44 / 97
第四章 異世界でも、借りた貸しはきちんと返しましょう
10.ようやくひと段落と思いましたが、そうはいかないようです
しおりを挟む
いいにおいがする。
鶏肉で出汁をとったようなスープのにおいだ。それからキャベツを煮たときの、独特の香り。
暖かい。とてもいい気持ち。
においに誘われるように目を開く。ひびの入った漆喰の天井。石造りの壁。暖炉の薪の爆ぜる音。
数回まばたきをして、身体を起こそうとする。とたんに全身の関節という関節が悲鳴を上げて、私は身悶えた。
(小娘、起きたか)
幼い小学生くらいの声。幼いながらもはっきりした意思を感じる声。ともすれば高慢にも聞こえる声。たまの声だ。
たま?
「たま!?」
アブドロに粉々にされたのではなかったか。私は痛みも忘れて首を動かし、声の出所を求めて視線をさまよわせる。
しかしどこにも腕輪はない。
不思議に思って、しばらくどういうことだろうと考えていると、寝台のすぐ隣、机の上に置かれていた頭輪がきらりと光った。
私がククルージャにいたときから身につけていたやつだ。頭衣を上から押さえるティアラのような形状の。
(あの畜生に砕かれたのでな。ここを借りているぞ)
そんなヤドカリみたいなかんじなの? 思いのほか単純な仕組みにちょっと肩透かしをくらう。そういう装身具ならなんにでも取り付ける感じなのか。
心配して損したと息を吐けば、たまは呆れたようにやれやれと肩をすくめる気配がした。この癇に障るかんじ。間違いなくたまである。
「なによ。腕輪が壊されたときに、たまも死んじゃったかと思って心配したのに。ぴんぴんしてるじゃない」
たまはふうん? と面白がるように呟く。しまった、心配したなんて言うんじゃなかった。そう思いながらもたまの気配を懐かしく思う。
(我輩の本体、つまり物質的な身体はだな、アレクシスのもとにある。腕輪に宿らせていたのは、意識の一部だ。それが砕けていくぶん手間取ったがな。ここのところ魔力を溜めることに注力していたから、なんとかなっている)
たまが言うには、こんなふうに一度意識を宿した物質からほかの物質へ移ることは、とても魔力を喰うのだそうだ。
私たちの引越しと似てるのかな。確かにあれはすさまじく面倒くさい。
とにかく無事でよかったと思うが、なんとなく口には出さない。
「それより、ここって」
私は痛みをこらえて、上体を起こす。
私の格好は、ニグラさんの身代わりになっていたときのまま。つまりは汚れた奴隷服のワンピースである。
見覚えのあるこの家はジウォマさんの家だ。暖炉にはほどよい大きさの火が保たれている。その上には、鍋でくつくつとスープが熱されている。薪はまだ燃え始めたばかりのものもあるので、つい先ほどまで誰かが管理していたのだろう。
(あの男が、ずっと世話を焼いていたぞ。まあ、とんでもないことに巻き込んだのだから当然ではあるが)
とんでもないこと、と私は鸚鵡返しに呟いてみる。確かに、まるで嵐のようなすさまじい出来事だった。映画というか夢というか。
そもそも私、どうなったんだっけ。
(あの男と妹を拘束していた証文をな。燃やしていたぞ。主人も、灰になった羊皮紙を見て糸が切れたようになっていた。抜け殻のようにな。諦めもついたのではないか?)
そうだったのか。それなら、よかった。
(だめ押しのように脅してもいた。彼らと、それから小娘に手を出すようなことをしたら、次こそ地の果てまで追い詰めてでも息の根を止める、とな。いや、あれは小気味よかった)
小学生の声で小気味いいって。おじいちゃんみたい。
それにしても私の身の安全まで確保してくれるなんて。ギィってやっぱり、いい人だ。
(小娘にだけ、かも知れぬがな)
ほんに上々。と満足げに囁いた。
まるで期待どおりというような声。それって、どういう――。
そのときかちゃりと音がして、それから冷たい空気が忍び込んだ。
見ると果物やら野菜やらを抱えた、ギィがいた。
※
「気づいたか」
ギィは抑揚なく聞いてくる。ニグラさんを救出して、晴れて奴隷の身分からも解放されたのだ。なんというか、もっと晴れ晴れとしていてもいいのに。
そう言えば、性分だとでも返されそうだが。
「ギィ、ニグラさんたちは」
机に布袋をごとりと置く。またたくまに袋がたわんで、入っていたみかんやらイチジクやらが転がり出た。イチジク! 大好物だ。こんな寒冷地では出回りにくくて、高級品のはずなのだが。
「そうだな、ちょうど今ごろは、かつての俺たちの家にでも着いたんじゃないか」
机の上に出したチーズを手に取る。ショートケーキのような形状のものだ。
暖炉の前に座り、チーズを小さくちぎってスープに入れている。パンも取り出して串に刺して火のそばに立てる。とても穏やかな動作。
火を眺めているその横顔を見て、私は不思議に思った。
「ギィは帰らないんですか」
あなたのふるさとに。問えば、ギィは火を見たまま独り言のように呟く。
「あんたの言ったとおりだ。俺はアブドロを葬り、俺も葬られる。そうしてきれいに終わるつもりだったんだ。ニグラも自由で。ジウォマはいいやつだ。何を憂えることがある?」
返事は必要とされていなかった。私は黙って続きを待った。
ギィはそれから、身じろぎもせずに暖炉を見続けていた。
私はたまの気配がおかしいことに気づく。何かの期待に満ちて黙っている。どこか奇妙な熱を孕んだ気配。
けど、とギィは口を開いた。
「あんたは言ったんだ。俺がやわらかい心を持っていると」
言ったかな。
私はちょっと斜め左上を見上げて記憶を探る。いかんせんいろいろありすぎて、ここ数日の出来事はごちゃごちゃなのだ。
しばらくして思い出す。アブドロに捕まっているときに彼に向けて言った言葉だ。
ってギィ。あのとき聞いていたのか。
「ええ、まあ。言いましたかね」
なんというかちょっと照れくさいので、私は暖炉に視線をやって答える。ギィがじっと私を見ているのが、視界の端に映って面映い。
「生きろ、とも」
言った。それはすごく覚えている。そりゃあ死ぬ気の人がいたら、生きてって言いたくもなるでしょう。それより暖炉のスープぐつぐつしてきたよ。食べごろでは? もう話をやめて食べませんかそれ。
私はじりじりと空腹を覚えてきたので、痛む身体を無理やり動かし、暖炉の前へ移動する。
ギィから人ひとりぶんの距離を空けて体育座りする。パン、もうちょっとで焦げますよ、これ。
「女だったんだな」
パンをちぎってつまみ食いしようとしていた私は動きを止める。怖くて隣が見れない。
何をどう弁明しようと私は性別を偽っていたわけで。隠し事をしていたわけで。
お、怒ってるのかな。そう思ってそろりと、横目でギィを盗み見る。
どくり、心臓が鳴った。
ギィの胡桃色の瞳は暖炉の色を吸い込んで、煌々と揺らめいている。意思の強さをそのまま示す視線は、暖炉のせいではない熱をはらんで、まっすぐに私に向けられている。
全身が粟立った。息がうまくできない。
ギィは強張った私を見て、こらえきれないというように口の端を吊り上げた。初めて見る、深い微笑み。
「怖がらせたいわけじゃない。責めるつもりもまるでない。どうにもうまい言葉が見つからないな」
ギィは息を吐いて、スープを木匙でかき混ぜる。
「……思えば、奇妙なめぐりあわせだ。俺は十年以上まえから計画していた。その直前に、あんたは都合よくあらわれた。最初はあいつの回し者かとも思ったが、それにしてはあまりに貧弱で」
あいつとはアブドロのことだろう。貧弱で当たり前だ。こちとらただの会社員だったんだぞ。
「いつからだろうな。あんたとはただの、ひとときの道連れのようなものなのに。わかりきった事実をねじまげたくなるような火種が、俺の中にくすぶりはじめた」
私は黙っている。彼が私に向けているものに、うすうす気づいてはいる。十代の少女のように、まわりの男からの視線に疎くはない。しかし何を言えるだろう。
これで借りは返したのだ。たまと一緒にアレクシスのもとへ向かうことを考えなければならない。
なのに肝心のたまはずっと息を潜めている。何かを待ち焦がれているような気配に、私はいよいよ不思議に思う。
「目も合わせられないくらいに、恥じらってはくれないのか」
からかうように囁いて、適度に焦げ目のついたパンを渡してくれる。それを受け取ろうとして、私は一拍ののち真っ赤になる。
そうだ。出会ってまもないころ、まっすぐギィを見る私を不思議がった彼に「もし私が女だったら見とれる」ようなことを言っていた気がする!
あのときはまさか女だとばれるほど深い間柄になるとは思っていなかったのだ。
どうしたものかと思いながら、パンを受け取る。
そのとき。手首を掴んで引き寄せられた。ぽとり、パンがじゅうたんに落下する軽い音がした。ギィの肩に頬が当たる。腰と、首とに腕が回され、強い力で抱きしめられていた。
目だけで見上げると、鼻と鼻がぶつかるくらいの距離に、ギィの顔がある。気おくれするほどの、衒いのない瞳。
「――俺に、欲しいものが、できるとは」
それは、私が今まで受け取ったことはないくらいの、純粋な気持ちだった。
いや、あの四人が与えようとしていたもの。私が意思の力で拒んでいたもの。
いろんな感情の断片が伝わってくる。全身で求めている。慈しみ、保護欲、触りたい、それとも真綿でくるむように大切にしたい。その一方で、荒々しく組み敷いてしまいたい。しかし根底にあるのは、深い思いやり。
なんていう熱量だろう。私はくらりとめまいがした。ギィはそれらを一言も口にしていないのに、彼の瞳はありとあらゆる感情を私に伝えようとしている。
名を渡したい。そう呟いた。
「俺の名は。ギィルツクヤ=ウィツィロポチトリ」
「は」
「ギィルツクヤ=ウィツィロポチトリ」
「ぎ、ぎぃるつく……?」
ギィはそれ以上は何も言わずに、ただじっと私を見ている。その瞳にあるのは、期待と畏れ、憧憬と緊張? アブドロがギィのことをギィルツクヤ、と呼んでいたことを思い出す。彼の名前なのだろうか。だとすると、名乗り返すべきなの、これ?
「さ、佐藤縁子、です」
ギィの瞳が、ふうっと愉悦に満ちて細められる。天使のような無垢と、普段からは想像できないほどの色気と淫蕩さが混在していて、私はそのまま、頭からばりばりと食べられてしまうような錯覚に陥る。
そのとき、ギィと私の胸のあたりに、鈍い光が生まれた。
ちいさな豆電球のような――と思う間もなく、その光は膨張し、目を開けていられないほどの強さになった。
触れ合う胸部に熱が集まり、私は混乱のただ中に落とされた。いっそ心臓が溶けてしまうような熱。
(待っていた。――ああ、やはり我輩の予知の力は正しかった! 縁子、おまえが!)
たまが歓喜をのせて叫んでいる。光が膨らみきって、はじけるように霧散した。
目の前には、ギィの驚き顔と――まるでダイヤモンドのように輝く玉が浮かんでいる。
(なんと、美しい。見事な天珠であることよ)
蕩けるように、うっとりと、たまは囁いた。
鶏肉で出汁をとったようなスープのにおいだ。それからキャベツを煮たときの、独特の香り。
暖かい。とてもいい気持ち。
においに誘われるように目を開く。ひびの入った漆喰の天井。石造りの壁。暖炉の薪の爆ぜる音。
数回まばたきをして、身体を起こそうとする。とたんに全身の関節という関節が悲鳴を上げて、私は身悶えた。
(小娘、起きたか)
幼い小学生くらいの声。幼いながらもはっきりした意思を感じる声。ともすれば高慢にも聞こえる声。たまの声だ。
たま?
「たま!?」
アブドロに粉々にされたのではなかったか。私は痛みも忘れて首を動かし、声の出所を求めて視線をさまよわせる。
しかしどこにも腕輪はない。
不思議に思って、しばらくどういうことだろうと考えていると、寝台のすぐ隣、机の上に置かれていた頭輪がきらりと光った。
私がククルージャにいたときから身につけていたやつだ。頭衣を上から押さえるティアラのような形状の。
(あの畜生に砕かれたのでな。ここを借りているぞ)
そんなヤドカリみたいなかんじなの? 思いのほか単純な仕組みにちょっと肩透かしをくらう。そういう装身具ならなんにでも取り付ける感じなのか。
心配して損したと息を吐けば、たまは呆れたようにやれやれと肩をすくめる気配がした。この癇に障るかんじ。間違いなくたまである。
「なによ。腕輪が壊されたときに、たまも死んじゃったかと思って心配したのに。ぴんぴんしてるじゃない」
たまはふうん? と面白がるように呟く。しまった、心配したなんて言うんじゃなかった。そう思いながらもたまの気配を懐かしく思う。
(我輩の本体、つまり物質的な身体はだな、アレクシスのもとにある。腕輪に宿らせていたのは、意識の一部だ。それが砕けていくぶん手間取ったがな。ここのところ魔力を溜めることに注力していたから、なんとかなっている)
たまが言うには、こんなふうに一度意識を宿した物質からほかの物質へ移ることは、とても魔力を喰うのだそうだ。
私たちの引越しと似てるのかな。確かにあれはすさまじく面倒くさい。
とにかく無事でよかったと思うが、なんとなく口には出さない。
「それより、ここって」
私は痛みをこらえて、上体を起こす。
私の格好は、ニグラさんの身代わりになっていたときのまま。つまりは汚れた奴隷服のワンピースである。
見覚えのあるこの家はジウォマさんの家だ。暖炉にはほどよい大きさの火が保たれている。その上には、鍋でくつくつとスープが熱されている。薪はまだ燃え始めたばかりのものもあるので、つい先ほどまで誰かが管理していたのだろう。
(あの男が、ずっと世話を焼いていたぞ。まあ、とんでもないことに巻き込んだのだから当然ではあるが)
とんでもないこと、と私は鸚鵡返しに呟いてみる。確かに、まるで嵐のようなすさまじい出来事だった。映画というか夢というか。
そもそも私、どうなったんだっけ。
(あの男と妹を拘束していた証文をな。燃やしていたぞ。主人も、灰になった羊皮紙を見て糸が切れたようになっていた。抜け殻のようにな。諦めもついたのではないか?)
そうだったのか。それなら、よかった。
(だめ押しのように脅してもいた。彼らと、それから小娘に手を出すようなことをしたら、次こそ地の果てまで追い詰めてでも息の根を止める、とな。いや、あれは小気味よかった)
小学生の声で小気味いいって。おじいちゃんみたい。
それにしても私の身の安全まで確保してくれるなんて。ギィってやっぱり、いい人だ。
(小娘にだけ、かも知れぬがな)
ほんに上々。と満足げに囁いた。
まるで期待どおりというような声。それって、どういう――。
そのときかちゃりと音がして、それから冷たい空気が忍び込んだ。
見ると果物やら野菜やらを抱えた、ギィがいた。
※
「気づいたか」
ギィは抑揚なく聞いてくる。ニグラさんを救出して、晴れて奴隷の身分からも解放されたのだ。なんというか、もっと晴れ晴れとしていてもいいのに。
そう言えば、性分だとでも返されそうだが。
「ギィ、ニグラさんたちは」
机に布袋をごとりと置く。またたくまに袋がたわんで、入っていたみかんやらイチジクやらが転がり出た。イチジク! 大好物だ。こんな寒冷地では出回りにくくて、高級品のはずなのだが。
「そうだな、ちょうど今ごろは、かつての俺たちの家にでも着いたんじゃないか」
机の上に出したチーズを手に取る。ショートケーキのような形状のものだ。
暖炉の前に座り、チーズを小さくちぎってスープに入れている。パンも取り出して串に刺して火のそばに立てる。とても穏やかな動作。
火を眺めているその横顔を見て、私は不思議に思った。
「ギィは帰らないんですか」
あなたのふるさとに。問えば、ギィは火を見たまま独り言のように呟く。
「あんたの言ったとおりだ。俺はアブドロを葬り、俺も葬られる。そうしてきれいに終わるつもりだったんだ。ニグラも自由で。ジウォマはいいやつだ。何を憂えることがある?」
返事は必要とされていなかった。私は黙って続きを待った。
ギィはそれから、身じろぎもせずに暖炉を見続けていた。
私はたまの気配がおかしいことに気づく。何かの期待に満ちて黙っている。どこか奇妙な熱を孕んだ気配。
けど、とギィは口を開いた。
「あんたは言ったんだ。俺がやわらかい心を持っていると」
言ったかな。
私はちょっと斜め左上を見上げて記憶を探る。いかんせんいろいろありすぎて、ここ数日の出来事はごちゃごちゃなのだ。
しばらくして思い出す。アブドロに捕まっているときに彼に向けて言った言葉だ。
ってギィ。あのとき聞いていたのか。
「ええ、まあ。言いましたかね」
なんというかちょっと照れくさいので、私は暖炉に視線をやって答える。ギィがじっと私を見ているのが、視界の端に映って面映い。
「生きろ、とも」
言った。それはすごく覚えている。そりゃあ死ぬ気の人がいたら、生きてって言いたくもなるでしょう。それより暖炉のスープぐつぐつしてきたよ。食べごろでは? もう話をやめて食べませんかそれ。
私はじりじりと空腹を覚えてきたので、痛む身体を無理やり動かし、暖炉の前へ移動する。
ギィから人ひとりぶんの距離を空けて体育座りする。パン、もうちょっとで焦げますよ、これ。
「女だったんだな」
パンをちぎってつまみ食いしようとしていた私は動きを止める。怖くて隣が見れない。
何をどう弁明しようと私は性別を偽っていたわけで。隠し事をしていたわけで。
お、怒ってるのかな。そう思ってそろりと、横目でギィを盗み見る。
どくり、心臓が鳴った。
ギィの胡桃色の瞳は暖炉の色を吸い込んで、煌々と揺らめいている。意思の強さをそのまま示す視線は、暖炉のせいではない熱をはらんで、まっすぐに私に向けられている。
全身が粟立った。息がうまくできない。
ギィは強張った私を見て、こらえきれないというように口の端を吊り上げた。初めて見る、深い微笑み。
「怖がらせたいわけじゃない。責めるつもりもまるでない。どうにもうまい言葉が見つからないな」
ギィは息を吐いて、スープを木匙でかき混ぜる。
「……思えば、奇妙なめぐりあわせだ。俺は十年以上まえから計画していた。その直前に、あんたは都合よくあらわれた。最初はあいつの回し者かとも思ったが、それにしてはあまりに貧弱で」
あいつとはアブドロのことだろう。貧弱で当たり前だ。こちとらただの会社員だったんだぞ。
「いつからだろうな。あんたとはただの、ひとときの道連れのようなものなのに。わかりきった事実をねじまげたくなるような火種が、俺の中にくすぶりはじめた」
私は黙っている。彼が私に向けているものに、うすうす気づいてはいる。十代の少女のように、まわりの男からの視線に疎くはない。しかし何を言えるだろう。
これで借りは返したのだ。たまと一緒にアレクシスのもとへ向かうことを考えなければならない。
なのに肝心のたまはずっと息を潜めている。何かを待ち焦がれているような気配に、私はいよいよ不思議に思う。
「目も合わせられないくらいに、恥じらってはくれないのか」
からかうように囁いて、適度に焦げ目のついたパンを渡してくれる。それを受け取ろうとして、私は一拍ののち真っ赤になる。
そうだ。出会ってまもないころ、まっすぐギィを見る私を不思議がった彼に「もし私が女だったら見とれる」ようなことを言っていた気がする!
あのときはまさか女だとばれるほど深い間柄になるとは思っていなかったのだ。
どうしたものかと思いながら、パンを受け取る。
そのとき。手首を掴んで引き寄せられた。ぽとり、パンがじゅうたんに落下する軽い音がした。ギィの肩に頬が当たる。腰と、首とに腕が回され、強い力で抱きしめられていた。
目だけで見上げると、鼻と鼻がぶつかるくらいの距離に、ギィの顔がある。気おくれするほどの、衒いのない瞳。
「――俺に、欲しいものが、できるとは」
それは、私が今まで受け取ったことはないくらいの、純粋な気持ちだった。
いや、あの四人が与えようとしていたもの。私が意思の力で拒んでいたもの。
いろんな感情の断片が伝わってくる。全身で求めている。慈しみ、保護欲、触りたい、それとも真綿でくるむように大切にしたい。その一方で、荒々しく組み敷いてしまいたい。しかし根底にあるのは、深い思いやり。
なんていう熱量だろう。私はくらりとめまいがした。ギィはそれらを一言も口にしていないのに、彼の瞳はありとあらゆる感情を私に伝えようとしている。
名を渡したい。そう呟いた。
「俺の名は。ギィルツクヤ=ウィツィロポチトリ」
「は」
「ギィルツクヤ=ウィツィロポチトリ」
「ぎ、ぎぃるつく……?」
ギィはそれ以上は何も言わずに、ただじっと私を見ている。その瞳にあるのは、期待と畏れ、憧憬と緊張? アブドロがギィのことをギィルツクヤ、と呼んでいたことを思い出す。彼の名前なのだろうか。だとすると、名乗り返すべきなの、これ?
「さ、佐藤縁子、です」
ギィの瞳が、ふうっと愉悦に満ちて細められる。天使のような無垢と、普段からは想像できないほどの色気と淫蕩さが混在していて、私はそのまま、頭からばりばりと食べられてしまうような錯覚に陥る。
そのとき、ギィと私の胸のあたりに、鈍い光が生まれた。
ちいさな豆電球のような――と思う間もなく、その光は膨張し、目を開けていられないほどの強さになった。
触れ合う胸部に熱が集まり、私は混乱のただ中に落とされた。いっそ心臓が溶けてしまうような熱。
(待っていた。――ああ、やはり我輩の予知の力は正しかった! 縁子、おまえが!)
たまが歓喜をのせて叫んでいる。光が膨らみきって、はじけるように霧散した。
目の前には、ギィの驚き顔と――まるでダイヤモンドのように輝く玉が浮かんでいる。
(なんと、美しい。見事な天珠であることよ)
蕩けるように、うっとりと、たまは囁いた。
0
あなたにおすすめの小説
私が美女??美醜逆転世界に転移した私
鍋
恋愛
私の名前は如月美夕。
27才入浴剤のメーカーの商品開発室に勤める会社員。
私は都内で独り暮らし。
風邪を拗らせ自宅で寝ていたら異世界転移したらしい。
転移した世界は美醜逆転??
こんな地味な丸顔が絶世の美女。
私の好みど真ん中のイケメンが、醜男らしい。
このお話は転生した女性が優秀な宰相補佐官(醜男/イケメン)に囲い込まれるお話です。
※ゆるゆるな設定です
※ご都合主義
※感想欄はほとんど公開してます。
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
美醜逆転世界でお姫様は超絶美形な従者に目を付ける
朝比奈
恋愛
ある世界に『ティーラン』と言う、まだ、歴史の浅い小さな王国がありました。『ティーラン王国』には、王子様とお姫様がいました。
お姫様の名前はアリス・ラメ・ティーラン
絶世の美女を母に持つ、母親にの美しいお姫様でした。彼女は小国の姫でありながら多くの国の王子様や貴族様から求婚を受けていました。けれども、彼女は20歳になった今、婚約者もいない。浮いた話一つ無い、お姫様でした。
「ねぇ、ルイ。 私と駆け落ちしましょう?」
「えっ!? ええぇぇえええ!!!」
この話はそんなお姫様と従者である─ ルイ・ブリースの恋のお話。
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
この世界、イケメンが迫害されてるってマジ!?〜アホの子による無自覚救済物語〜
具なっしー
恋愛
※この表紙は前世基準。本編では美醜逆転してます。AIです
転生先は──美醜逆転、男女比20:1の世界!?
肌は真っ白、顔のパーツは小さければ小さいほど美しい!?
その結果、地球基準の超絶イケメンたちは “醜男(キメオ)” と呼ばれ、迫害されていた。
そんな世界に爆誕したのは、脳みそふわふわアホの子・ミーミ。
前世で「喋らなければ可愛い」と言われ続けた彼女に同情した神様は、
「この子は救済が必要だ…!」と世界一の美少女に転生させてしまった。
「ひきわり納豆顔じゃん!これが美しいの??」
己の欲望のために押せ押せ行動するアホの子が、
結果的にイケメン達を救い、世界を変えていく──!
「すきーー♡結婚してください!私が幸せにしますぅ〜♡♡♡」
でも、気づけば彼らが全方向から迫ってくる逆ハーレム状態に……!
アホの子が無自覚に世界を救う、
価値観バグりまくりご都合主義100%ファンタジーラブコメ!
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【完結】タジタジ騎士公爵様は妖精を溺愛する
雨香
恋愛
【完結済】美醜の感覚のズレた異世界に落ちたリリがスパダリイケメン達に溺愛されていく。
ヒーロー大好きな主人公と、どう受け止めていいかわからないヒーローのもだもだ話です。
「シェイド様、大好き!!」
「〜〜〜〜っっっ!!???」
逆ハーレム風の過保護な溺愛を楽しんで頂ければ。
【美醜逆転】ポジティブおばけヒナの勘違い家政婦生活(住み込み)
猫田
恋愛
『ここ、どこよ』
突然始まった宿なし、職なし、戸籍なし!?の異世界迷子生活!!
無いものじゃなく、有るものに目を向けるポジティブ地味子が選んだ生き方はーーーーまさかの、娼婦!?
ひょんなことから知り合ったハイスペお兄さんに狙いを定め……なんだかんだで最終的に、家政婦として(夜のお世話アリという名目で)、ちゃっかり住み込む事に成功☆
ヤル気があれば何でもできる!!を地で行く前向き女子と文句無しのハイスペ醜男(異世界基準)との、思い込み、勘違い山盛りの異文化交流が今、始まる……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる