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第二章:対決の法廷
第7話 遥の証言
しおりを挟む次回の口頭弁論期日は、証人尋問に充てられることが決まった。
梅雨入りを間近に控え、東京湾特有の海からの湿った風が時折強く吹くようになった頃、英里香は最重要証人となる倉田遥、そして松永の常習性を裏付ける鍵となりうる元同僚の中野さん(仮名)との打ち合わせを重ねていた。
事件の重苦しさが、どんよりとした空模様と重なるように感じられた。
最大の難関は、やはり遥自身が法廷に立ち、再びあの忌まわしい事件と向き合うことだった。
事務所の応接室で、遥は何度も「私に、できるでしょうか…」と不安を口にした。
その目は恐怖に揺れ、声はか細く震えていた。
「松永さんの顔を見るのも、裁判官やたくさんの人の前であの時のことを話すのも、考えるだけで胸が苦しくなります…」
英里香は、その痛切な訴えに深く頷き、遥の隣に腰掛けた。
「お気持ち、痛いほど分かります。決して無理強いはできません。でも…」英里香は言葉を選びながら続けた。
「ここで倉田さんが勇気を出して真実を語ることが、松永さんの嘘を打ち破り、倉田さん自身の尊厳を取り戻すための、大きな一歩になるはずです。
あなたは一人じゃありません。
私たちが全力でサポートします。法廷でも、私が必ずあなたを守ります」
英里香の真摯な言葉に、遥は俯いたまましばらく黙っていたが、やがて顔を上げ、涙の滲む目で英里香を見つめ返した。
「……はい。 分かりました。 私のために、そして…もう二度と、私のような思いをする人が出ないように…。やります」
それは、恐怖を乗り越えようとする、か細いが確かな決意の声だった。
一方、元同僚の中野さんの説得は、さらに困難を極めた。
英里香は、人目を避け、A市内から少し離れた静かなカフェで中野さんと会った。
「大江戸先生のお気持ちは分かります。
倉田さんのことも、本当に気の毒だと思います。でも…」
中野さんは、小さな声で繰り返した。
「もし証言したことが今の会社や家族に知られたら……何を言われるか分かりません。
それに、松永さんだって、何をされるか……正直、怖いんです」
彼女の懸念はもっともだった。
証言に立つことのリスクは決して小さくない。
英里香は、中野さんの不安に深く共感を示しながらも、諦めなかった。
証言がいかにこの裁判で重要か、倉田さんがどれほど苦しんでいるか、そして匿名性への配慮や安全確保のために事務所として最大限努力することなどを、時間をかけて丁寧に説明した。
「倉田さんのためだけではありません。
中野さんのような経験をされた方が声を上げることが、同じようなセクハラ行為をなくしていく力になるんです」
英里香の熱意のこもった言葉に、中野さんの表情がわずかに揺らいだ。
長い沈黙の後、彼女はため息をつきながら言った。
「……分かりました。先生の熱意は伝わりました。ただ、やはり法廷に立つのはまだ怖いです。……まずは、私の経験をまとめた陳述書、という形であれば、協力させていただけませんか?
尋問については……もう少し、考えさせてください」
完全な同意ではなかったが、これは大きな前進だった。
英里香は、中野さんの勇気に心から感謝し、まずは陳述書作成への協力を得ることに成功した。
そして、運命の証人尋問期日当日。
東京地方裁判所の廊下は、いつも以上に張り詰めた空気に満ちていた。
順番を待つ間、遥は隣に座る英里香の腕を無意識に掴み、その唇は緊張で真っ青になっていた。
「大丈夫、深呼吸して。何度も練習したじゃないですか。正直に、ありのままを話せばいいんです」
英里香は、努めて落ち着いた声で励ましたが、自身も掌に汗が滲むのを感じていた。
傍聴席には、心配そうに見守る橘弁護士とデジタル・フロンティア社の人事部長、そして、いつの間にか姿を現した御門所長の姿もあった。
彼の存在が英里香にわずかな安堵と、より一層の責任感をもたらした。
やがて名前が呼ばれ、遥は英里香に支えられるようにして立ち上がり、証言台へと向かった。
名前と住所を確認する裁判官の声にも、か細い声で答えるのがやっとだった。
主尋問は、会社側代理人の橘弁護士が行った。
(英里香は、遥の精神的負担を考慮し、より事務的な尋問に長けた橘弁護士に主尋問を依頼していた。)
「証人は、事件当日、原告・松永健司氏とどのような経緯で事業所へ行くことになったのですか?」
橘弁護士の穏やかな質問に導かれ、遥は少しずつ語り始めた。事件当日の営業活動、食事、事業所への誘い、二人きりになった状況、そして…松永の突然の豹変。
「仕事の相談をしていたら、急に…顔を掴まれて…息が、できませんでした…怖くて、頭が真っ白になって…」
その時の恐怖を生々しく語る遥の声は震え、何度も言葉に詰まった。
ハンカチで目元を押さえながら、事件後の不眠、食欲不振、フラッシュバック、そして医師からうつ状態と診断され、休職に至った経緯までを、懸命に、途切れ途切れに語り続けた。
法廷内は水を打ったように静まり返り、誰もが彼女の痛切な告白に息をのんで耳を傾けていた。
主尋問が終わり、空気は一変した。
松永側の代理人弁護士が、無表情のまま立ち上がり、冷徹な口調で反対尋問を開始したのだ。
「倉田さん、事件当日は、お酒を相当量、飲んでおられた。そうですね?」
「い、いえ…そんなには…」
「では、なぜ松永さんと二人きりで事業所に行くことに同意したのですか? 深夜ですよ?
下心があった、あるいは、そういう事態になることも予測していたのではないですか ?」
「ち、違います! 仕事の話だと… !」
「しかし、抵抗らしい抵抗は一切していない。
松永さんによると、むしろあなたの方から足を絡めてきた、と証言していますが ?」
「そ、そんなこと、絶対にありません !」
「キスされた後も、『もうやめてくださいね!』と、まるで冗談のような、軽い調子のLINEを送っていますね?
本当に嫌悪感を抱いていた人間の態度とは思えませんが ?」
矢継ぎ早に繰り出される、遥の記憶違いを誘ったり、あたかも彼女に非があったかのように印象付けたりする、悪意に満ちた質問。
典型的な二次加害だ。
遥は明らかに動揺し、顔面蒼白になり、反論しようとしても声がうまく出ない。
その瞬間、英里香が鋭く立ち上がった。
「異議あり! 質問は、証人の記憶の混同を誘うものであり不適切です!」
「異議あり! 質問は、証人の人格を不当におとしめる意図が明白です!」
「異議あり! 仮定に基づく質問であり、許されません!」
「異議あり! 本件との関連性が不明確な質問です!」
英里香の毅然とした声が、法廷に響き渡る。
裁判官は何度か英里香の異議を認め、松永側弁護士に注意を与えたが、弁護士は表情一つ変えず、執拗な尋問を続けた。
反対尋問が終わりに近づき、遥は心身ともに限界に達しているように見えた。
しかし、最後の力を振り絞るように、彼女は証言台のマイクに向かって、震えながらも、心の底からの叫びのような言葉を発した。
「私は……ただ……ただ、一生懸命、仕事を頑張りたかっただけなんです……!
それなのに……信じていた人に裏切られて……!
あの日のことを思い出すと、今でも、体が震えて……眠れない夜が続いて……。
私の失われた時間と、この心の傷を……どうしてくれるんですか……!
私はただ……! 安心して、普通に、働きたかっただけなんです……!」
遥の悲痛な声は、法廷の隅々にまで響き渡った。傍聴席からは、抑えきれない、複数のすすり泣きが漏れ聞こえてくる。
原告席の松永は気まずそうに顔を伏せ、彼の隣に立つ弁護士は、なおも無表情を装っている。
英里香は、遥の肩にそっと手を触れたい衝動をぐっとこらえた。
尋問はまだ終わってはいない。
だが、遥の勇気ある魂の叫びは、確実に法廷の空気を、そして裁判官の心証を動かし始めている。
英里香はそう確信し、次の展開を冷静に見据えた。
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