花の名を訊く

灰黒猫

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花の名を訊く

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 春にしては初夏のような陽気の日が続いていた。
「あの花は何? スズラン?」
 道路沿いの道を並んで歩きながら、少年が男にたずねた。
 指差す先には、古い集合住宅の前に長々と続く植え込みに、緑の葉といくつもの白く小さな花が咲いている低木ていぼくが等間隔に列をなしていた。
 男は一瞬、『ドウダンツツジ』とどちらが説明しやすいかと考えた。そちらは面倒めんどうだと思い、短く答える。
満天星まんてんせい
「マンテンセイ?」
「満天の、星。地上の星だ」
「すごい」
 少年の素直に感じった声を耳にして、確かにそうだと初めて思った。自分で言葉にしておきながら、あの小さな花の群れを無数の星になぞらえた誰かの気持ちが今ようやくわかった気がした。
 一つ一つに鈴なりの白い花をつけた低木ていぼくつらなりを、先ほどとは違う眼で眺め、いてからうなずく。
「……そうだな」
「なんでも知ってるね」
「何でもは知らない」
 少年に出会うまで、男に花の名をたずねる者はいなかった。男が花の名前を割合わりあいに知っていると気づく者は誰もおらず、それでかまわなかった。
 だが、少年は花の名を男にたびたびいてきた。それに応ずることを繰り返すうちに、正確に答えられなかった時でさえ、男は少年との花の名についてのやり取り自体が心地ここち良いのだと知った。
 花の名をあれこれいてくる割には覚えようとしないのだが、と男はかすかに笑う。
 スズランの花の名を、去年か一昨年おととしたずねられた記憶がある。近所のマンションの一室のベランダからあふれるように外まで咲く黄色の木香茨もっこうばらに驚き、「『モッコウバラ』、覚えた」と笑っていたが、翌年には「あの花、何?」といてきた。
 それが不思議で面白く、温かな笑いを誘う。
 その場でわかれば満足なのか、くこと自体を楽しんでいるのか、男は知らない。
 何でもは知らない。少年といると、自分がさほど知らないことに気づかされる方が多い。花の名も、自分の感情も。それ以外のことも。
 他人の感情には、以前はあまり興味がなかった。
 ただ、男が教えた花の名を、少年が一度復唱してから、なぜか少し笑うのを見るのが好きだった。

 いくつもの花の名を、少年に問われるまま教えた。
 大島桜おおしまざくら山桜やまざくら雪柳ゆきやなぎあんず紅梅こうばい
「ツバキの花は知ってる」と山茶花さざんかを指差した少年に、「あれが椿つばきで、こっちは山茶花さざんかだ」と教えると、妙な顔をしていた。悲しかったのかもしれない。
「よく似ているから仕方ない。花びらがたいらにひらき切る方が山茶花さざんかだ」と男が少年の頭に軽く手のひらで触れたが、黙っていた。
 それでも、しばらくしてから「サザンカ」と言って少し笑った。
 それを思い出すと、どうしてか右眼のうわまぶたの内側が一瞬熱くなる。
 
 男が隣を見ると、少年はいつの間にかそばを離れ、自動販売機で飲み物を買おうとしていた。
「暑い」
 そう言って手を伸ばし、冷えた缶を取り出し口から抜き取った。男は立ち止まり、少年が飲み終わるのを待つ。
 椿つばき山茶花さざんかの咲く冬の冷たさは、今は遠い。
 秋に、夏に、花の名をかれた。前の春も、今の春も。次の季節は知らない。
 空き缶をごみ箱に捨てた後、少年は男の隣に寄る。視線の先には植え込みの途切れがあった。
満天星まんてんせい
 少年が名を口にして、なぜか少し笑う。
 覚えられないから、今、名を呼んでおくのだろうかと思ったが、男は黙って見ていた。
 少年の後頭部に片手で一度触れて離し、歩みをうながす。
「帰るか」
 少年は、また少し笑った。
 この子がいとおしいのかもしれなかった。
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