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第一章:新米弁護士、嵐の予感
第 1話 初陣は突然に
しおりを挟む降り注ぐ初夏の陽光が、都会のビル群を鈍色に照らし出す。その一角、古いが手入れの行き届いたレンガ造りのビルに「御門法律事務所」の控えめなプレートが掛かっている。
所内は、堆く積まれた書類と微かなインクの匂い、そして静かにキーボードを叩く音で満たされていた。
「…で、この判例集のコピー、あと5部。それから、先方への郵便物発送。ああ、お茶もお願いできるかな、大江戸先生」
事務のベテラン女性、田所さんの声に、大江戸英里香は内心で小さくため息をついた。
「はい、ただいま」と返事をしながらも、心の中は穏やかではなかった。
弁護士バッジを付けて早数ヶ月。夢見た法廷での華々しい活躍とは裏腹に、現実は判例コピーとお茶汲み、書類整理の毎日。
まるで、ドラマでよく見る「使えない新人」のテンプレみたいじゃないか、と自嘲気味に思う。まあ、実際まだ戦力になっていないのだから仕方ないのだが。
英里香は、日本有数のコングロマリット、大江戸グループの令嬢である。
その肩書は、良くも悪くも常に彼女について回った。
法曹界を目指したのも、そんな「色眼鏡」で見られることから逃れ、自分の力で道を切り拓きたいという思いがあったからだ。それなのに、現実はまだスタートラインにすら立てていないような感覚だった。
「大江戸先生、ちょっといいかな」
背後からの静かな声に、英里香はびくりと肩を揺らした。
声の主は、所長の御門武志。歳は五十代半ばだろうか、鋭い眼光と隙のないスーツの着こなしが、彼の切れ者ぶりを物語っている。
御門は、英里香が淹れたばかりのお茶を一口すすると、こともなげに言った。
「来週の労働審判、君に主担当で入ってもらうことにした」
「……え?」
英里香は一瞬、自分の耳を疑った。
聞き間違いか、あるいは御門所長の新しいジョークだろうか。
いや、この人は冗談など言うタイプではない。
「あの、所長…、私が、ですか? 主担当で?」
「ああ、そうだ。依頼者は佐伯玲子さん。妊娠を理由に解雇されたと主張している。相手は高山精密、高山悟社長だ。資料はこれだ。目を通しておいてくれ」
御門は分厚いファイルを手渡すと、さっさと自分の執務室へ戻ってしまった。
残された英里香は、ファイルの重みと、それ以上に重いプレッシャーに立ち尽くす。
高山精密…確か、ワンマン経営で労務トラブルが多いと噂の中小企業だ。
そんな案件の主担当?
まだ法廷経験もほとんどないこの私が?
御門所長は、私を崖から突き落とすタイプの教育方針なのだろうか。 スパルタにも程がある。
しかし、落ち込んでいる暇はなかった。
英里香はファイルを抱え、自分のデスクに戻ると、すぐさま読み込み始めた。
佐伯玲子さん、29歳。勤続5年。
真面目な勤務態度で、社内評価も決して低くはなかった。
しかし、結婚し、妊娠を報告した途端、社長から「うちの会社は子育てしながら働けるような甘い場所じゃない」「戦力にならない人間は辞めてもらう」と、事実上の解雇通告を受けたという。
典型的なマタニティハラスメント、そして不当解雇の疑いが濃厚だった。
資料を読み進めるうちに、英里香の胸にふつふつと怒りが込み上げてきた。
これは許されることではない。
佐伯さんの無念を晴らさなければ。新人だとか経験不足だとか、そんなことは言っていられない。
英里香は決意を新たに、週末返上で準備を進めた。
想定される相手方の反論、それに対する再反論、証拠の整理、関連判例の洗い出し…。やるべきことは山積みだった。
そして、労働審判当日。
東京地方裁判所の一室。
独特の緊張感が漂う中、英里香はやや硬い表情で申立人席に座っていた。
隣には、不安げな面持ちの佐伯玲子さん。
相手方席には、ふてぶてしい態度の高山悟社長と、見るからに老獪そうな男性弁護士が座っている。
「では、始めます」
審判官(裁判官)の声で、審判が開始された。
まず、英里香が申立ての趣旨と理由を述べる。
準備した書面に基づき、解雇の不当性、佐伯さんの受けた精神的苦痛を、努めて冷静に、しかし力強く主張した。ここまでは練習通りだ。
問題は、相手方の反論だった。
高山社長は、立ち上がるなり、まるで演説でもぶつかのように声を張り上げた。
「うちの会社はね、厳しい競争の中で生き残ってきたんだ! 業績が悪い時もある!
社員の入れ替えは当然のことだ!
妊娠? そんな個人的な事情で会社に迷惑をかけるなんて、プロ意識が足りないんじゃないのかね!」
時代錯誤も甚だしい、パワハラとマタハラのオンパレード。
思わず「どの時代の経営者ですか」と口に出そうになるのを、英里香はぐっと堪えた。感情的になっては、相手の思う壺だ。
さらに厄介なのは、相手方のベテラン弁護士だった。
彼は、穏やかな口調ながら、巧みに論点をずらし、英里香の主張の細かい矛盾や、証拠の弱い部分を指摘してくる。
「佐伯さんの勤務態度に問題がなかったとは言い切れないのでは?」
「経営上の判断としての解雇であり、妊娠が直接の原因とは断定できない」
「そもそも、佐伯さんが主張する社長の発言を証明する客観的な証拠はあるのですか?」
畳みかけるような質問に、英里香は次第に追い詰められていく。
準備はしてきたはずなのに、相手のペースに飲まれ、頭が真っ白になりかける。
まずい、どう切り返す…?
焦りが顔に出そうになる。
ちらりと傍聴席を見ると、御門所長が厳しい、それでいて何かを試すような目で見ている。
まるで「ほら、どうする?」と問いかけられているようだ。その視線が、さらに英里香のプレッシャーを増幅させる。
結局、第一回の審判は、英里香にとって不完全燃焼のまま終わった。
事務所に戻ると、御門が英里香を執務室に呼んだ。
「大江戸先生」
「…はい」
「今日の審判、どうだった?」
「……申し訳ありません。相手のペースに飲まれてしまい、うまく反論できませんでした」
「だろうな」
御門は短く言うと、言葉を続けた。
「君の主張は正論だ。だが、それだけでは足りん。
感情に流されすぎている。 怒りや正義感は原動力になるが、法廷で武器になるのは冷静な分析と客観的な証拠だけだ。
相手の土俵で戦うな。 もっと多角的に、相手の主張の矛盾を突き、こちらの有利な状況を作り出すんだ。分かるか?」
厳しい指摘だった。
だが、その言葉は的確で、英里香はぐうの音も出なかった。 悔しさが込み上げてくる。
自分の未熟さを、これでもかと突きつけられた気がした。同時に、「大江戸グループの令嬢」というフィルターを通して見られているのではないか、という疑念も頭をもたげる。
期待されているのか、それとも試されているのか。
「…分かりました。次回までに、戦略を練り直します」
英里香は深く頭を下げ、執務室を後にした。
その夜、自室で一人、今日の審判を反芻していると、スマートフォンが鳴った。
表示は「兄・嵐」。警視庁の新人刑事である兄からだった。
「もしもし、英里香か? 今日、初陣だったんだって? どうだった?」
兄の心配そうな声が、今はやけに神経に障る。
「…別に。普通だった」
「普通ってなんだよ。ちゃんとやれたのか? 何か困ってることないか?」
「ないってば! お兄ちゃんには関係ないでしょ! こっちは仕事で疲れてるの! じゃあね!」
一方的に電話を切ると、英里香はベッドに倒れ込んだ。 素直になれない自分が嫌になる。
心配してくれているのは分かっているのに、つい反発してしまう。
大江戸の看板を背負っているのは兄も同じはずだが、彼は彼なりに自分の道を進んでいるように見える。 それに比べて自分は…。
悔し涙が込み上げてきたが、泣いている暇はない。
英里香は勢いよく起き上がると、再びファイルを開いた。
高山社長のあのふてぶてしい顔、佐伯さんの不安そうな瞳、そして御門所長の厳しい視線が脳裏に焼き付いている。
「見てなさいよ…」
誰に言うともなく呟き、英里香は蛍光ペンを握りしめた。
次回の審判まで、あと一週間。
眠れない夜が始まりそうだった。
新米弁護士、大江戸英里香の本当の戦いは、まだ始まったばかりだ。
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