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第二章:対決の法廷
第5話 見えない傷跡
しおりを挟む倉田遥が事務所を訪れてから数日、英里香は本格的に訴訟準備に取り掛かっていた。
デスクには「デジタル・フロンティア社 vs 松永健司 地位確認等請求事件」と記された新しいファイルが置かれ、その中には遥の震える文字で書かれた陳述書の草稿や、メンタルクリニックの診断書コピー、そしてあの忌まわしいL○NEメッセージのスクリーンショットなどが収められていた。
一つ一つの書類が、遥の受けた傷の深さを物語っているようで、英里香は気を引き締める思いだった。
まずは、被告であるデジタル・フロンティア社の代理人弁護士との連携が不可欠だ。
英里香は早速、都内にある大手法律事務所に所属する橘弁護士に連絡を取り、打ち合わせのアポイントメントを取り付けた。
「大江戸先生、はじめまして。橘です。この度は、倉田さんのサポート、誠にありがとうございます」
物腰柔らかながらも、目には鋭い光を宿した橘弁護士は、英里香を会議室に迎え入れた。
二人は事件の概要、これまでの経緯、そして今後の訴訟方針について綿密に確認し合った。
会社としても、松永の行為は断じて許容できるものではなく、懲戒解雇の正当性を維持するために全面的に争う姿勢だという。
英里香は、倉田遥の精神的なケアにも配慮しながら、証人尋問等で最大限協力していくことを約束した。
心強い味方を得たものの、これから始まるであろう法廷闘争の厳しさを予感させる打ち合わせだった。
事務所に戻ると、英里香は遥に連絡を取り、改めて詳しい話を聞くための時間を作った。
応接室に現れた遥の表情は、以前よりは少し落ち着いているように見えたが、時折、遠くを見るような虚ろな目になることがあった。
事件のことを思い出そうとすると、フラッシュバックに襲われることがあるのだという。
「倉田さん、無理はしないでくださいね。辛くなったら、いつでも中断して構いませんから」
英里香は、温かいハーブティーを勧めながら、優しい口調で語りかけた。休憩を挟み、時には雑談も交えながら、英里香は遥の記憶を丁寧にたどっていく。
事件当日の詳細な状況、松永との普段の関係性、事件前後の心境の変化、そして診断書の内容…。
遥は、時折言葉を詰まらせ涙ぐみながらも、懸命に記憶を呼び起こし、語ってくれた。
「同僚で、何か今回の件について知っていたり、協力してくれそうな方はいらっしゃいますか?」
英里香が尋ねると、遥は少し考え込んだ後、数人の名前を挙げたが、
「でも、皆さん会社にいるし、迷惑をかけたくない…」と躊躇いを見せた。
証言を得ることの難しさを、英里香は改めて感じる。
そんな矢先、松永側の代理人弁護士から、第一準備書面がファックスで送られてきた。
英里香は、橘弁護士から転送されたその書面を一読し、全身の血が逆流するような激しい怒りに襲われた。
そこには、信じられないような主張が、あたかも真実であるかのように淡々と書き連ねられていたのだ。
原告(松永)は、被告従業員A(倉田遥)とは、日頃から親密な関係にあった』
『事件当日、Aは原告に対し、好意があるかのような言動を見せていた』
『事業所においても、Aが原告の太ももに足を乗せるなど、誘うような行動をとったため、原告は合意があると誤信した』
『キスは突発的なものではなく、双方の合意に基づくいわゆるスキンシップの範囲内であった』
「……ふざけるな!」
思わず、英里香は声を荒らげていた。
事実をここまで歪曲し、被害者である遥を貶め、責任を転嫁しようとするとは。
卑劣にも程がある。
しかし、ここで感情的になっては相手の思う壺だ。
英里香は深呼吸を一つすると、怒りを冷静な分析力へと転化させ、書面の矛盾点や、裏付けのない主張を一つ一つチェックし始めた。
反論の骨子は明確だ。
この悪質な主張を、証拠をもって徹底的に粉砕するしかない。
その日の夕方、英里香のスマートフォンに意外な人物から着信があった。兄の嵐だった。
「英里香か? 今、少し時間あるか? 例の松永の件で、ちょっと話しておきたいことがある」
前回、突き放してしまった手前、少し気まずさを感じながらも、英里香は「…ええ、大丈夫だけど」と答えた。 二人は、事務所近くの喫茶店で会うことにした。
「これ、見てみろ」
コーヒーを前に、嵐は一枚のメモをテーブルの上に滑らせた。
そこには、いくつかの日付と、女性の名前らしきイニシャル、そして「食事の誘いを断ったら無視されるようになった」「二人きりになろうと執拗に誘われた」「容姿について不快なことを言われた」といった短い記述が並んでいた。
「例の強制わいせつの件は、証拠不十分で不起訴になった。 だがな、捜査の過程で、松永が他の女性従業員にもかなり問題のある言動を繰り返していたって話が複数出てきたんだ。
あくまで内偵や任意聴取での話だから、公判で使える証拠にはならん。
だが、お前の調査の参考にはなるかもしれん」
嵐は前回とは違い、淡々とした口調で言った。
刑事としての立場と、妹を思う気持ちの狭間で、彼なりに考えたのだろう。
「これは、あくまで俺が個人的に掴んだ情報だ。どう使うかはお前次第だが、取り扱いには十分気をつけろよ。裏付けは、お前の責任でしっかりやれ」
英里香は、メモを見つめながら、兄の顔を見た。ぶっきらぼうな口調だが、そこには確かに自分を気遣う気持ちが感じられた。
「…ありがとう、お兄ちゃん。助かるわ」
素直に出た感謝の言葉に、嵐は少し驚いたような顔をしたが、すぐに「おう」と短く応え、どこか安堵したような表情を見せた。
二人の間にあった見えない壁が、少しだけ低くなったような気がした。
翌日から、英里香は嵐からもたらされた情報を元に、裏付け調査を開始した。
メモにあったイニシャルの人物や、過去に松永の下で働いていた可能性のある元同僚に、慎重に接触を試みる。デジタル・フロンティア社の顧問弁護士という立場を明かし、協力を求めるが、反応は芳しくない。
「もう関わりたくない」「会社に知られたら困る」「証言なんてとんでもない」…警戒されたり、協力そのものを拒否されたりすることの連続だった。やはり、現実は甘くない。
それでも、英里香は諦めなかった。何度も足を運び、手紙を書き、誠意をもって説得を続ける。
そして数日後、ついに一人の元同僚、仮にBさんと呼ぶ女性が、匿名を条件に重い口を開いてくれたのだ。
「…実は、私も昔、松永さんからしつこく食事に誘われたり、二人きりになろうとされたりして、すごく嫌な思いをしたことがあるんです。
断ったら、露骨に態度を変えられて…。あの人、昔からそういうところがあったんです。倉田さんの話を聞いて、やっぱりって…」
Bさんの証言は、松永のセクハラ行為が今回だけではない、常習的なものであった可能性を示唆していた。
これは、松永側の「合意があった」という主張を覆す上で、極めて重要な手がかりになるかもしれない。
もちろん、匿名証言を法廷でどう扱うか、Bさんが正式な証言に同意してくれるかなど、ハードルは依然として高い。
だが、暗闇の中に、確かな反撃の糸口が見えた気がした。
英里香は、Bさんに丁重に礼を言うと、事務所への帰路についた。
地道な証拠固めの重要性を、改めて胸に刻む。
一つ一つの小さな事実を積み重ね、相手の嘘を暴いていく。
それこそが、弁護士として、今の自分にできる最善の戦い方なのだ。
英里香は次の一手を考えながら、決意を新たに夜の街を歩き始めた。
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