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第一章:新米弁護士、嵐の予感
第 4話 告白と決意
しおりを挟む御門法律事務所の応接室には、重い沈黙が流れていた。
先ほどまでの労働審判の喧騒が嘘のように、今はただ、目の前の女性、倉田遥が絞り出すように語る言葉だけが、静寂を破っていた。
英里香は、手元のメモ帳にペンを走らせながらも、遥の強張った表情と、時折言葉に詰まる彼女の苦痛から目を離すことができなかった。
「松永さん…いえ、松永次長は、入社した時からずっと私の上司で…。仕事もできるし、面倒見も良くて、尊敬していたんです。営業の指導も熱心にしてくれて…」
遥の声は、過去の信頼を語る時にはわずかに和らぐが、すぐにまた硬く強張る。
「あの日も、営業先から戻るのが遅くなってしまって…。二人で軽く食事をして、その帰りでした。『事業所に寄って、今日の反省会でも少ししないか? 明日のために』って誘われて…」
遥の脳裏には、あの夜の光景が嫌でも蘇ってくるのだろう。英里香は、彼女の呼吸が浅くなっているのに気づき、「無理なさらないでくださいね」と静かに声をかけた。
遥は小さく頷き、話を続けた。
「事業所には誰もいなくて…。松永次長が、どこからかお酒を出してきて、『まあ、一杯』って。私も、少し気が緩んでいたのかもしれません。
仕事の悩みを相談しているうちに、営業目標が達成できない悔しさとか、プレッシャーとかで、つい涙が…」
そこまで話すと、遥は唇をきつく噛みしめた。
「そうしたら、突然……松永次長が、『大丈夫か?』って言いながら、私の顔を両手で……。え?って思う間もなく、いきなり……キスを……」
その瞬間を思い出したのだろう、遥の体が小さく震えた。息が詰まるような恐怖と、信じていた人間に裏切られたショック。
何が起こったのか理解が追いつかず、ただ硬直するしかなかったという。
抵抗する間も、逃げる間もなかった。
それはほんの数秒のことだったのかもしれないが、遥にとっては永遠のように感じられただろう。
「…すぐに、我に返って、『やめてください!』って言って、荷物を持って事業所を飛び出しました。
松永次長も、慌てた様子で後から出てきましたが、私は振り返らずに走って…」
その翌日、遥のスマートフォンに松永からL○NEメッセージが届いた。
「『すまん、わかっていたけど他にテンションを上げる方法が思いつかんかった』って……」
遥はそのメッセージを英里香に見せた。
ふざけているのか、本気でそう思っているのか。 どちらにしても、遥の受けた衝撃と屈辱を全く理解していない、信じられない内容だった。
「『もうやめてくださいね!』って返信するのが精一杯でした…。怖くて、気持ち悪くて、どうしたらいいか分からなくて…」
その翌日から、遥は会社に行くのが酷く辛くなった。
仕事中に動悸や吐き気に襲われ、早退してメンタルクリニックを受診。「上司にキスされたことがショックで…」と医師に訴えると、「うつ状態」と診断され、休職を余儀なくされた。
「会社には、正直に話しました。
人事部長が対応してくれて…。
最初は、松永次長の言い分も聞いたりして、会社も慎重だったみたいですけど、私の診断書とか、あのL○NEのメッセージとかを見て、最終的には『悪質なセクシャルハラスメントにあたる』として、松永次長を懲戒解雇にしたんです」
そこまで話すと、遥は少しだけ安堵したような表情を見せた。しかし、それも束の間だった。
「でも……松永次長が、その解雇を不服として、会社を訴えたんです。『解雇は無効だ』って…。裁判で、彼は『合意の上だった』とか、『遥の方から誘ってきた』とか、嘘ばかり主張しているらしくて…」
再び遥の声に怒りと恐怖がこもる。
「私は、裁判でまたあの時のことを話さなければならないかもしれない…。それが怖くて…。
でも、松永さんが自分のしたことを正当化しようとしているのが、どうしても許せないんです…!」
遥の話を聞き終え、英里香はしばし言葉を失った。 佐伯さんのマタハラ事件で感じた理不尽さとは、明らかに次元が違う。
これは、力を持つ者がその立場を利用し、相手の人格と尊厳を踏みにじる、卑劣極まりない行為だ。
込み上げてくる強い憤りを、英里香は冷静さの仮面の下に押し込めた。
「倉田さん、大変でしたね…。どれほど怖くて、辛い思いをされたか…。お察しします」
英里香は、まず遥の気持ちに寄り添う言葉をかけた。そして、弁護士として冷静に事実関係と法的なポイントを確認していく。
「会社が懲戒解雇したということは、会社側も松永さんの行為の悪質性を認めているということですね。
今回の訴訟は、形式的には会社と松永さんとの間の争いになりますが、倉田さんの証言が非常に重要になることは間違いありません。
相手方は、倉田さんの証言の信用性を貶めようと、様々な主張をしてくるでしょう」
英里香は、今後の厳しい戦いを覚悟しながら、はっきりと告げた。
「倉田さん。あなたは、何も悪くありません。
松永さんの行為は、断じて許されるものではありません。
そして、彼が事実を歪曲し、あなたをさらに傷つけようとしていることも、決して許してはならない。
もし、あなたが戦うと決めたのなら…この事件、私に任せていただけませんか?
あなたの代理人という形ではありませんが、会社側の弁護士と連携し、全力であなたをサポートします。一緒に、戦いましょう」
英里香の真っ直ぐな視線と、力強い言葉。
それは、大江戸グループの令嬢としてではなく、一人の弁護士、大江戸英里香としての決意表明だった。
遥は、英里香の目を見つめ返すと、堰を切ったように涙を流し始めた。
それは、絶望の涙だけではない、かすかな希望の光を含んだ涙のように見えた。
「…はい……お願いします…!」
遥が少し落ち着きを取り戻し、今後の手続きについて説明した後、英里香は彼女を事務所の玄関まで見送った。
エレベーターのドアが閉まる瞬間まで、遥は何度も頭を下げていた。
一人応接室に戻った英里香は、大きく息を吐いた。そして、迷うことなく所長室のドアをノックした。
「所長、先ほど相談に来られた、倉田遥さんの件ですが」
英里香は、事件の概要を手早く説明し、最後に付け加えた。
「この事件、私が担当させていただきたいと考えています」
その声には、先ほどの労働審判の時とは違う、揺るぎない意志が込められていた。
御門は、英里香の報告を黙って聞いていたが、彼女の最後の言葉に、わずかに目を細めた。英里香の強い決意を感じ取ったのだろう。
「…そうか。状況は理解した」
御門はペンを置き、英里香を真っ直ぐに見据えた。
「…分かった。君に任せよう。会社側の代理人ともよく連携を取りなさい」
そして、いつもの厳しい口調で付け加えた。
「だが、言っておく。相手は解雇を覆すために必死だ。
なりふり構わず攻撃してくるだろう。
感情だけで突っ走るなよ。 冷静さを失えば、足元を掬われるぞ。
相手は、君が思うよりずっと手強いぞ」
「はい。肝に銘じます」
英里香は力強く頷いた。
御門の言葉は、単なる注意喚起ではない。
それは、英里香の覚悟を問い、そして同時に、彼女の成長への期待を込めた檄のようにも聞こえた。
所長室を出た英里香は、窓の外に広がる初夏の空を見上げた。
佐伯さんの事件とは違う、重く、粘りつくような感情が胸の中に渦巻いている。
これから始まる戦いは、おそらくこれまで経験したことのない、タフなものになるだろう。
それでも、やらなければならない。
倉田遥さんの失われた尊厳を取り戻すために。
そして、このような理不尽がまかり通る世の中であってはならないと信じる、自分自身の正義のために。
英里香は、きゅっと唇を引き結び、デスクに向かった。
新たな、そして困難な戦いのゴングは、今、鳴らされたのだ。
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