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三章 異世界からの脱出を目指すにあたり、男になります
9.魔獣と暗器使い
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ギィの主人がいるという町、ビエチアマンまであと数日になった。
天候が良ければ夜通し走り、明日着けるかもしれないとギィは言う。思えば彼に拾ってもらってから一週間以上は経っていた。たしかにそろそろ着いてもいいころだ。
今日の朝食は白湯と干し肉と茹でたジャガイモである。干し肉と言っても日本の甘く加工された柔らかいものではなく、バキバキに硬いやつだ。ギィはそれを噛み砕きながら空を見上げた。今はからっと晴れ渡り、いやになるほど透き通った青空が広がっている。
しかし油断はできない。いい天気だなあと呟いて伸びをした後には、前方の山には雲ができていたりするのだ。緩やかな山越えはしてきたが、今日が最後の大きな山越えだ。天候の変わりやすさは今までの比ではないだろう。
朝食を作った火をそのままに、私は手早く携帯食も用意する。ジャガイモは芽をくり貫いて茹でた朝の残りがあるので、豆だけ調理する。乾燥させたグリーンピースのような豆を湯で戻し、塩をほんのすこし振って、凍り付いてしまわないようにジャガイモと一緒にやわらかい麻布で幾重にも包む。
それから、籐のような植物で編まれた籠へ入れておく。こうすれば籠ごとギィに手渡せる。ギィはトナカイを操縦しながら、膝の上の籠から食べることができる。
私用のジャガイモには塩だけでなく胡椒もふりかける。生肉の保存のために携帯はしているものの、ギィは胡椒が苦手なのだ。
「できれば今夜は休まず走って、明日には着きたい」
ギィがそんなふうに内心を言うのは珍しい。何か気になることでもあるのだろうか。
一刻もはやくビエチアマンに着きたいという彼の気持ちが、ここ数日でさらに強まっている気がする。
晴れるといいがと彼が呟いたので、私は胸を張る。
「てるてる坊主なら、お任せを」
ギィにもたまにも無視されることが増えてきたが、私はめげない。
※
布で作られたリサイクル可能なてるてる坊主をぶら下げて、吹雪の中をそりは進む。役目を果たせなかったてるてる坊主は、いくぶんばつが悪そうに見える。
時刻はすでに真夜中をすぎただろうか。
最後の山越えというだけあって、道なき道を進んでいく。私のよく知る「山」とは、それこそ木々がみっちり生えているものだが、ここでは違う。いわゆるヒマラヤとかああいう、本物の山岳といったところか。ぽつぽつ生えていた木々も、育つことを諦めたようにその姿を消している。スキー場から林を取り去った風景みたいだ。
さすがのギィも、何度も通ったことがあるとはいえ、車三台分先はまっしろという状況ではどうにもできない。
夜なのに眩しい。これは人生で体験したことがない、不思議な状態だ。
月明かりに照らされた雪が白い光を反射して、吹きすさぶ雪がちかちかと羽虫のように行きかうのだ。もっと穏やかでピンク色だったら、夜桜とも思えたかもしれないが。
ギィが諦めたように手綱を下ろしたとき、たまが鋭く叫んだ。
(小娘。何か来る――善くないものだ。注意しろ!)
よくないもの? と思ったとき、目の前に銀色の刀のようなものが見えて反射的に身を縮めた。
なに、と思い顔を上げると、そこに浮かんでいたのは。
山手線の電車、一両ぶんはあろうかという大きさの、巨大なトンボだった。
ビックライトでこれでもかと大きくしただけではない。その複眼はおぞましいほどの数が張り出していて、のっぺりとした緑色だ。羽の部分は私のよく知る、薄い透明な形状ではなく、黒っぽい皮が張られている。まるでこうもりのよう。腹部は黄色、蛇のように蛇腹に割れ、その末端、お尻のあたりにはムカデのようなもう一つの口もある。
顔には顔で口がついている。カマキリのように鋭い牙があり、口周りからは茶色い、バッタが出すような色の液を吹いている。触覚らしきものは綱引きの綱よりもなお太い。それが絶え間なくうごめき、まるでそこで何かを感知しようとしているかのようだ。とにかく大きい。
ぶううううんという独特の音がこいつの羽音だと気づいたのは、だいぶ後になってからだった。吹雪の風の音とあいまって私にはよくわからない不思議な音にしか聞こえなかったのだ。
意味がわからないと硬直する私は、次の瞬間思い切り蹴飛ばされた。その勢いのままそりから転がり落ちる。雪に埋もれながらも顔を上げれば、私が座っていた部分の木材が、おおきく抉り取られている様子が見えた。ギィが蹴飛ばしてくれなかったらと思うと、一瞬で血の気が引いた。
(小娘、そのまま身を低くして雪にもぐっていろ! そして可能な限り動くな。あいつは視認もするが基本的には熱に反応するはず)
というか、動けと言われても動けないに違いなかった。喰われる、という、根源的な動物としての恐怖に支配され、私はどこの筋肉も動かせない。
「ギィは」
ようやく呟けた声は、まるで他人のもののように聞こえる。
(烙印奴隷だろう。暗器使いの腕前で、拝見しようじゃないか)
そんな余裕ぶったことを言ってと思うが、私にはなすすべはない。
ギィはそりの向こう側で、私に背を向けるようなかたちで立っていた。その背中も吹雪のせいでけっこうかすんで見える。
やや腰を落として巨大トンボと対峙しているが、相手はその胴体部分だけでも一車両ほどの大きさだ。牙だけでもサーフボードくらいの長さがあるし、複眼に至っては大人が大の字に広げたくらいはある。どう考えても無茶だ。
ただただ静観するしかなかった。するとギィがゆっくりと左手を動かすのが見えた。懐へその手を差し込んだようだった。(ちなみに、彼は左利きだ)
巨大トンボは液を噴きながら、いつでも襲いかかれるように上下運動をしている。まるでヘリコプターのホバリングだ。
そして一気にその口を開き、ギィに向かって喰らいついていった。ギィは左側へ跳んで回避する。一瞬前まで彼が立っていた足場が、土ごとショベルカーでほじくったようにえぐられた。白銀一色の世界に、久々にほかの色を見た。大地の土色。
巨大トンボの側面が視界に写る。横から見てもやはり相当の長さがある。
頭部から生える触角は執念深く蠢き、今にも私の存在に気づきそうだ。
ギィはその巨体に遮られ、まったく見ることができない。無事だといいけど――と思ったとき、急に目の前に灰色の煙が立ち込めた。
まるでドライアイスがあふれるような速さでそりや私を包み込み、ついには巨大なトンボの身体に至り、視界は灰一色。文字通りなにも見ることができない。
目に染みたりはしないが、とにかく視覚を奪われた状態で、私はただただ縮こまってむせ込んだ。
そのときだ。身の毛もよだつようなおたけびが、あたりに響き渡った。
反射的に耳をふさぐ。灰色の煙を追い払うように、巨大トンボは雪の上に落下した。
何が起こったのかわからないままの私は、ただ呆然と巨大トンボの姿を眺めるしかなかった。
吹雪がほんのすこし弱まって、その巨大トンボの背中が見えたとき、私は理解した。
その羽の付け根あたりがぐちゃぐちゃになり、そこからは緑色の粘液が流れ出ている。完膚なきまでに破壊されているのだ。包丁か何かで、ただただその破壊を目的としてえぐられ続けた結末なのだろう。
これではとうてい飛ぶことはできない。
私はおそるおそる上体を起こし、そりに身を寄せる。巨大トンボの奥に立っているだろうギィを覗き込んだ。
左手に何か光るものを持っている。目を凝らしてしばらくしてようやく、それが鋭利な針のようなものだとわかった。
「うかつに近づくな。この図体だ。毒がまわりきるまでは、まだしばらくかかる」
ギィが渇いた声で忠告した。
暗器使いとは言いえて妙ではないか。
彼はその懐に、煙玉から短刀、そして毒針にいたるまであらゆる武器を忍ばせていたのだ。
※
(ポチュニトスという寒冷地に棲息する魔獣の亜種だな。本家はもう一回り身体が大きい)
本家はこれより大きいっていうの? というか、これが魔獣。はじめてみた。
ククルージャにいたとき、四人は魔獣から街を守るのが仕事だったけど、実物を見たことはもちろんない。
しかもいろんな種類の魔獣がいるのだろう。こんな危険な仕事を、いつも文句ひとつ言わずにまっとうしていたというのか。
私は四人のことを考えて、ふと心が熱くなった。
人としての尊厳を何度となく踏みにじられながらも、彼らは彼らにできることを丁寧に完遂していた。その尊さと、いまだ傷つき続けている心のやわらかさを思って、私は叶うことなら今すぐ抱きつきたい気持ちになった。
そりにつかまりながら立ち上がろうとしたそのとき、雪のきしむ音がした。
馬鹿、という声が頭に届くと同時に、私は再び雪の上に転がっていた。
目を開けるとそこには誰かのうなじと、それから夜空とが見えた。
ギィに抱き込まれている。目だけを動かしてまわりを見ると、巨大トンボがその腹の先を鞭のようにしならせて、最後の攻撃をしたことがわかった。
「――あんた、いったいどう生きてきた? くたばりかけの獣の前で不用意に動くとは」
苦々しさと、怒りと苛立ち。ギィは本気で怒っていた。
私は謝るべきかお礼を言うべきかわからなくなって、そして何も言えない自分がいやになった。
きっとこの世界では常識なのだろう。でも私は、本当に何も知らないのだ。私のせいではない。だから落ち込んだり恥じることではないのだけれど、そのせいでギィに迷惑をかけてしまったのだと思うと、やりきれなくなった。それにたまだって、熱以外にも反応すると忠告してくれていたのに。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ギィ」
悔しさからか、目の奥がじんと熱くなってしまう。泣くもんか。私は絶対に、泣かない。
まっすぐギィの瞳を見て謝罪する。しばらくそのまま見詰め合うと、ギィの苛立った表情は、しだいに困惑へと変わっていった。
(小娘、身体に触れさせるな)
たまの声で我に返る。
そうだ、見かけと声は男にしてくれているが、触られたらごまかせない。
「本当に! ごめんなさい。ものを知らなくて、自分でもいやになるんだけど」
そう言いながら、ぐいぐいとギィの身体を押しのける。細く見えるが、その腕は鋼のように力強い。そのまま、さらに力を込めて抱きしめられる。ともすると恋人への抱擁のようにも感じられ、私は慌てて身をよじる。ギィの身体の下からずりずりと這い出てみる。立ち上がろうとしたところで、足払いをかけられて再度すっころんだ。
何をする、と抗議しようとしたところで、今までにない真剣な表情のギィと向かい合う。
「な、何ですか」
「確かめたくてな」
「と言いますと」
「あんたの身体」
「こっ、この前ひん剥いてその目で見てたじゃないですか!」
「そうだったな。もう一回」
「いやです」
「拒絶する権利があるとでも?」
たしかに、命を何度も救われている。
「――じゃあ! 触らないならいいですよ。しかも、ちょっと離れて見るなら」
「男のくせに、いやにもったいぶるな」
「慎み深い民族なもので――ほら、男!」
私はいそいそと距離を取り、ちびっこがワンピースをめくりあげるような要領で、ぐわっと上衣をめくって見せた。わりとやけっぱちである。
男に見えているとはいえ、これってまるで痴女のようでは? 女としての慎みとはなんだったか。しかも、さっ、寒い!
震えながらギィの様子を伺うと、苦虫を噛み潰したような表情でゆっくりとうなずいた。
「見れば見るほど貧弱だ。悪かったな」
いいけどね。いいんだけど!
腑に落ちない!!
天候が良ければ夜通し走り、明日着けるかもしれないとギィは言う。思えば彼に拾ってもらってから一週間以上は経っていた。たしかにそろそろ着いてもいいころだ。
今日の朝食は白湯と干し肉と茹でたジャガイモである。干し肉と言っても日本の甘く加工された柔らかいものではなく、バキバキに硬いやつだ。ギィはそれを噛み砕きながら空を見上げた。今はからっと晴れ渡り、いやになるほど透き通った青空が広がっている。
しかし油断はできない。いい天気だなあと呟いて伸びをした後には、前方の山には雲ができていたりするのだ。緩やかな山越えはしてきたが、今日が最後の大きな山越えだ。天候の変わりやすさは今までの比ではないだろう。
朝食を作った火をそのままに、私は手早く携帯食も用意する。ジャガイモは芽をくり貫いて茹でた朝の残りがあるので、豆だけ調理する。乾燥させたグリーンピースのような豆を湯で戻し、塩をほんのすこし振って、凍り付いてしまわないようにジャガイモと一緒にやわらかい麻布で幾重にも包む。
それから、籐のような植物で編まれた籠へ入れておく。こうすれば籠ごとギィに手渡せる。ギィはトナカイを操縦しながら、膝の上の籠から食べることができる。
私用のジャガイモには塩だけでなく胡椒もふりかける。生肉の保存のために携帯はしているものの、ギィは胡椒が苦手なのだ。
「できれば今夜は休まず走って、明日には着きたい」
ギィがそんなふうに内心を言うのは珍しい。何か気になることでもあるのだろうか。
一刻もはやくビエチアマンに着きたいという彼の気持ちが、ここ数日でさらに強まっている気がする。
晴れるといいがと彼が呟いたので、私は胸を張る。
「てるてる坊主なら、お任せを」
ギィにもたまにも無視されることが増えてきたが、私はめげない。
※
布で作られたリサイクル可能なてるてる坊主をぶら下げて、吹雪の中をそりは進む。役目を果たせなかったてるてる坊主は、いくぶんばつが悪そうに見える。
時刻はすでに真夜中をすぎただろうか。
最後の山越えというだけあって、道なき道を進んでいく。私のよく知る「山」とは、それこそ木々がみっちり生えているものだが、ここでは違う。いわゆるヒマラヤとかああいう、本物の山岳といったところか。ぽつぽつ生えていた木々も、育つことを諦めたようにその姿を消している。スキー場から林を取り去った風景みたいだ。
さすがのギィも、何度も通ったことがあるとはいえ、車三台分先はまっしろという状況ではどうにもできない。
夜なのに眩しい。これは人生で体験したことがない、不思議な状態だ。
月明かりに照らされた雪が白い光を反射して、吹きすさぶ雪がちかちかと羽虫のように行きかうのだ。もっと穏やかでピンク色だったら、夜桜とも思えたかもしれないが。
ギィが諦めたように手綱を下ろしたとき、たまが鋭く叫んだ。
(小娘。何か来る――善くないものだ。注意しろ!)
よくないもの? と思ったとき、目の前に銀色の刀のようなものが見えて反射的に身を縮めた。
なに、と思い顔を上げると、そこに浮かんでいたのは。
山手線の電車、一両ぶんはあろうかという大きさの、巨大なトンボだった。
ビックライトでこれでもかと大きくしただけではない。その複眼はおぞましいほどの数が張り出していて、のっぺりとした緑色だ。羽の部分は私のよく知る、薄い透明な形状ではなく、黒っぽい皮が張られている。まるでこうもりのよう。腹部は黄色、蛇のように蛇腹に割れ、その末端、お尻のあたりにはムカデのようなもう一つの口もある。
顔には顔で口がついている。カマキリのように鋭い牙があり、口周りからは茶色い、バッタが出すような色の液を吹いている。触覚らしきものは綱引きの綱よりもなお太い。それが絶え間なくうごめき、まるでそこで何かを感知しようとしているかのようだ。とにかく大きい。
ぶううううんという独特の音がこいつの羽音だと気づいたのは、だいぶ後になってからだった。吹雪の風の音とあいまって私にはよくわからない不思議な音にしか聞こえなかったのだ。
意味がわからないと硬直する私は、次の瞬間思い切り蹴飛ばされた。その勢いのままそりから転がり落ちる。雪に埋もれながらも顔を上げれば、私が座っていた部分の木材が、おおきく抉り取られている様子が見えた。ギィが蹴飛ばしてくれなかったらと思うと、一瞬で血の気が引いた。
(小娘、そのまま身を低くして雪にもぐっていろ! そして可能な限り動くな。あいつは視認もするが基本的には熱に反応するはず)
というか、動けと言われても動けないに違いなかった。喰われる、という、根源的な動物としての恐怖に支配され、私はどこの筋肉も動かせない。
「ギィは」
ようやく呟けた声は、まるで他人のもののように聞こえる。
(烙印奴隷だろう。暗器使いの腕前で、拝見しようじゃないか)
そんな余裕ぶったことを言ってと思うが、私にはなすすべはない。
ギィはそりの向こう側で、私に背を向けるようなかたちで立っていた。その背中も吹雪のせいでけっこうかすんで見える。
やや腰を落として巨大トンボと対峙しているが、相手はその胴体部分だけでも一車両ほどの大きさだ。牙だけでもサーフボードくらいの長さがあるし、複眼に至っては大人が大の字に広げたくらいはある。どう考えても無茶だ。
ただただ静観するしかなかった。するとギィがゆっくりと左手を動かすのが見えた。懐へその手を差し込んだようだった。(ちなみに、彼は左利きだ)
巨大トンボは液を噴きながら、いつでも襲いかかれるように上下運動をしている。まるでヘリコプターのホバリングだ。
そして一気にその口を開き、ギィに向かって喰らいついていった。ギィは左側へ跳んで回避する。一瞬前まで彼が立っていた足場が、土ごとショベルカーでほじくったようにえぐられた。白銀一色の世界に、久々にほかの色を見た。大地の土色。
巨大トンボの側面が視界に写る。横から見てもやはり相当の長さがある。
頭部から生える触角は執念深く蠢き、今にも私の存在に気づきそうだ。
ギィはその巨体に遮られ、まったく見ることができない。無事だといいけど――と思ったとき、急に目の前に灰色の煙が立ち込めた。
まるでドライアイスがあふれるような速さでそりや私を包み込み、ついには巨大なトンボの身体に至り、視界は灰一色。文字通りなにも見ることができない。
目に染みたりはしないが、とにかく視覚を奪われた状態で、私はただただ縮こまってむせ込んだ。
そのときだ。身の毛もよだつようなおたけびが、あたりに響き渡った。
反射的に耳をふさぐ。灰色の煙を追い払うように、巨大トンボは雪の上に落下した。
何が起こったのかわからないままの私は、ただ呆然と巨大トンボの姿を眺めるしかなかった。
吹雪がほんのすこし弱まって、その巨大トンボの背中が見えたとき、私は理解した。
その羽の付け根あたりがぐちゃぐちゃになり、そこからは緑色の粘液が流れ出ている。完膚なきまでに破壊されているのだ。包丁か何かで、ただただその破壊を目的としてえぐられ続けた結末なのだろう。
これではとうてい飛ぶことはできない。
私はおそるおそる上体を起こし、そりに身を寄せる。巨大トンボの奥に立っているだろうギィを覗き込んだ。
左手に何か光るものを持っている。目を凝らしてしばらくしてようやく、それが鋭利な針のようなものだとわかった。
「うかつに近づくな。この図体だ。毒がまわりきるまでは、まだしばらくかかる」
ギィが渇いた声で忠告した。
暗器使いとは言いえて妙ではないか。
彼はその懐に、煙玉から短刀、そして毒針にいたるまであらゆる武器を忍ばせていたのだ。
※
(ポチュニトスという寒冷地に棲息する魔獣の亜種だな。本家はもう一回り身体が大きい)
本家はこれより大きいっていうの? というか、これが魔獣。はじめてみた。
ククルージャにいたとき、四人は魔獣から街を守るのが仕事だったけど、実物を見たことはもちろんない。
しかもいろんな種類の魔獣がいるのだろう。こんな危険な仕事を、いつも文句ひとつ言わずにまっとうしていたというのか。
私は四人のことを考えて、ふと心が熱くなった。
人としての尊厳を何度となく踏みにじられながらも、彼らは彼らにできることを丁寧に完遂していた。その尊さと、いまだ傷つき続けている心のやわらかさを思って、私は叶うことなら今すぐ抱きつきたい気持ちになった。
そりにつかまりながら立ち上がろうとしたそのとき、雪のきしむ音がした。
馬鹿、という声が頭に届くと同時に、私は再び雪の上に転がっていた。
目を開けるとそこには誰かのうなじと、それから夜空とが見えた。
ギィに抱き込まれている。目だけを動かしてまわりを見ると、巨大トンボがその腹の先を鞭のようにしならせて、最後の攻撃をしたことがわかった。
「――あんた、いったいどう生きてきた? くたばりかけの獣の前で不用意に動くとは」
苦々しさと、怒りと苛立ち。ギィは本気で怒っていた。
私は謝るべきかお礼を言うべきかわからなくなって、そして何も言えない自分がいやになった。
きっとこの世界では常識なのだろう。でも私は、本当に何も知らないのだ。私のせいではない。だから落ち込んだり恥じることではないのだけれど、そのせいでギィに迷惑をかけてしまったのだと思うと、やりきれなくなった。それにたまだって、熱以外にも反応すると忠告してくれていたのに。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ギィ」
悔しさからか、目の奥がじんと熱くなってしまう。泣くもんか。私は絶対に、泣かない。
まっすぐギィの瞳を見て謝罪する。しばらくそのまま見詰め合うと、ギィの苛立った表情は、しだいに困惑へと変わっていった。
(小娘、身体に触れさせるな)
たまの声で我に返る。
そうだ、見かけと声は男にしてくれているが、触られたらごまかせない。
「本当に! ごめんなさい。ものを知らなくて、自分でもいやになるんだけど」
そう言いながら、ぐいぐいとギィの身体を押しのける。細く見えるが、その腕は鋼のように力強い。そのまま、さらに力を込めて抱きしめられる。ともすると恋人への抱擁のようにも感じられ、私は慌てて身をよじる。ギィの身体の下からずりずりと這い出てみる。立ち上がろうとしたところで、足払いをかけられて再度すっころんだ。
何をする、と抗議しようとしたところで、今までにない真剣な表情のギィと向かい合う。
「な、何ですか」
「確かめたくてな」
「と言いますと」
「あんたの身体」
「こっ、この前ひん剥いてその目で見てたじゃないですか!」
「そうだったな。もう一回」
「いやです」
「拒絶する権利があるとでも?」
たしかに、命を何度も救われている。
「――じゃあ! 触らないならいいですよ。しかも、ちょっと離れて見るなら」
「男のくせに、いやにもったいぶるな」
「慎み深い民族なもので――ほら、男!」
私はいそいそと距離を取り、ちびっこがワンピースをめくりあげるような要領で、ぐわっと上衣をめくって見せた。わりとやけっぱちである。
男に見えているとはいえ、これってまるで痴女のようでは? 女としての慎みとはなんだったか。しかも、さっ、寒い!
震えながらギィの様子を伺うと、苦虫を噛み潰したような表情でゆっくりとうなずいた。
「見れば見るほど貧弱だ。悪かったな」
いいけどね。いいんだけど!
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