醜く美しいものたちはただの女の傍でこそ憩う

ふぁんたず

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第六章 異世界は異世界でも、平穏な異世界がいいです

2.水上の集落・カムグエン

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 光る水面を、滑るように進んでいく。

 私はカヌーよりも一回り大きいくらいの小舟のへりを、ぎゅうっと握る。

 コーヒー牛乳のような色の大河。川岸からせり出すように茂る濃い緑の木々。深い青の空。

 ふと、舟の舳先へさきの向きが大きく変えられた。
 身を乗り出して前方を見る。川岸にぶつかってしまうではないか、と思わず身を引いたときにようやく、大河に合流している別の小川があることに気づく。
 私にはまったく気づけなかった。彼らはその川を遡ろうとしているのだ。

 支流に入ると、川の色がほんの少し透き通る。川幅は気づけないだけあってやはり狭く、両岸の木々が頭上でほとんどくっついている。森のトンネルのよう。そのまましばらく進むと、不意に視界が開けた。
 光に襲われたかのようだった。反射的に目を眇めるとそこには海が――いや、巨大な湖が横たわっていた。

 イルミネーションよりもなお細かく輝く水平線。

 遠くには整然と浮かび並ぶ膨大な数の家々。

 思わず口を開けた私を少女が面白そうに眺めてくるが、何も反応できない。

 水上集落、カムグエン。

 陸を知らない民が暮らす場所。







 まずは、この新しい異世界を飲み込まねば。

 さすがにね、こうもぽいぽい飛ばされれば順応もしてきますとも。

 拓斗がここにいなくてよかった、と初めて思った。拓斗は水がきらいで、お風呂のたびに親の仇を見るようにして私と向き合う。拓斗には悪いとは思うけど、抗議するように鳴きながら洗われる様子すらかわいくて、私の癒しの時間でもあった。なんでかな、猫とかって濡れるとふだんの半分以下のサイズになって驚く。洗い終わったあとはものすごく目で語りかけてくるので、私はいつもそっと高級猫缶を開けることになる。

 私はこめかみをもみながら思考を戻す。息を大きく吐いて、それから吸い込めば、あたたかく湿った空気が肺を満たす。ほんのすこしだけ生臭い水とむっとするような木々のにおいは、遠足で訪れたキャンプ場を思い出させた。

 ゆったりと流れていく風景。

 凪いだ湖面を音もなく進んでいく舟の、その進み方が穏やかすぎて、舟が止まって風景だけが動いていくようにも思える。

 だんだんと視界いっぱいに近づいていく水上の家。その数は数十どころではないと思う。いかんせん奥行きがあるため全容はわからないが、数百はあるかもしれない。巨大な湖なのだ。東京ドームの個数では例えられないけれど。

 それぞれの家の骨組みは竹のような太さの木でできていて、その浮力で浮かんでいるようだ。家というよりは小屋。とりあえず人が生活できるスペースを確保しましたよ、という感じだ。
 壁や扉といったものはほとんどなくて、気休めに布がかけられていたりする。それを仕切りに使っているのかもしれない。

 舟は家が密集する地帯へと入っていく。運動会のときの保護者たちが広げるシートとまでは行かないが、相当な密着度だ。よいしょっと軽く助走を付ければ、隣の家へジャンプできそうな距離である。
 湖とはいえ、家が流されないような仕組みもあるはずだ。どうなっているのかちょっと興味がある。
 
 湖で洗濯をする女性、飛び込んで遊ぶ子どもたち、漁の網を抱えてすれ違う大人の乗った小舟。
 闖入者である私への視線が痛い。それでも攻撃的な様子がないのは、おそらくこの少女と青年のおかげなのだろう。

 隣に座る少女はヒルダ、そして背後で舟の櫂を握る青年はケトと、すれ違うみんなから呼ばれている。

 顔を合わせる誰も彼もが、好意的に彼らに声をかけている。ケトは無表情のままうなずいて挨拶を返し、ヒルダは口角を上げて手を振った。
 いい意味で集落の誰からも認められている印象だ。

「あ、あれって床屋?」

 思わず私は口を開いた。何気なく通りすがった家で、子どもが床に胡坐をかき、おばさんがナイフで髪を切っていたのだ。その子どもと目が合った。お互い目をぱちくりさせたまま。

「トコヤ? 断髪家のことかしら。邪魔になった髪を切ってくれるところよ」

 それが床屋である。通じる言葉と、音としてしか伝わらない言葉があるのは、ここでも同じようだ。

「断髪家……。あっ、ここは? うわっ」

 私は目をぎゅうっと閉じた。すさまじい臭いが鼻に届いたせいだ。
 なにやら陰気くさいおばあちゃんが、大鍋で何かを煮込んでいる家を通り過ぎるとき。言葉が悪いが、どぶの水に牛乳を拭いた雑巾の絞り汁とを足したような臭いだ。
 家の中には不思議な植物がところ狭しと積まれている。
 台所というよりかは、昔の日本の囲炉裏のような仕組みで、天井から鍋をつるしていたように見えた。
 すぐに通り過ぎてしまったからよく見えなかったけど、火はなかったように思える。どうやって煮込んでいたのだろう?

「彼女はカムグエンいち腕のいい薬草家なのよ。私のお母さんが前に腰をすごく痛がったけど、彼女の薬草茶をたくさん飲んだらよくなったのよ」
「へえ。すごい」

 砂漠で三日遭難した人でも躊躇するような臭いだが、効果があるなら飲み干せるのだろうか。私はちょっと遠慮したいなと失礼なことを思った。

 ほかにもたくさんのものを見た。
 木の実を並べている家、果物を籠に盛っている家、竹を売り歩く小舟は、家の修復用だろう。さおだけ屋さんみたいだ。

 それにしても、家々は途切れることがなくひとつの大きな生き物のように連なって終わりが見えない。いったい何人くらいの人が生活しているのか、想像もつかない。

「ヒルダ、見て! あの舟よく沈まないね。あんなにたくさん壷を乗っけてる」

 あと数センチで舟に水が入ってきてしまうのではないか、というくらい水面に沈み込んだ、重そうな小舟が目に付いた。白い壷をこれでもかと積み込んで、通りがかる家々の人たちと交換している。

「あの白い壷には水が入ってるのよ。それぞれの家にもたくさん壷が置いてあるでしょう。雨水を貯めるためだけど、それでは足りないからああして水家が回っているの」

 牛乳家さんみたいに空になった壷と交換しているようだ。なるほどね。

 ときどき、大量の黒い壷を載せた小舟が行きかっているのを不思議に思って、あれも水かと尋ねると、ヒルダは鼻に皺を寄せて肩をすくめた。
 なんと黒い壷は各家の「トイレ」だという。
 確かにこれだけの人数がトイレを湖に流してしまえば、あっという間に衛生状態は悪くなるだろう。どの家にも毎日「トイレ家」さんの舟が来て、回収をしては遠くの陸に捨てにいくらしい。

 浮かんでいるのは家ばかりではない。
 柵で囲われた、広めの平らな竹の床。そこに入れられているのは、豚だとか鶏だとかに近い動物である。
 聞けばこういう浮島牧場もどきがいくつもあって、定期的に食べているとのこと。さすがに自然繁殖だろうが、私は感嘆の息を吐いた。

 さらに、湖のはるか遠くにはブイのようなものが点々と浮いている。これは貝や魚などの養殖をしている囲いなのだそう。
 狩猟もするが養殖もする。完全なる自給自足の生活だ。

 絶句した。ここにも確かに息づく人たちの生活があり、日々を生きているのだ。

 私は状況も忘れて完全に興奮していた。観光に来たみたいなそういうテンション。

 だってだって、すごくない?
 広大な湖の上で暮らす人々。彼らは車の代わりに小舟を持ち、歩く代わりに泳ぐ。すべてにおいて別世界だ。

「ユカリコはずいぶん無知な御使いマライカね? 精霊セマガは生まれたての魂を、大きな肉体に入れてしまったのかしら」
「さっきから言っているけど、私はマライカではなくてですね」
「いいのよ。そういうこともあるのでしょうから」
「いや、だから」

 話を聞いてくれない。
 無邪気な好奇心を隠そうともせず、ヒルダは私の顔を覗き込む。
 その表情は、誰かに拒否されることなんて想像もできないといった信頼に溢れている。まわりから慈しまれて育ってきたのだろう。

 私は改めて彼女を見る。
 麻でざっくりと編んだタンクトップとショートパンツ。よく日に焼けた肌。
 瞳はココア色。髪は私とおなじ黒色なのだが、くるくるとかわいらしい天然パーマで腰まである。好き勝手に跳ねるのを抑えるためかおしゃれなのかはわからないけど、部分的に編みこみをしていて、それがとても民族的に見える。
 まだ中学生くらいだと思うが、その舌の回りようときたらすごかった。
 とにかくしゃべる。その速さもさることながら、思考の回転も猛スピードで、私に合わせてくれずにどんどん話を進めてしまう。生活の背景にある常識が欠落した私には理解できないことも多い。このくらいの子どもだったら、相手の理解度を慮って立ち止まるってことはなかなかしないから責められないけど。

 出会ってからずっと否定をし続けているのだが、ヒルダの中では私は「精霊の御使い」で、中身は赤子扱いだ。
 おそらくは土着の信仰なのだろうが、私にはちんぷんかんぷんだ。
 なんにしろ彼女は私をそう信じ込み、ここへ連れてきてくれたのだった。
 舟を漕ぐ青年のケトはそれに反対した。ヒルダとは真逆の性格らしく、仏頂面で用心深そうな目つきが印象的だ。
 無口な中にも私への不審と警戒をありありと覗かせている。まあ常識的ですね。

 対してヒルダは、捨て猫を拾った小学生の様子に近い。たまにどうしよう? と相談もしたが、害意もなさそうだし流れに任せることになった。この頭輪たまは基本的には日和見なのだ。人ごとだと思って。
 約束を忘れたとは言わせない。ひと段落ついたら締め上げてやるんだから。

御使いマライカは、ふと顕れては消えゆく、そういう存在だもの。ユカリコは好きなだけ、私のところにいればいいわ。いちばん最初に見つけたのは私だもの。それよりさっきからずっとそわそわしてるのね。どうしたっていうの?」
「いや、どうしたっていうか」
「なあに? なんでも言って」

 発言をしようと思うのだが、ややかぶせ気味に返答をされ、私はすっかり気おくれしていた。

「少しは落ち着け。この女は、おまえの勢いに萎縮しているんだ」

 見かねたように、背後からケトさんが口を開いた。ヒルダはちょっとむっと眉を上げたが、そのまま視線を逸らせて黙った。
 台風のような少女だが、この青年の言うことには耳を貸すらしい。どういう間柄だろうと思っていると、ヒルダは気をとりなおしたように微笑んだ。

「それで。何が気になっているの? なんでも聞いて」

 天真爛漫という言葉がぴったりの笑顔だ。この子こそ精霊の使いなのではと思いながら、私はおそるおそる聞いてみる。

 まず自分がどこにいるのかは知りたいところだ。

「ええと、まずここって、どのあたり……つまり、ククルージャとか、ビエチアマンとか、カラブフィサからって意味で」
「えっ、何?」
「何って」
「それは土地の名前なの? だとしたらどれも聞いたことはないわ」
「聞いたことがない」
「ここは精霊の湖、カムグエン。世界の中心。たくさんの精霊たちの棲む場所。はるか遠くから、さっきの忌々しいばん族が迫っているけれど、あとは知らない」

 私は絶句した。もしかしてまた新しい異世界に来てしまったのかと慌てたが、月花ユエホワがいたことを思い出す。ということは高確率で同じ世界だ。
 一安心する間もなく、どうして月花が彼らと敵対していたのだろうと不思議に思う。月花は、彼らの言う播族だったということ?

「ちょっと前までは、世界にはわたしたちしかいないと思っていたの。でもある日突然、あいつらがたくさん押しかけて出て行けと言ったのよ。そんなこと言われておとなしく出て行く人たちなんていないわ。そうでしょう?」

 返事を必要とされていない問いかけだったので、私は黙って続きを聞く。

「出て行けと言われた次は、この湖に無理やり舟で入ってきたわ。もちろん私たちは抗った。ほら、あそこ」

 ヒルダが指差したほうへ目をやれば、はるか遠くのその湖岸が少し欠けているようにも見えた。(とにかく広大な湖で、湖の中心へ行けばどの湖岸も見えないほどだ)なんとか見えた湖岸ぎわの樹木がいくつも切り倒され、そして燃やされたのだと言う。そこまで鮮明にはとても見えなかったのだけど。

「さらには精霊の洞窟を荒らそうとしたの。この世界にわたしたち以外の人間がいたことにも驚いたし、あいつらは精霊を知らないことも驚きだった」

 孤立した未開の地だったのだろう。そしてそこに文明のにおいのする播族が踏み込んできたといったところか。
 けど何の目的で。

「私たちは戦った。どちらからも少なくない人死ひとじにが出た」

 今はちょうど戦いの合間のような期間なのだと言う。それって戦争ってこと?
 だから行き交う小舟の中に、槍や弓のようなものも置かれていたのだろうか。
 テレビでしか聞いたことのない言葉に、現実味はちっとも沸かない。使い方のわからない缶切りを渡されたような気分だ。

「あの、さっきの、狐のお面の人は」

 私がおそるおそる尋ねると、ヒルダの瞳が暗くなる。干からびた蜘蛛の死体を見る目で、湖面を見つめた。

「忌むべきものだわ。播族の頭の側にいて兵に命令をする。そして使者でもある」

 闊達な少女はその顔にありありと苦味を浮かべて、月花のここでの名前を呼んだ。

白狐ハウ・キュオと私たちは呼んでいる。あいつさえいなければ、何もかもうまくいくのに」

 私はゆっくり首を傾けて、遠くの空を見つめた。

 たまはどうやら、今回もまたとびきり厄介なところに叩き込んでくれたらしい。
 対立する民族。その間にある戦い。別人のような月花。
 こちとらただの社会人だ。こんな状況、どうしたらいいっていうのだ?

 そう思ったとき、湖の底を割って龍でも登場するかのような轟音が響いた。
 その、私のおへそあたりから。とっさにおなかを押さえるが、一度生まれた音は取り消すことはできない。

 ヒルダとケトさんからの視線が刺さるが、仕方ない。
 授業中でも会議中でも、どんな深刻な話をしていたって、空腹ってごまかせるものではないんだもん!

 私は恥ずかしさとひもじさとに、とほほと眉を下げる。ヒルダの笑い声が湖に響いて、それが鈴のようにきれいでかわいらしくかったので、まあいっかと思ってしまった。





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