首すじに花がふれる

灰黒猫

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 肌寒い日が続く秋、陽が傾くのは早く、夕暮れが近づいていた。
 少年は学校から全力疾走で自宅へと向かっていた。
 放課後、帰宅しようとしたところ、廊下で他クラスの男子学生に呼び止められた。
 夏休みが明けた頃からなぜかたびたび声をかけられるようになった。名前は知らない。覚える気もない。顔もぼんやりとしか覚えていない。シルバーチェーンの先に銀色と金色の二つのリングを組み合わせたものをいつも首から下げているのでそれで判別している。
 興味のない話が続く。自分はなにが好きだの、この前はあそこに行っただの、どこに話の着地点を置くつもりなのかもわからない脈絡のない言葉ばかりが連なる。不機嫌さをあらわにして黙っていた。
 連絡先を訊かれた。嫌だと断って帰ろうとしたが不意に背後から腕を捕まれ、引き寄せられかけた。が、重心を傾けて踏みとどまった。
 相手を睨みつけようと顔だけ振り返ろうとしたところで、首の後ろに触れるものがあった。
 「痕をつけた」と軽い口調で言われ嫌悪感を抱く。即座に廊下の掃除用具入れロッカーから鉄製のバケツを引き出し、相手に投げつけた。
 当たったかどうかは知らない。バケツが床に強く落ちる音が響いたのは聞こえた。
「二度とさわるな」
 強い語調で相手も見ずにそう言い捨てて駆け出した。

 自宅のマンションの鍵と扉を荒々しく開ける。勢い任せに扉を閉めようとしたところで近所迷惑だと思いとどまった。
 それでも、室内にいた男には異変が伝わったようだった。外廊下を走る足音が聞こえたのかもしれない。玄関まで出てくる。
「どうした」
 少年は肩で大きく息をしていた。靴を脱いで室内へ上がり床にかばんを落とす。そのまま男に両腕で抱きつく。
「上書きして」
 明らかに激しく腹を立てた声だった。理由もわからないまま男は少年を緩く抱きしめ、片手で後頭部を撫でる。
「なにがあった」
 穏やかな声で訊かれる。
「学校で、ほかのクラスのやつに首の後ろに口押しつけられた」
 あんなものは口づけなどとは呼ぶまいと強く思う。
 男の手の動きが止まる。
「気持ち悪い。上書きして」
 見上げると男の両手で頬を包まれる。そのまま唇に口づけを受けた。一度、二度、ゆっくりと三度。
 少年の心が次第に落ち着いていく。唇が離れたところでほっと息をつく。
「……首の後ろにも、して」
 首を傾けてうなじを男に向ける。
 痕が見える。
 男は黙り、口づけを落とさない代わりに少年の片手を取って歩き出した。
「どこ行くの?」
「風呂だ」
「風呂?」
 風呂場の脱衣場まで手を引いて連れていかれる。訳がわからないまま服を丁寧に脱がされた。ますます混乱する。
 前はあんなに動揺していたのに、と思う。
 少年の服を脱がせる間も自分の服を脱ぐ間も、男は冷静に見えた。
 少年の方は心臓が鳴っているというのに。
 曇りガラスの引き戸を開けて浴室に入ると、風呂椅子に腰かけるように言われる。
 大人しく従う間に男は浴槽に湯をため始めていた。
 シャワーで温かい湯を足先から体全体にかけられていく。強張っていた体がほぐれていくのがわかる。
 だいじなものをあつかうような手つきで、時間をかけて体を洗われる。
 恥ずかしさを感じるが、男の顔を見ても真面目な表情としか思えない。一心に洗っている。首の後ろも。
 髪も同じように洗われた。くすぐったいような心地良さを感じる。
 先に湯船へ入るように言われる。湯は十分にたまっていた。
 湯につかり、浴槽の縁に両手で頬杖をついて男を見る。男は体を洗っていた。少年のときと比べて洗う早さと手つきがまったく違う。
 とてもだいじにされている、と思う。
 あまり見すぎるのも男の想いを無視するようで良くない気がした。頬杖をほどき、浴槽の縁に背を預けて後ろ向きで男を待つことにする。
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