醜く美しいものたちはただの女の傍でこそ憩う

ふぁんたず

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第四章 異世界でも、借りた貸しはきちんと返しましょう

8.彼らの過去

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 頬が熱い。

 ちりちりと、あるいはじんじんとするような熱を持っている。いや、これは腫れている痛みな気がする。
 ぱちん、ぱちんという音も聞こえてきた。

「お目覚めかな、お嬢さん」

 この男は誰だったろう。長身で細面、美しいと言える顔立ちなのに、その目の奥に潜むのはなにかよくないものだ。
 ついでのように、最後にもう一発私の頬をぱちんと叩く。私は声を出そうとするが、ひどくのどが痛い。砂漠の不毛地帯のように乾いている。

「だ、れ……」
「おや、私のことも忘れてしまった? そろそろお遊びはおしまいにしたいんだけれど」

 ため息をついて、男は私の目の前にある椅子に腰を下ろす。あくまでゆったりと、上品に。まるで貴賓室のソファでくつろぐかのように。
 私は身体がひどく重くだるいことに気づく。この極限の状況と寒さのせいでおかしくなったのかもしれない。不自然にかたかたと震えている。壁に寄りかかるように座り、両手は錠をかけられ、ばんざいをさせられたままだ。

「お嬢さん、君はまったくの素人だ。何をしようとしてもすぐに気を失ってしまう、ただの人間。いったいどうしてギィルツクヤが君を使ったのか、理解不能なほどだ」
「言った、はず。私は何も、しらない」
「そうだとしても。君は唯一の手がかりだ。なんでもいい。彼らの会話でもいい。私は君とのありとあらゆる対話を望んでいる。話しているうちに知らぬ事実に気づくこともあるというもの」

 私は心底、ギィが私に何も話さなくてよかったと思う。苦痛に負けて情報を話した瞬間に、確かに私の肉体は自由になるだろう。
 ただ私の心は取り返しのつかない苦痛をずっと負うことになる。話すべきものがないなら諦めもつくというものだ。
 誰に恥じることも私はしていない。そう思えば少しだけ気持ちは軽くなる。

 アブドロは繊細な眉をひそめて、こまったねえと呟いた。

「ギィルツクヤは、私の懐刀ふところがたなでね。彼がいなければ、私はこの地位にはいないんだ」

 男はおもむろに話し出す。あるいは私の反応を探るためかもしれない。会話のとっかかりを見つけるためかもしれない。上品に椅子から立ち上がり、通路へ移動する。そこにあった水がめの水を、壁に掛けてあったなべに移し変え、通路にある明かりから火種を取りその場で火を熾す。私はそれをぼんやりと眺めながら、彼が熱湯を作る気だとようやく気づいた。

「あの兄妹を手に入れられたのは、本当に運がよかった。知ってる? 彼らはここから遠く離れた山岳地帯に住む、牧畜と戦闘で細々と暮らしていた少数民族」

 かつてはそれなりに大きな街を築いた民族だったが、西から侵入した遊牧民にその地を追われ、山岳へ移り住んだ。ギィたちは戦闘を得意とする民族ではあったが、圧倒的に数で負けていたという。結果、家畜の毛皮や乳で生計を立てるようになった。
 瞬く間に育った火になべをかけ、アブドロは再び私の前にある椅子に腰を下ろす。通路でふつふつと温度を上げる水を眺めながら、滔々と話していく。聞きたくないのに、それは耳に染み込んで、脳に届く。

 ギィとニグラさんは十数年まえ、病気の母親の医療費として多額の金銭が必要になった。父親はとうに故人。まだ幼かったギィはアブドロから金を借りた。担保は家の家畜五頭ぶん。
 しかし甲斐なく母親はじきに息を引き取った。ギィは家畜を売り払い金を工面し返済しようとしたが、借用書にはありえないほどの利子が記載されていた。
 ギィは抗った。アブドロは紙面を突きつけた。
 そうして烙印奴隷(スティグマート)に身を落とされた。アブドロは戦闘民族に伝わる戦いの技の有用性を知っていたのだ。とりわけ暗器の汎用性は高い。彼らの一族は人間の身体の秘孔ひこうなる急所を、代々教えついでいたという。
 ギィはあらゆることに手を染めさせられた。アブドロには政敵から何から、弱みを握りたい相手には事欠かなかった。
 年に一回、ニグラさんとの面会を許される日だけが、彼が息をつける場所だった。

 聞きたくなかった。聞いてしまえば、彼らに心を傾けてしまうとわかっていたから。
 あくまで借りを返すだけ。それは私の「大人としての」線引きで、防衛線だったのに。

 哀れなギィ。哀れなニグラさん。心の奥からふつふつと込み上げる熱。私はそれをやり過ごそうと努める。

「私はね、お嬢さん。ギィルツクヤを失えないよ。愛してさえいると思う。あんなに醜く哀れで惨めな化け物を、この私以外に誰が愛せる? それなのにあいつは今回私を裏切った。報告に来たときの様子がいつもと違う。どこが、というわけではないんだけどね。まあ勘ってやつさ。そうしたらほら、こんなざまだよ。逃がしやしない。証文がある限り、あいつは逃げられないんだ」

 そううっとりと微笑んで、煮えたぎったお湯を見つめている。私は恐怖と怒りのせめぎあいを感じた。我慢しろ、ここで言ってしまえば、自分の首を絞めるだけだ。

「なんとしても取り戻す。なに、あいつも満更ではないんだ。知ってる? あいつは表情ひとつ変えずに子どもの皮だって剥ぐことができる。ひょっとしたら楽しんでさえいたのかもなあ。呪われた戦闘民族の血筋かな」

 それを聞いた瞬間、私の中で何かが切れた。

「――馬鹿じゃないの。ギィが、好き好んでやっているとでも? あんたは知らないだけ。ギィはやわらかくってあたたかい心を持っている。とっておきの相手にだけ向けるための、ちゃんと大切にしている場所がある」

 こいつは知らないのだ。ギィが街中でぶつかった子どもを、どういう目で助け起こしてあげていたか。
 そりの手綱が壊れて立ち往生しているおじいさんに、無骨ながらもさりげなく直し方のアドバイスをしていたか。
 辛い味付けのスープを懐かしそうに見ているか。
 裁縫に失敗した私にどう苦笑したか。
 暖炉の編みぐるみを、どういう目で見つめていたか!

 ギィが借用書に署名してしまったことは仕方ない。日本でもよくある詐欺まがいの手口だろう。私たちはいつでも、ある程度の危険に取り巻かれている。自衛のために学校で勉強をし、社会で活かす。自己責任というのは簡単だ。
 けど、けど!

「ギィを貶めることは許さない! 好き好んで悪事をしたことなんてない! 訂正して!」

 ずっと黙っていた私の突然の抵抗に、アブドロはしばらく目を丸くしていた。
 しかし徐々にその目じりを吊り上げる。顔にも血がのぼり赤くなっていく。

「小娘がさかしらな口を。きさまがあいつの何を知る。あの誇り高い死神を語っていいのは、この私だけだ!」

 拘泥こうでい。この男はギィにすさまじい執着心を持っている。愛というものをななめ下から見ると、あるいはこういうかたちに見えることもあるのかもしれない。
 そうしてひしゃくに汲んでもなおぐつぐつと蠢く熱湯をたっぷりと汲み、私の前髪を鷲づかむ。ぐっと顔を上げられて、反射的に顔をゆがめる。熱湯の飛沫が飛んできて、とっさに顔を背けようとするが、頭皮ごと固定され動けない。

「手始めに二度と消えない火傷をつくってやろう。その後でおまえにも奴隷印を押してあげよう。ギィルツクヤとお揃いだ。死ぬまでこの地下で過ごすがいい」

 ああ、やってしまった。私は投げやりに反省する。基本的には事なかれ主義なのに、ときどきどうしても自分を抑えられなくなる。矯正したい私の癖だ。ただ黙っていられないのだ。他人を見下ろして人としての尊厳を傷つけるようなことを言うのは、聞くことも耐えられない。
 ひしゃくが額に当てられる。もうだめだ、とぎゅうっと目をつぶる。来るべき熱と痛みに少しでも備えようと身体を硬くした。

 しかし待てど待てど痛みは来ない。

 おそるおそる目を開けると、そこには驚いたような顔で動きを止めているアブドロがいた。

 どういう状況、と思ったとき、声が響いた。

「――この日を、どれだけ待っただろうな」




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