているという、何から手をつけていいのかわからない状況です。
右手でこめかみをもみながら、その手にはやっぱりすっぽり穴が開いていることにも気づく。まるであの何かに触られたところだけ細胞が溶けてしまったように、完璧に失われている。痛みはないけど、手のひらの中身の骨や脂肪、筋肉が見えてちょっとグロかった。思ったよりも皮膚のした、身体の中身ってピンク色なんだ。鶏肉とか豚肉よりは色が濃くて牛肉に近いかも。筋や神経なのかな、こまかい糸みたいなものもたくさん通っているみたい。
痛みがないせいで取り乱さずにすんでいるけど、そこも私の身体の一部だというのにグロいと思ってしまうのってなんだか不思議だ、とぼんやり思ったりする。ちょっと本気で現実逃避したい。
私はもう思ったことをなんでも口に出してみることにした。やけっぱちになっている人ってこうなるよね。テストとか提出物とか企画書とかの締め切り前とかね。
「逆さまだし。私の部屋だし。手の穴意味わかんないし。逆さまだし。何なのこれ」
そう。私は、というか「私だけ」が、重力が逆転したかのように天井に吸い付いている。首をひねって「上」を見るようにすれば、記憶のままの家具たちがフローリングの床から「ぶら下がって」いる。
私の部屋は1Kの、よくある間取りのアパートだ。フローリングの部屋の中央には茶色のラグが敷いてあって、その上にこじんまりとした白いソファと小さな茶色いテーブル。入り口から一番遠い角に置かれたシングルベッド。シーツは茶色と白のチェックの模様で、そろそろ洗濯をしようと思っていたところだ。ベッドわきには壁のコンセントにつながった携帯の充電器がのた打ち回るように床に伸びている。毎朝出勤と同時に慌てて外していくとだいたいああなるけど、きっとみんなもそうだよね。肝心の携帯本体は鞄の中に入れっぱなしだったのか、ケーブルに繋げられてはいない。
テーブル正面に置かれたテレビはパソコンのモニターと同じくらいの大きさで、スポーツ観戦には向かないやつだ。録画機能ついてないしね。部屋の隅に置いてあるのはよくある三段タイプのカラーボックスで、お気に入りの小説や漫画、数枚のCDやDVDを入れて本棚として使っている。逆さま状態の私からすれば、天井にありえない強度でくっついているようにも見えて、今にも落ちてくるんじゃないかとだいぶ怖い。収納されてる本は読みたいけどね。読んでしばらく現実逃避したいけどね。
トイレと風呂場に続く、廊下と呼ぶのもおこがましいほどのささやかな通路の先にあるのは冷蔵庫とキッチン。台所は燃費の悪そうな電気コンロが作りつけである程度で、まともな料理をする人には向かないやつ。シンクも大型の鍋を洗うときに水道の高さが足りなくてつっかかる程度に小さいタイプ。その奥にある冷蔵庫もあからさまに一人暮らし用の雪だるまみたいなサイズのものだ。ちょっと開けてみたいと思ったけど、やめておく。
背伸びをすれば手が届きそう開けれそうだったけど、転移をしたときのまま中に入っているはずのトマトや小松菜や納豆がどういう状態であっても受け止めきれない気がしたので。
まあ何にしろ、間違いなく私の部屋だ。
さっきまで湿っていたはずの手はいっそかさかさに乾いていて、その指先で今現在の床である天井をなぞれば、思いのほかざらざらとした壁紙の感覚が伝わってきた。
天井って触ったことないけど、こんな感じだったのね。まあ壁紙の延長なのだから感動はないけど。
ついでとばかりに部屋の中央にあるシーリングライトに人差し指を伸ばせば、ちょっとべたべたとした埃と汚れが指先にまとわりつく。指先を拭うように擦り合わせながらそのリアルな感覚に、自然とため息が漏れた。
「いやもう、ほんと……参ったなあ」
黄色のカーテンは閉じられたままで、差し込む陽の強さは昼間のもの。
こうして見ると、転移させられた日、出勤前の朝はきっとこうであったんだろうなという状態そのものだ。時間の概念ってどうなっちゃってるんだろうと思いながら、四つんばいになって窓まで近づいてみる。下から上にぶさらがっているという不可思議な状態のカーテンの合わせ目から外をのぞいてみたけど、位置的に路地裏の袋小路に面しているから人通りはまったくなくて、時間帯を把握する役には立たない。
天井が床になっている逆さまの状態で外を見るのはとても違和感があった。木や電柱が上から生えていて、電線がその間にわちゃわちゃとひしめいている。耳を澄ましても何の音も聞こえてこないあたり、私は無事日本に帰還したわけではなさそうだ。ずっと戻りたいと思っていた私の部屋だけど、手放しで喜べる状況ではないってことみたいですね。
ほんとに、なんで私は逆さまなのだ。
黙って座っていると狂いそうなので、とにかく動いてみようと私は窓を開けて外の空気を吸おうと立ち上がる。そのまま鍵に手を伸ばした。耳みたいなカーブを描く古いタイプの鍵で、天井から開けようとするのは思いのほか手こずった。
それでもなんとかロック部分に指先を付け、スライドしようとしたんだけど。
「かっ……硬い……!」
私は全身をしならせてロックを上にスライドしようとしているのに、接着剤で固めたかのような硬さだった。
毛布に付く拓斗の毛を取るために、毎朝ベランダに出てぱたぱたする私は、ぜったいにこんなに固く閉めていないぞ。
どういうことだよと思いながらもあきらめて、私は再び天井にへたり込んだ。穴(ボラミニ)に放り込まれてからずっと疲れはないんだけど、やっぱり頭がぼんやりと重い、不思議なだるさを感じ続けている。湯あたりしたような、あるいは酩酊にも似た。
「開っかないし! もうほんと、なんなの。どうしろっていうの!」
私は投げやりに天井に寝転んだ。重い頭が重力に従って天井にごすんと横たえられる。仰向けになって、変わらず床からぶら下がっているベッドやテーブルを見上げて――おかしなものに気づいた。
部屋の隅のベッドの下、なにか落ちている。
瞬きをしながらゆっくり上体を起こして目を凝らせば、それは体育すわりをしてうずくまった状態のミニチュア人形だと思われた。
ちょうどガチャガチャに入っているフィギュアのようなサイズ。黒っぽい服が着せられているようだが、よく見えない。
顔を埋めた不自然なデザインの人形なんて、よく制作会社で企画通ったなと考えて、いや、そもそも私そんなの買った覚えないし、とつっこみを入れる。
むむむと眉を寄せて身を乗り出しながら観察をすると、さらにおかしいことに気づく。
かすかに震える頭、ときどき大きく上下する肩。
泣いているのでなければ、何かの痛みに耐えているかのよう。
ライターより一回り小さいくらいの人形がだ。
私はいろんな感情をこらえるように唇を引き結んで、鼻から息を大きく吐き出す。
「……どういうことなのか。誰かほんとに説明してほしい」
「お望みどおりに、説明をして差し上げますとも」
風呂場のほうから声がした。反射的にそちらを見る。
視界に映るふわふわ尻尾。まるで上等なほこり取りみたい、なんて場違いな考えが頭をよぎる。それをぴんと立てた猫が――拓斗が、逆さまにゆったりと歩いていた。
「ただ先に、モンブチの鶏ささみをひと口いただけると、幸いなんですけどねえ」
テーブルのそばまで来て座り、高級品をさらりとねだって舌を出し口を舐めた。
本当にこれ、夢だとしたら、いつ覚めてくれるんだろう?
落下の衝撃、無の暗闇から昼間の自然光。そして何より、私のアパートの「天井」に座っているという、何から手をつけていいのかわからない状況です。
右手でこめかみをもみながら、その手にはやっぱりすっぽり穴が開いていることにも気づく。まるであの何かに触られたところだけ細胞が溶けてしまったように、完璧に失われている。痛みはないけど、手のひらの中身の骨や脂肪、筋肉が見えてちょっとグロかった。思ったよりも皮膚のした、身体の中身ってピンク色なんだ。鶏肉とか豚肉よりは色が濃くて牛肉に近いかも。筋や神経なのかな、こまかい糸みたいなものもたくさん通っているみたい。
痛みがないせいで取り乱さずにすんでいるけど、そこも私の身体の一部だというのにグロいと思ってしまうのってなんだか不思議だ、とぼんやり思ったりする。ちょっと本気で現実逃避したい。
私はもう思ったことをなんでも口に出してみることにした。やけっぱちになっている人ってこうなるよね。テストとか提出物とか企画書とかの締め切り前とかね。
「逆さまだし。私の部屋だし。手の穴意味わかんないし。逆さまだし。何なのこれ」
そう。私は、というか「私だけ」が、重力が逆転したかのように天井に吸い付いている。首をひねって「上」を見るようにすれば、記憶のままの家具たちがフローリングの床から「ぶら下がって」いる。
私の部屋は1Kの、よくある間取りのアパートだ。フローリングの部屋の中央には茶色のラグが敷いてあって、その上にこじんまりとした白いソファと小さな茶色いテーブル。入り口から一番遠い角に置かれたシングルベッド。シーツは茶色と白のチェックの模様で、そろそろ洗濯をしようと思っていたところだ。ベッドわきには壁のコンセントにつながった携帯の充電器がのた打ち回るように床に伸びている。毎朝出勤と同時に慌てて外していくとだいたいああなるけど、きっとみんなもそうだよね。肝心の携帯本体は鞄の中に入れっぱなしだったのか、ケーブルに繋げられてはいない。
テーブル正面に置かれたテレビはパソコンのモニターと同じくらいの大きさで、スポーツ観戦には向かないやつだ。録画機能ついてないしね。部屋の隅に置いてあるのはよくある三段タイプのカラーボックスで、お気に入りの小説や漫画、数枚のCDやDVDを入れて本棚として使っている。逆さま状態の私からすれば、天井にありえない強度でくっついているようにも見えて、今にも落ちてくるんじゃないかとだいぶ怖い。収納されてる本は読みたいけどね。読んでしばらく現実逃避したいけどね。
トイレと風呂場に続く、廊下と呼ぶのもおこがましいほどのささやかな通路の先にあるのは冷蔵庫とキッチン。台所は燃費の悪そうな電気コンロが作りつけである程度で、まともな料理をする人には向かないやつ。シンクも大型の鍋を洗うときに水道の高さが足りなくてつっかかる程度に小さいタイプ。その奥にある冷蔵庫もあからさまに一人暮らし用の雪だるまみたいなサイズのものだ。ちょっと開けてみたいと思ったけど、やめておく。
背伸びをすれば手が届きそう開けれそうだったけど、転移をしたときのまま中に入っているはずのトマトや小松菜や納豆がどういう状態であっても受け止めきれない気がしたので。
まあ何にしろ、間違いなく私の部屋だ。
さっきまで湿っていたはずの手はいっそかさかさに乾いていて、その指先で今現在の床である天井をなぞれば、思いのほかざらざらとした壁紙の感覚が伝わってきた。
天井って触ったことないけど、こんな感じだったのね。まあ壁紙の延長なのだから感動はないけど。
ついでとばかりに部屋の中央にあるシーリングライトに人差し指を伸ばせば、ちょっとべたべたとした埃と汚れが指先にまとわりつく。指先を拭うように擦り合わせながらそのリアルな感覚に、自然とため息が漏れた。
「いやもう、ほんと……参ったなあ」
黄色のカーテンは閉じられたままで、差し込む陽の強さは昼間のもの。
こうして見ると、転移させられた日、出勤前の朝はきっとこうであったんだろうなという状態そのものだ。時間の概念ってどうなっちゃってるんだろうと思いながら、四つんばいになって窓まで近づいてみる。下から上にぶさらがっているという不可思議な状態のカーテンの合わせ目から外をのぞいてみたけど、位置的に路地裏の袋小路に面しているから人通りはまったくなくて、時間帯を把握する役には立たない。
天井が床になっている逆さまの状態で外を見るのはとても違和感があった。木や電柱が上から生えていて、電線がその間にわちゃわちゃとひしめいている。耳を澄ましても何の音も聞こえてこないあたり、私は無事日本に帰還したわけではなさそうだ。ずっと戻りたいと思っていた私の部屋だけど、手放しで喜べる状況ではないってことみたいですね。
ほんとに、なんで私は逆さまなのだ。
黙って座っていると狂いそうなので、とにかく動いてみようと私は窓を開けて外の空気を吸おうと立ち上がる。そのまま鍵に手を伸ばした。耳みたいなカーブを描く古いタイプの鍵で、天井から開けようとするのは思いのほか手こずった。
それでもなんとかロック部分に指先を付け、スライドしようとしたんだけど。
「かっ……硬い……!」
私は全身をしならせてロックを上にスライドしようとしているのに、接着剤で固めたかのような硬さだった。
毛布に付く拓斗の毛を取るために、毎朝ベランダに出てぱたぱたする私は、ぜったいにこんなに固く閉めていないぞ。
どういうことだよと思いながらもあきらめて、私は再び天井にへたり込んだ。穴(ボラミニ)に放り込まれてからずっと疲れはないんだけど、やっぱり頭がぼんやりと重い、不思議なだるさを感じ続けている。湯あたりしたような、あるいは酩酊にも似た。
「開っかないし! もうほんと、なんなの。どうしろっていうの!」
私は投げやりに天井に寝転んだ。重い頭が重力に従って天井にごすんと横たえられる。仰向けになって、変わらず床からぶら下がっているベッドやテーブルを見上げて――おかしなものに気づいた。
部屋の隅のベッドの下、なにか落ちている。
瞬きをしながらゆっくり上体を起こして目を凝らせば、それは体育すわりをしてうずくまった状態のミニチュア人形だと思われた。
ちょうどガチャガチャに入っているフィギュアのようなサイズ。黒っぽい服が着せられているようだが、よく見えない。
顔を埋めた不自然なデザインの人形なんて、よく制作会社で企画通ったなと考えて、いや、そもそも私そんなの買った覚えないし、とつっこみを入れる。
むむむと眉を寄せて身を乗り出しながら観察をすると、さらにおかしいことに気づく。
かすかに震える頭、ときどき大きく上下する肩。
泣いているのでなければ、何かの痛みに耐えているかのよう。
ライターより一回り小さいくらいの人形がだ。
私はいろんな感情をこらえるように唇を引き結んで、鼻から息を大きく吐き出す。
「……どういうことなのか。誰かほんとに説明してほしい」
「お望みどおりに、説明をして差し上げますとも」
風呂場のほうから声がした。反射的にそちらを見る。
視界に映るふわふわ尻尾。まるで上等なほこり取りみたい、なんて場違いな考えが頭をよぎる。それをぴんと立てた猫が――拓斗が、逆さまにゆったりと歩いていた。
「ただ先に、モンブチの鶏ささみをひと口いただけると、幸いなんですけどねえ」
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