縁カウンセラー朝日奈恋九郎〜愛と運命を導くタロット〜① 婚約破棄の塔《The Tower/XVI》の章 藤原沙耶

慈孝

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瓦礫の祈り ――真実は崩壊のあとに生まれる

風を選ぶ日(後編)「触れない愛と、触れた未来」

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 夜の雨が、静かに街を洗っていた。
 アスファルトの光が滲み、歩道の縁に小さな波紋が広がる。
 藤原沙耶は傘を閉じ、Kokū Counseling の灯を見上げた。

 ガラス越しに見える淡い明かり。
 その奥で、恋九郎が机に向かっている。

 (今日は、行くつもりじゃなかったのに)

 心が勝手に、足を運ばせていた。

     *

 ドアベルが鳴る。
 恋九郎が顔を上げた。

「……藤原さん?」

「すみません、予約していなくて」

「構いません。どうぞ」

 彼の声は驚きと同時に、安堵のような色を帯びていた。
 湯呑を二つ用意し、ひとつを彼女の前に置く。
 沈香の香りが、雨の匂いを吸い込みながら、静かに広がる。

「今日は、雨ですね」

「ええ。でも……少し気持ちよくて」

 沙耶は微笑み、髪を耳にかけた。
 濡れた髪の先から、水滴が落ち、光を弾く。
 恋九郎は目を逸らした。
 逸らしたのに、意識はそこに釘付けになった。

「仕事の報告を、したくて」

「伺いましょう」

「……選ばなかったんです」

「選ばなかった?」

「はい。どちらかじゃなく、両方を大切にしたいと思って。
 仕事も、人も。
 “吊るされた男”が言ってた通りに」

 彼はわずかに笑った。

「なるほど。カードの通りですね」

 その笑みの奥に、安堵と痛みが入り混じっていた。
 彼女の選んだ“誠実”を理解しながら、
 心のどこかで“自分ではない”未来を想像していた。

     *

 沈黙の中で、風が揺れた。
 窓の隙間から入り込む夜風が、二人の間を通り抜ける。
 沙耶の肩の髪が、ふわりと舞って、恋九郎の指先にかすった。

 ほんの一瞬。
 触れたかどうかも分からない距離。
 だが、彼の心臓は明確に跳ねた。

「……藤原さん」

 声が掠れた。

「はい?」

「あなたは、強いですね」

「強くなんてありません。……ただ、前に進みたくて」

「その“進む”という意志が、光を呼びます」

「……先生が教えてくれたからです」

 彼の喉が震える。
 “先生”という呼び方が、
 こんなにも遠いと感じたのは初めてだった。

 沈黙。

 湯気が細く立ちのぼり、二人の間でゆらめく。
 恋九郎はその湯気の向こうで、
 ひとつの決断をするように息を吸った。

「――もし、あなたの選んだ風が、
 私のいない方へ吹くとしても。
 それでも私は、その風を信じます」

 沙耶は、目を伏せた。
 唇が震える。
 それが、告白であることを、
 言葉にしなくてもわかってしまった。

「……先生」

 声が掠れる。

「はい」

「風って、自分の意思で変えられますか?」

「ええ。人の祈りがあれば」

「じゃあ、私……」

 沙耶は小さく笑って、
 彼の方を向いた。
 その瞳の奥には、もう迷いがなかった。

「――先生の吹かせる風が、好きです」

 恋九郎の時間が止まった。
 その言葉は、静かな祈りのように、部屋に落ちた。

 彼の唇がわずかに開く。
 けれど、何も言えなかった。

 沈香の香りが深くなり、雨音が遠ざかる。
 二人のあいだに、触れないままの熱が満ちていく。

     *

 別れ際、沙耶が扉に手をかけた。
 外は、もう雨が上がっていた。

「先生、また来ますね」

「……ええ。いつでも」

 彼女が出て行ったあと、
 恋九郎はしばらく動けなかった。

 机の上のカードに手を伸ばす。
 指先が震えている。
 一枚めくる。

《力 Strength》。

 女神が獣を抱くカード。
 ――力とは、抑えること。愛を、壊さないこと。
 彼は静かに目を閉じ、息を吐いた。

「……もう、抑えきれないかもしれない」

 その呟きは、風に溶けた。

     *

 外。
 沙耶は夜空を見上げた。
 雲が切れ、月が顔を出している。
 街の灯が水たまりに映り、足元の光がゆれる。

 彼の言葉が、胸の奥でまだ響いていた。
 “私のいない方へ吹くとしても、信じる”。
 そんな風を、誰が吹かせるのだろう。

 風が、頬を撫でる。
 やさしくて、少し熱い。
 沙耶は目を閉じた。

 ――選ばなくても、風は確かに、彼の方へ吹いていた。

 春の終わり、街の光が白くなり始めたころ。
 藤原沙耶のプロジェクトは、予想以上の注目を集めていた。

 社内の掲示板には「新ブランド戦略・社運案件」の文字。
 知らぬうちに、彼女たちの挑戦は会社全体の命運を背負っていた。

 成功すれば昇進。失敗すれば責任。
 ――そして、それを黙って見ていられない人たちもいた。

     *

 ある朝、仕様書が改ざんされていた。
 プレゼン前日の夜、サーバーの一部がダウン。

 操作ログを追うと、アクセス履歴に見覚えのある名前。
 元婚約者。
 その後ろには、専務令嬢の影。

 (まさか、そこまで……)

 社内は混乱した。
 部長は沈黙し、上層部は原因追及に動かない。
 「若手の責任だ」と言う声も上がる。
 悠が口を開いた。

「僕らで立て直します」

「でも――」

「できます。僕が、藤原さんを信じてるので」

 その一言が、全員を動かした。

     *

 夜。
 オフィスに残るのは二人だけ。
 サーバーのログを修復し、再構成スクリプトを走らせる。

 パソコンの光が、二人の顔を交互に照らす。
 時計の針が、深夜二時を指した。
 悠が静かに椅子を回す。

「少し、休みましょう」

「だめ、あと三つだけ確認したいの」

「頑張りすぎです」

「でも、止まれない」

 彼は立ち上がり、彼女の隣に歩み寄る。
 モニターの光が彼の影を長く伸ばす。
 沙耶の手が震えているのを、彼は見逃さなかった。

「藤原さん」

 名前を呼ぶ声が、思っていたより近かった。
 彼はそっと、彼女の手首に触れた。
 冷えた指先を包む。

「無理しないでください」

「……だって、ここで止めたら」

「止まっても、僕が動きます」

「悠くん……」

 彼の掌の温度が、皮膚を超えて心臓に届く。
 静脈の鼓動が互いに混ざり合うような錯覚。
 それだけで、涙が滲んだ。

「泣いてる」

「うれしいの。怖くて、うれしいの」

「僕も、です」

 その言葉のあと、彼はゆっくりと顔を寄せた。
 距離が、呼吸よりも短くなる。

 光の粒が、二人の間で揺れる。
 ――ほんの一瞬、世界が静止した。
 指先が頬をなぞり、呼吸が触れあう。

 音が消える。
 モニターのブルーライトが、
 彼女の瞳に小さな星を宿す。

 「藤原さん」

 「……なに?」

 「もう、誰にも奪わせません」

 その宣言のあと、彼女は何も言えなかった。
 ただ、目を閉じずに見つめ返した。
 唇は触れない。
 けれど、心が重なった瞬間、空気が確かに震えた。

     *

夜明け前のオフィス。
すべてのモニターが、同時に再起動の光を放った。

悠が指を走らせ、最後のコードを打ち込む。
エラーが消える。
静寂。

「……通った」

その声に、沙耶の全身の力が抜けた。
椅子に沈みかけた肩を、悠の手が支える。
指先が触れた瞬間、体温が直に伝わる。

「無理しすぎです。藤原さん」

「あなたも」

「僕は若いんで」

彼は笑った。
その笑みが、夜よりも温かい。

沙耶の頬に、指先がそっと触れた。

「……泣いてますよ」

「え?」

「嬉しい涙です。ちゃんと頑張った証拠」

触れられた場所が、熱を帯びる。
彼女が反射的に後ずさると、悠は静かに言った。

「僕は、あなたの努力を全部見てきました。
 だから、もう“誰かに認めてほしい”なんて思わなくていい。
 ――僕が、見てますから」

言葉が胸の奥で弾ける。
音にならない鼓動が、二人のあいだの空気を震わせた。

「……そんな風に言われたら、困ります」
「困ってくれてもいいです」

悠の目は、迷いのないまっすぐな光を宿していた。
彼は沙耶の髪の一房を指で払う。

「このプロジェクトが終わっても――僕は、藤原さんを離しません」

彼女の呼吸が止まる。
胸の奥に、恋九郎の言葉が微かに蘇る。
 ――“もし、あなたの選んだ風が私のいない方へ吹くとしても”

それでも今、吹いている風はあまりにも近く、
あまりにも熱かった。

悠が顔を近づける。
沙耶は、目を閉じなかった。

その距離が怖くて、
けれど、逃げる理由がどこにもなかった。
そして、二人の唇が重なり合った。

ーー 朝。
 モニターに並ぶデータの行が、
 すべて正常を示す緑に変わっていた。

「……問題ないですね。」

 悠の安堵の声。
 沙耶は笑って、椅子にもたれた。

 夜が終わっていく。
 窓の外、東の空が淡く光る。
 彼女は小さく呟いた。

「ありがとう」

 悠は首を振る。

「ありがとうは、まだ早いです。これからも隣にいたいので」

 彼女の頬に残る熱が、朝の風で冷めていく。
 それでも、胸の奥ではまだ何かが燃えていた。

     *

 数日後。
 社内掲示板に「プロジェクト・サンライト成功」の報せ。
 報奨、表彰、社内報の特集。
 沙耶と悠の名前が並んでいた。
 
 ーー夜。
 デスクにラナンキュラスの花を一輪置く。
 黄色い花弁が、太陽のように柔らかい光を返す。
 スマホが震えた。

〈おめでとうございます。風は、また良い方へ。――R〉

 “先生”のイニシャル。
 その短い文面に、息が止まった。
 画面を見つめたまま、彼女は静かに微笑んだ。
 “風”という言葉の向こうに、彼の声が確かにあった。

     *

 夜風が窓を揺らす。
 沙耶は目を閉じる。

 悠の熱も、恋九郎の静けさも、同じ風の中で共存していた。
 それは、彼女が初めて“自分で選んだ風”だった。

 ラナンキュラスの香りが淡く漂う。
 ――光はもう、彼女の内側から咲いていた。
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