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第二章:対決の法廷
第6話 証拠の断片
しおりを挟む梅雨入り間近の、やや蒸し暑さを感じる朝。
英里香は、分厚い訴訟ファイルとノートパソコンを抱え、東京地方裁判所へと向かっていた。
「デジタル・フロンティア社 vs 松永健司 地位確認等請求事件」の第一回口頭弁論期日だ。
法廷に立つのは労働審判以来だが、あの時とは比較にならないほどの重圧と、そして確かな使命感が英里香の胸を満たしていた。
倉田遥さんのためにも、絶対に負けられない。
裁判所の廊下は、様々な思いを抱えた人々が行き交い、独特の緊張感に包まれている。
指定された法廷の前には、すでにデジタル・フロンティア社の人事部長と、代理人の橘弁護士が待っていた。
軽く挨拶を交わし、英里香も隣に立つ。
やがて、相手方である松永健司が、代理人弁護士と共に姿を現した。
松永は、一見落ち着いているように見えるが、その目には隠しきれない焦りの色が浮かんでいるようにも、逆に不遜な光を宿しているようにも見えた。
英里香の視線に気づくと、彼はふいと顔をそむけた。
時間になり、法廷のドアが開かれる。
傍聴席には数人の会社関係者の姿が見える。
英里香は橘弁護士と共に被告席へ、松永とその代理人は原告席へと着席した。
正面には、裁判官席。
やがて、黒い法服に身を包んだ裁判官が入廷し、書記官が事件番号と当事者名を読み上げ、開廷が宣言された。
ピンと張り詰めた空気の中、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされる。
まず、被告である会社側の主張から始まった。
橘弁護士が立ち上がり、松永の懲戒解雇が、就業規則に定められた懲戒事由(セクシャルハラスメント)に該当し、社会通念上も相当なものであることを、よどみなく主張した。
続いて英里香が、橘弁護士の許可を得て補足するように口を開いた。
「原告・松永健司氏が行った行為は、部下である倉田遥氏の意思に反し、その尊厳を著しく傷つける悪質なセクシャルハラスメントです。
その証拠として、事件翌日に被告が倉田氏に送信した謝罪の趣旨を含むL○NEメッセージ、および、本件行為により倉田氏がうつ状態と診断された旨の医師の診断書を、既に甲号証として提出しております」
英里香は、努めて冷静に、しかし語気を強めて事実関係を述べた。
次に、原告・松永側の反論。松永側の代理人弁護士が立ち上がり、例の準備書面の内容をなぞるように主張を展開した。
「原告と倉田氏は、日頃から親密な関係にあり、事件当日の行為は、双方の合意に基づくものでした。
倉田氏が被告の足に自身の足を乗せるなど、原告を誘うような行動があったことは事実です。
L○NEメッセージは、あくまで行き過ぎた冗談に対するものであり、セクハラ行為を認めたものではありません。
倉田氏の精神状態については、本件行為との因果関係は不明確であり、懲戒解雇は到底認められるものではありません」
原告席の松永は、弁護士の言葉に時折頷きながら、不満そうな表情で被告席を睨みつけている。その態度からは、反省の色など微塵も感じられない。
英里香は、静かに挙手し、裁判官の許可を得て反論した。
「原告代理人の主張は、客観的な証拠と著しく乖離しております。
まず、『すまん、わかっていたけど他にテンションを上げる方法が思いつかんかった』というLINEメッセージが、どうして『冗談』と言えるのでしょうか。
これは明らかに、倉田氏の意に反する行為であったことを被告自身が認識していたことの証左です」
英里香は、手元の資料に目を落としながら、言葉を続ける。
「また、仮に倉田氏が原告の足に触れた事実があったとしても(その事実自体争いますが)、それが直ちにキスという行為への『合意』を意味するものでないことは明らかです。
さらに、倉田氏が本件行為の直後に精神的なショックを受け、うつ状態と診断され休職に至っている事実は、診断書によって客観的に証明されています。
原告の行為が悪質で、倉田氏に深刻な精神的苦痛を与えたことは明白であり、懲戒解雇はやむを得ない措置であったと考えます」
英里香は、最後に付け加えた。
「なお、原告が他の従業員に対しても、過去に同様の不適切な言動を繰り返していた可能性についても、当方で調査を進めており、今後の立証活動において明らかにしていきたいと考えております」
この一言に、松永の表情がわずかにこわばったのを、英里香は見逃さなかった。
すかさず、松永側の代理人が再反論する。
「L○NEメッセージに対する倉田氏の返信は、『もうやめてくださいね!』というものであり、深刻な被害を受けた者の反応としては不自然です。
精神的な被害についても、倉田氏自身の個人的な問題が影響している可能性も否定できません。
他の従業員への言動云々は、本件とは無関係な憶測に過ぎません」
まるで、用意された台本を読むかのように、弁護士は主張を繰り返した。
一通りの主張の応酬を聞き終えた裁判官は、静かに口を開いた。
「双方の主張は分かりました。
争点は、原告の行為がセクシャルハラスメントに該当するか、該当するとして懲戒解雇が妥当か、という点ですね。
現時点では、双方の主張には大きな隔たりがあります。
次回期日までに、それぞれ、ご自身の主張を裏付けるさらなる証拠の提出、および、必要であれば証人申請などを検討してください」
裁判官は、あくまで中立的な立場で、今後の審理の進行を示した。
現時点では、まだどちらに有利とも言えない状況だ。
閉廷後、英里香は橘弁護士と軽く打ち合わせをし、事務所へと戻った。
手応えがなかったわけではない。L○NEや診断書という客観的な証拠はこちらにある。
しかし、相手の強弁ぶり、そして事実を捻じ曲げてでも自己を正当化しようとする松永の態度に、改めて気を引き締めなければと感じていた。
所長室で御門に報告すると、彼はいつものように冷静に状況を分析した。
「なるほどな。 相手方は、事実関係をごちゃごちゃにして、裁判官の心証を悪くさせようという戦術だろう。
いわば泥仕合に持ち込もうとしているわけだ」
御門は、英里香の淹れたコーヒーを一口飲み、続けた。
「こういう時は、細かい事実関係の応酬に深入りしすぎると、本質を見失うことになる。
相手の土俵に乗るな。
我々が立証すべき核心は何か?
それは、松永の行為が、倉田さんの人格権を侵害する悪質なセクハラであること、そしてその行為が、会社の秩序を著しく乱し、懲戒解雇事由として十分なものであること、この二点だ。
特に、懲戒解雇の相当性という点に、議論を集中させるべきだろう」
御門のアドバイスは、英里香の頭の中を整理してくれた。
そうだ、個々の主張に一喜一憂するのではなく、最終的なゴールを見据えて、最も効果的な立証活動に集中しなければならない。
「そのためには、やはり証人尋問が鍵になりますね」と英里香が言うと、御門は頷いた。
「倉田さん本人の尋問はもちろん、松永の常習性を裏付ける第三者の証言が得られれば、決定打になる可能性もある。
だが、証人確保は容易ではないぞ。慎重に進めろ」
英里香は御門の言葉を胸に、次回の期日へ向けての戦略を練り始めた。
倉田遥さん本人、そして、匿名を条件に話してくれた元同僚のBさん…。
彼女たちに、法廷という場で証言してもらうためには、どう働きかけていけばいいのか。
橘弁護士とも緊密に連携を取りながら、この難局を乗り越えなければならない。
英里香は、窓の外に広がる、いつの間にか雲が厚くなってきた空を見上げ、静かに闘志を燃やすのだった。
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