4 / 63
第一章:新米弁護士、嵐の予感
第 3話 苦い勝利と新たな依頼
しおりを挟む労働審判は、ついに最終局面を迎えていた。
東京の空も梅雨入りを間近に控え、やや湿気を含んだ空気が裁判所の廊下にも漂っているかのようだ。
英里香は、これまでの調査で集めた高山社長の過去の言動、他の従業員に対するパワハラまがいの発言や、恣意的な人事評価の記録などを証拠として提出し、今回の佐伯玲子さんへの解雇がいかに個人的な感情、特に妊娠に対する偏見に基づいたものであるかを粘り強く主張した。
「社長は以前にも、『女は家庭に入ればいい』『子供ができたら仕事なんて無理だ』といった趣旨の発言を繰り返しておられます!
今回の解雇も、その延長線上にある、極めて差別的な意図に基づくものと言わざるを得ません!」
英里香の声が、静かな審判廷に響く。
しかし、高山社長はどこ吹く風、といった態度で腕を組み、相手方のベテラン弁護士は
「それはあくまで過去の、しかも文脈を切り取った発言に過ぎない」
「今回の解考は、佐伯さんの能力と会社の経営状況を総合的に判断した結果であり、差別的な意図など断じてない」
と、あくまで「経営判断」の正当性を繰り返すばかり。
まるで壊れたレコードのようだ、と英里香は内心で毒づいた。
議論は平行線を辿り、やや泥仕合の様相を呈してきた。
双方の主張が出尽くしたと判断したのか、審判官が重々しく口を開いた。
「双方の主張には隔たりが大きいようです。
これ以上審理を続けても、白黒をつけるのは容易ではないでしょう。
裁判所としては、双方に対し、和解による解決を強く勧告いたします」
そして、具体的な解決金の金額が提示された。
それは、玲子さんが要求していた額には満たないものの、決して無視できる金額ではなかった。
事務所に戻り、英里香は御門に報告した。
「和解勧告ですか…。所長、私はやはり判決で…」
白黒つけたい、という言葉を英里香は飲み込んだ。
御門は、英里香の葛藤を見透かしたように、静かに言った。
「気持ちは分かる。 だがな、大江戸先生。
我々の目的は、法廷で相手を打ち負かすことだけではない。
依頼者の利益を最大化することだ。判決まで持ち込んでも、必ずしも勝訴できる保証はない。
むしろ、証拠の点で厳しいとなれば、請求棄却のリスクもある。
そうなれば、玲子さんは何も得られない。時間も費用も、そして何より精神的な負担もさらに増えることになる」
御門は、英里香の淹れたコーヒーを一口すすり、続けた。
「提示された和解金額は、決して悪くない。
玲子さんの今後の生活を考えれば、早期に金銭的な補償を得て、この問題から解放されることも、一つの『勝利』と言えるんじゃないか?」
御門の言葉には、長年の経験に裏打ちされた現実的な重みがあった。
英里香は、自分の理想や正義感だけで突っ走っていたことを改めて痛感する。
弁護士として、依頼者の人生全体を見据えた判断を下さなければならない。
翌日、英里香は佐伯玲子さんに裁判所の和解勧告について説明した。
「裁判所の判断は、こうでした。
もちろん、玲子さんが納得できなければ、審判を続けて判決を目指すことも可能です。
ですが、先ほどお話ししたようなリスクもあります…」
英里香は、和解のメリットとデメリットを、言葉を選びながら丁寧に伝えた。
玲子さんは俯いたまま、黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「もう…疲れました…。早く、楽になりたいです…」
その目には涙が浮かんでいた。
英里香は、玲子さんの手をそっと握った。
「分かりました。では、和解を受け入れる方向で進めましょう」
裁判所で、和解調書に双方が署名捺印した。
高山社長は最後まで不満そうな顔を隠そうともせず、相手方の弁護士だけが事務的に手続きを進めていた。
玲子さんは、すべてが終わると、英里香に向かって深々と頭を下げた。
「先生…本当に、ありがとうございました」
その声は震えていたが、表情には安堵の色が見えた。英里香は「いいえ、大変でしたね」と返すのが精一杯だった。
事務所に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。これで良かったのだろうか。
高山社長に非を認めさせたわけでも、罰を与えたわけでもない。
玲子さんの心の傷が完全に癒えたわけでもないだろう。
勝利とは言い難い、後味の悪さが残る。
まるで、引き分け狙いのサッカーの試合が終わった後のような、何とも言えない気分だ。
そんな英里香の様子を見てか、御門が声をかけてきた。
「お疲れ様、大江戸先生。まあ、座りなさい」
御門は自らコーヒーを淹れてくれた。珍しいこともあるものだ。
「…所長、私、結局何も…」
「そんなことはない」御門は英里香の言葉を遮った。
「君はよくやった。依頼者の人生は、事件が終わっても続いていく。
我々の仕事は、法廷で喝采を浴びることじゃない。依頼者が少しでも前を向いて、次の一歩を踏み出せるように、その背中をそっと押してやることだ。
今回の和解は、玲子さんにとって、そういう意味があったと私は思う」
御門の言葉が、少しだけ英里香の心を軽くした。そうかもしれない。
これも弁護士の仕事なのだ。
一息つき、溜まった事務作業に取り掛かろうとした矢先、内線電話が鳴った。受付の田所さんからだった。
「先生、大変申し訳ありませんが、至急お会いしたいという女性がいらっしゃいまして…。予約はなかったのですが、かなり切羽詰まったご様子で…どうしましょうか?」
アポなしの来訪者は珍しくないが、「切羽詰まった」という言葉に、英里香は少し嫌な予感を覚えた。
「分かりました。応接室にお通ししてください。すぐ行きます」
英里香が応接室のドアを開けると、そこには小柄な若い女性が一人、硬いソファに浅く腰掛けていた。
年は二十代半ばだろうか。
青白い顔で俯き、膝の上に置かれた手は小刻みに震えている。
高価そうなブランドバッグが、今の彼女の雰囲気とは不釣り合いに見えた。部屋の空気が、妙に重く張り詰めている。
「はじめまして。弁護士の大江戸英里香です。どうぞ、お掛けください」
英里香は努めて穏やかに声をかけ、女性の向かいに座った。
「あの…突然すみません…。ご紹介もなしに…」
女性はか細い声で言うと、一度顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまった。その瞳には、深い怯えと絶望の色が浮かんでいた。
「大丈夫ですよ。
何かお困りのことがあるのですね? 私でよければ、お話を伺います。お名前を教えていただけますか?」
英里香が優しく促すと、女性は意を決したように、震える声で名乗った。
「倉田…倉田遥と申します」
そして、堰を切ったように話し始めた。
「先生……私、ひどいことを……。会社の上司に……」
その声は涙で震え、言葉は途切れがちだった。
「……二人きりになった時に、無理やり……キスを……。それから、怖くて、会社に行けなくなって……お医者様からは、うつ状態だって……」
倉田遥と名乗る女性の口から語られる言葉は、先ほどの労働審判とは明らかに質の異なる、重く、深刻な響きを持っていた。
英里香は、彼女の言葉を一言も聞き漏らすまいと、じっと耳を傾ける。
背筋に冷たいものが走るのを感じながら、英里香は気を引き締めた。
佐伯玲子さんの事件は終わった。
しかし、それは新たな、そしておそらく、より深く暗い事件の始まりを告げる序章に過ぎなかったのかもしれない。
英里香は、目の前の震える女性を守らねばならない、という強い使命感を、胸の奥に感じ始めていた。
11
あなたにおすすめの小説
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる