1 / 1
花の名を訊く
しおりを挟む
春にしては初夏のような陽気の日が続いていた。
「あの花は何? スズラン?」
道路沿いの道を並んで歩きながら、少年が男に尋ねた。
指差す先には、古い集合住宅の前に長々と続く植え込みに、緑の葉といくつもの白く小さな花が咲いている低木が等間隔に列をなしていた。
男は一瞬、『ドウダンツツジ』とどちらが説明しやすいかと考えた。そちらは面倒だと思い、短く答える。
「満天星」
「マンテンセイ?」
「満天の、星。地上の星だ」
「すごい」
少年の素直に感じ入った声を耳にして、確かにそうだと初めて思った。自分で言葉にしておきながら、あの小さな花の群れを無数の星になぞらえた誰かの気持ちが今ようやくわかった気がした。
一つ一つに鈴なりの白い花をつけた低木の連なりを、先ほどとは違う眼で眺め、間が空いてから頷く。
「……そうだな」
「なんでも知ってるね」
「何でもは知らない」
少年に出会うまで、男に花の名を尋ねる者はいなかった。男が花の名前を割合に知っていると気づく者は誰もおらず、それでかまわなかった。
だが、少年は花の名を男にたびたび訊いてきた。それに応ずることを繰り返すうちに、正確に答えられなかった時でさえ、男は少年との花の名についてのやり取り自体が心地良いのだと知った。
花の名をあれこれ訊いてくる割には覚えようとしないのだが、と男は微かに笑う。
スズランの花の名を、去年か一昨年に尋ねられた記憶がある。近所のマンションの一室のベランダからあふれるように外まで咲く黄色の木香茨に驚き、「『モッコウバラ』、覚えた」と笑っていたが、翌年には「あの花、何?」と訊いてきた。
それが不思議で面白く、温かな笑いを誘う。
その場でわかれば満足なのか、訊くこと自体を楽しんでいるのか、男は知らない。
何でもは知らない。少年といると、自分がさほど知らないことに気づかされる方が多い。花の名も、自分の感情も。それ以外のことも。
他人の感情には、以前はあまり興味がなかった。
ただ、男が教えた花の名を、少年が一度復唱してから、なぜか少し笑うのを見るのが好きだった。
いくつもの花の名を、少年に問われるまま教えた。
大島桜、山桜、雪柳、杏、紅梅。
「ツバキの花は知ってる」と山茶花を指差した少年に、「あれが椿で、こっちは山茶花だ」と教えると、妙な顔をしていた。悲しかったのかもしれない。
「よく似ているから仕方ない。花びらが平らに開き切る方が山茶花だ」と男が少年の頭に軽く手のひらで触れたが、黙っていた。
それでも、しばらくしてから「サザンカ」と言って少し笑った。
それを思い出すと、どうしてか右眼の上まぶたの内側が一瞬熱くなる。
男が隣を見ると、少年はいつの間にかそばを離れ、自動販売機で飲み物を買おうとしていた。
「暑い」
そう言って手を伸ばし、冷えた缶を取り出し口から抜き取った。男は立ち止まり、少年が飲み終わるのを待つ。
椿と山茶花の咲く冬の冷たさは、今は遠い。
秋に、夏に、花の名を訊かれた。前の春も、今の春も。次の季節は知らない。
空き缶をごみ箱に捨てた後、少年は男の隣に寄る。視線の先には植え込みの途切れがあった。
「満天星」
少年が名を口にして、なぜか少し笑う。
覚えられないから、今、名を呼んでおくのだろうかと思ったが、男は黙って見ていた。
少年の後頭部に片手で一度触れて離し、歩みを促す。
「帰るか」
少年は、また少し笑った。
この子がいとおしいのかもしれなかった。
「あの花は何? スズラン?」
道路沿いの道を並んで歩きながら、少年が男に尋ねた。
指差す先には、古い集合住宅の前に長々と続く植え込みに、緑の葉といくつもの白く小さな花が咲いている低木が等間隔に列をなしていた。
男は一瞬、『ドウダンツツジ』とどちらが説明しやすいかと考えた。そちらは面倒だと思い、短く答える。
「満天星」
「マンテンセイ?」
「満天の、星。地上の星だ」
「すごい」
少年の素直に感じ入った声を耳にして、確かにそうだと初めて思った。自分で言葉にしておきながら、あの小さな花の群れを無数の星になぞらえた誰かの気持ちが今ようやくわかった気がした。
一つ一つに鈴なりの白い花をつけた低木の連なりを、先ほどとは違う眼で眺め、間が空いてから頷く。
「……そうだな」
「なんでも知ってるね」
「何でもは知らない」
少年に出会うまで、男に花の名を尋ねる者はいなかった。男が花の名前を割合に知っていると気づく者は誰もおらず、それでかまわなかった。
だが、少年は花の名を男にたびたび訊いてきた。それに応ずることを繰り返すうちに、正確に答えられなかった時でさえ、男は少年との花の名についてのやり取り自体が心地良いのだと知った。
花の名をあれこれ訊いてくる割には覚えようとしないのだが、と男は微かに笑う。
スズランの花の名を、去年か一昨年に尋ねられた記憶がある。近所のマンションの一室のベランダからあふれるように外まで咲く黄色の木香茨に驚き、「『モッコウバラ』、覚えた」と笑っていたが、翌年には「あの花、何?」と訊いてきた。
それが不思議で面白く、温かな笑いを誘う。
その場でわかれば満足なのか、訊くこと自体を楽しんでいるのか、男は知らない。
何でもは知らない。少年といると、自分がさほど知らないことに気づかされる方が多い。花の名も、自分の感情も。それ以外のことも。
他人の感情には、以前はあまり興味がなかった。
ただ、男が教えた花の名を、少年が一度復唱してから、なぜか少し笑うのを見るのが好きだった。
いくつもの花の名を、少年に問われるまま教えた。
大島桜、山桜、雪柳、杏、紅梅。
「ツバキの花は知ってる」と山茶花を指差した少年に、「あれが椿で、こっちは山茶花だ」と教えると、妙な顔をしていた。悲しかったのかもしれない。
「よく似ているから仕方ない。花びらが平らに開き切る方が山茶花だ」と男が少年の頭に軽く手のひらで触れたが、黙っていた。
それでも、しばらくしてから「サザンカ」と言って少し笑った。
それを思い出すと、どうしてか右眼の上まぶたの内側が一瞬熱くなる。
男が隣を見ると、少年はいつの間にかそばを離れ、自動販売機で飲み物を買おうとしていた。
「暑い」
そう言って手を伸ばし、冷えた缶を取り出し口から抜き取った。男は立ち止まり、少年が飲み終わるのを待つ。
椿と山茶花の咲く冬の冷たさは、今は遠い。
秋に、夏に、花の名を訊かれた。前の春も、今の春も。次の季節は知らない。
空き缶をごみ箱に捨てた後、少年は男の隣に寄る。視線の先には植え込みの途切れがあった。
「満天星」
少年が名を口にして、なぜか少し笑う。
覚えられないから、今、名を呼んでおくのだろうかと思ったが、男は黙って見ていた。
少年の後頭部に片手で一度触れて離し、歩みを促す。
「帰るか」
少年は、また少し笑った。
この子がいとおしいのかもしれなかった。
7
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
愛などもう求めない
一寸光陰
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。
「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」
「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」
目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。
本当に自分を愛してくれる人と生きたい。
ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。
ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
恋が始まる日
一ノ瀬麻紀
BL
幼い頃から決められていた結婚だから仕方がないけど、夫は僕のことを好きなのだろうか……。
だから僕は夫に「僕のどんな所が好き?」って聞いてみたくなったんだ。
オメガバースです。
アルファ×オメガの歳の差夫夫のお話。
ツイノベで書いたお話を少し直して載せました。
借金のカタに同居したら、毎日甘く溺愛されてます
なの
BL
父親の残した借金を背負い、掛け持ちバイトで食いつなぐ毎日。
そんな俺の前に現れたのは──御曹司の男。
「借金は俺が肩代わりする。その代わり、今日からお前は俺のものだ」
脅すように言ってきたくせに、実際はやたらと優しいし、甘すぎる……!
高級スイーツを買ってきたり、風邪をひけば看病してくれたり、これって本当に借金返済のはずだったよな!?
借金から始まる強制同居は、いつしか恋へと変わっていく──。
冷酷な御曹司 × 借金持ち庶民の同居生活は、溺愛だらけで逃げ場なし!?
短編小説です。サクッと読んでいただけると嬉しいです。
クズ彼氏にサヨナラして一途な攻めに告白される話
雨宮里玖
BL
密かに好きだった一条と成り行きで恋人同士になった真下。恋人になったはいいが、一条の態度は冷ややかで、真下は耐えきれずにこのことを塔矢に相談する。真下の事を一途に想っていた塔矢は一条に腹を立て、復讐を開始する——。
塔矢(21)攻。大学生&俳優業。一途に真下が好き。
真下(21)受。大学生。一条と恋人同士になるが早くも後悔。
一条廉(21)大学生。モテる。イケメン。真下のクズ彼氏。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる