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第一章:新米弁護士、嵐の予感
第 2話 見えない壁
しおりを挟む前回の労働審判での不甲斐ない結果と、御門所長からの厳しい指摘は、英里香の心に深く刻み込まれていた。
「感情に流されるな」
「相手の土俵で戦うな」
「多角的に、相手の主張の矛盾を突き、こちらの有利な状況を作り出せ」
御門の言葉を何度も反芻しながら、英里香は自室のデスクで膨大な資料と格闘していた。
悔しさをバネに、というにはまだ経験値が足りないかもしれないが、少なくとも同じ轍を踏むわけにはいかない。
まずは戦略の練り直しだ。
高山社長の「経営判断」という主張を正面から崩すのは難しい。
ならば、その判断がいかに不合理で、佐伯さん個人への差別的な意図に基づいていたかを、状況証拠で固めるしかない。
英里香は、高山精密の経営実態や、過去の労務問題を徹底的に洗い出すことにした。
翌日から、英里香の地道な調査活動が始まった。裁判所の記録室で過去の訴訟記録を漁り、インターネットで関連情報を検索し、時には高山精密の周辺で元従業員や取引先に話を聞けないかと、それとなく聞き込みを試みる。
まるで弁護士というより、昭和の刑事ドラマに出てくる足で稼ぐタイプの刑事、いや、探偵に近いかもしれない。
これでトレンチコートでも羽織れば完璧だ、などとくだらないことを考えながら、慣れない作業に没頭した。
調査を進めるうちに、高山社長の評判は、予想以上に芳しくないことが分かってきた。
「典型的なワンマン」
「従業員を駒としか思っていない」
「気に入らない社員はすぐにクビにする」
元従業員らしき人物のSNSの書き込みや、取引先の担当者がぽろりと漏らした愚痴など、断片的な情報が集まってくる。
高山精密が過去にも何度か、解雇を巡って従業員と揉めていたらしいことも掴んだ。
「これだ!」
英里香は、過去の解雇事例の中に、佐伯さんと似たようなケースがないか、さらに深く掘り下げようとした。
しかし、そこには分厚い壁が立ちはだかっていた。
過去の事例は和解で終わっていたり、情報が古すぎたりして、今回の佐伯さんのケースに直接結びつけられるような決定的な証拠は見つからない。
高山社長の独善的な経営ぶりは明らかになりつつあるが、それが「妊娠を理由とした解雇」という核心部分の証明には、いまひとつ弱いのだ。
調査に行き詰まりを感じ始めた頃、御門が英里香のデスクにふらりとやってきた。
「どうだ、進捗は?」
「はい、社長の評判や過去のトラブルについてはいくつか掴めましたが、今回の解雇がマタハラであるという直接的な証拠が…」
「そうか」
御門は少し考え込む素振りを見せ、
「ならば、視点を変えてみろ。相手の主張の『前提』そのものを疑ってみるんだ。
高山社長は『経営上の判断』だと言っているな? その判断は、本当に『経営上』合理的だったのか?
例えば、佐伯さんが担当していた業務の重要性、彼女のスキル、代わりの人材の確保状況…そういった側面から、解雇の不合理性を突けないか?」
目から鱗が落ちる、とはこのことか。英里香は、解雇理由の不当性ばかりに目を向けていたが、解雇という選択肢自体が、会社にとって本当に「必要」だったのか、という視点が欠けていたことに気づかされた。
さすがは百戦錬磨のベテラン弁護士、思考の引き出しの数が違う。
「ありがとうございます! その線で、もう一度検討してみます!」
英里香は再び活力を取り戻し、佐伯さんが担当していた業務内容や、彼女のスキル、社内での評価などを詳細に裏付ける作業に取り掛かった。
一方で、依頼者である佐伯玲子の精神的な負担は、審判が長引くにつれて増していくようだった。
打ち合わせのために事務所に来た玲子の顔には、以前よりも深い疲労の色が見えた。
「先生…、本当に勝てるんでしょうか……。
もう、あの社長の顔を見るのも、法廷に立つのも辛くて…」
か細い声で不安を吐露する玲子を前に、英里香は胸が締め付けられる思いだった。
大丈夫です、必ず勝ちます、と安易には言えない。
弁護士として、依頼者の不安を受け止め、支えなければならない。
しかし、結果を出せないことへの焦りが、英里香自身をも苛んでいた。
そして、第二回の労働審判の日が来た。
英里香は、前回とは違い、意識して冷静さを保とうと努めた。
新たに収集した情報に基づき、佐伯さんの業務能力の高さ、彼女が担当していたプロジェクトの重要性、そして彼女の解雇が会社にとってむしろ不利益になる可能性を指摘し、高山社長の「経営判断」という主張の不合理性を突いた。
しかし、相手方の弁護士もさるものだった。
英里香の主張に対し、
「それはあくまで申立人側の主観的な評価に過ぎない」
「代替要員の確保は可能だった」
「経営判断は総合的に行われるもので、一部の業務だけを見て不合理とは言えない」
などと、理路整然と反論してくる。
高山社長も弁護士のサポートを受け、前回のような感情的な発言は抑え、用意された答弁を繰り返すのみ。
審判官も、双方の主張を聞きながらも、どこか煮え切らない態度だ。
決定的な証拠がない中で、判断を下しかねている様子がうかがえる。
結局、この日も具体的な進展はなく、審判は膠着状態のまま次回へ持ち越しとなった。
手応えがないわけではないが、壁を突き崩せた感覚もない。もどかしい思いだけが残った。
審判が終わり、玲子さんを励まして見送った後、事務所に戻ろうと裁判所の廊下を歩いていると、見慣れた、
しかし今はあまり会いたくない人物が壁に寄りかかって待っていた。兄の嵐だった。
「よう。どうだった?」
嵐は、心配と好奇心が入り混じったような顔で近づいてきた。
「別に。進展なし」
英里香はぶっきらぼうに答える。
「そうか…。実はな、俺の方で高村の周辺を少し洗ってみたんだ。
あいつ、他にも色々やらかしてるみたいだぞ。
反社との繋がりも噂されてる。何か使える情報があるかもしれん」
嵐は声を潜めて言った。
刑事としての情報網を駆使して、妹のために一肌脱ごうというのだろう。その気持ちはありがたいが……。
「いらない」英里香はきっぱりと言った。
「お兄ちゃんの気持ちは嬉しいけど、これは私の事件。それに、刑事のやり方で集めた情報を、弁護士がそのまま法廷で使えるわけじゃないでしょ」
「なんだと? こっちは心配して…」
「心配なら、黙って見守っててくれればいい! 下手に首を突っ込まないで! 刑事のやり方と弁護士のやり方は違うの!」
英里香は、自分でも驚くほど強い口調で言い放っていた。嵐は一瞬、言葉を失ったようだったが、すぐに苛立ちを隠せない表情になった。
「……分かったよ。勝手にしろ」
嵐はそれだけ言うと、足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、英里香は自己嫌悪に陥った。
また素直になれなかった。 兄の情報が、何かの突破口になる可能性だってあったかもしれないのに。
それでも刑事である兄に頼ることは、自分の力で戦うという決意を裏切るような気がしたのだ。
大江戸の看板ではなく、自分の力で。その意地が、兄との間にまた一つ、見えない壁を作ってしまった。
事務所への帰り道、英里香の足取りは重かった。 目の前には、高山精密という手強い相手。
背後には、心配してくれる家族との見えない壁。そして何より、弁護士としての自分自身の力量という、最も厚く、高い壁がそびえ立っているように感じられた。
「…負けるわけには、いかない」
誰に言うでもなく呟き、英里香は顔を上げた。
たとえ壁が高く厚くとも、乗り越える方法を探すしかない。
それが、今の自分にできる唯一のことなのだから。
夕暮れの空を見上げ、英里香は再び決意を固めるのだった。
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