10 / 63
第三章:明日への序章
第9話 判決
しおりを挟む季節は梅雨の真っただ中に差しかかっていたが、その日は久しぶりに太陽が顔を覗かせ、湿気を含んだ空気が重く纏わりつくような蒸し暑い日だった。
東京地方裁判所では、「デジタル・フロンティア社 vs 松永健司 地位確認等請求事件」の最終弁論期日が開かれようとしていた。
英里香は、橘弁護士と共に最後の準備を整え、気を引き締めて法廷へと向かう。
傍聴席には、不安と期待の入り混じった表情で、倉田遥が静かに座っていた。
まず、被告である会社側の最終弁論。
橘弁護士が立ち上がり、これまでの審理経過を冷静に、しかし力強く総括した。
「原告・松永健司氏の行為は、部下である倉田遥氏の信頼を裏切り、その尊厳を著しく傷つけた悪質なセクシャルハラスメントであり、当社の就業規則に定める懲戒事由に明確に該当します。
原告の行為は、職場の秩序と風紀を著しく乱すものであり、当社が下した懲戒解雇処分は、断じて不当なものではありません」
続いて英里香が、橘弁護士の主張を補強する形で弁論を行った。
「本件審理において、倉田遥氏は、多大な精神的負担を乗り越え、勇気をもって真実を証言されました。
その証言は具体的かつ迫真性に富み、客観的な証拠であるL○NEメッセージや診断書とも整合しており、極めて高い信用性が認められます。
一方で、原告・松永氏の証言は、客観的証拠と矛盾する点が多く、自己に都合の良い弁解に終始しており、到底信用することはできません。
原告には反省の情も全く見られません。
これらの事実を総合すれば、本件懲戒解雇は社会通念に照らしても相当であり、有効であると結論付けるのが当然です」
英里香の声は、確信に満ちていた。
これまでの調査、証拠収集、そして遥の勇気ある証言…積み重ねてきた全てが、この結論を裏付けている。
次に、原告・松永側の最終弁論。松永側の代理人弁護士は、最後まで従来の主張を繰り返した。
「原告の行為に行き過ぎた点があったことは認めますが、倉田氏の態度に誤解を招く要素があったことも否定できません。
合意があったと原告が誤信した可能性も考慮されるべきです。
仮にセクハラ行為が認定されるとしても、勤続年数やこれまでの貢献度を鑑みれば、懲戒解雇という最も重い処分は酷であり、権利の濫用に他なりません」
情状酌量を求めるような言葉も並べられたが、これまでの審理で明らかになった事実の前では、その主張は空虚に響くばかりだった。
原告席の松永は、終始硬い表情で俯いていた。
双方の弁論が終わり、裁判官は静かに告げた。
「以上をもって、本件の弁論を終結します。判決は、令和X年(20XX年)5月29日、午後1時30分に、この法廷で言い渡します」
結審が宣言され、法廷内に一瞬の静寂が訪れた。判決まで、約一ヶ月。長い、そしておそらくは不安な日々が始まる。
判決までの日々は、英里香にとっても、そして何より遥にとっても、長く感じられた。
英里香は、週に一度は遥に連絡を取り、近況を尋ね、励ました。
遥は、少しずつではあるが、カウンセリングなども受けながら、前を向こうと努力している様子だった。
時折、「先生、もし、負けたらどうしよう…」と弱音を吐くこともあったが、その度に英里香は力づけた。
「大丈夫です。 私たちは、やるべきことは全てやりました。
法廷で真実を語った倉田さんの勇気は、決して無駄にはなりません。 あとは、裁判所の公正な判断を信じて待ちましょう」
そして、運命の判決当日、令和X年5月29日。
梅雨寒の小雨がぱらつく中、英里香は再び東京地裁の門をくぐった。
法廷には、前回以上の傍聴人が集まり、独特の緊張感が張り詰めていた。
英里香は、隣に座る遥の冷たくなった手をそっと握る。
遥は、深呼吸を繰り返しているが、その顔は蒼白だった。
橘弁護士も、固唾を飲んで裁判官の入廷を待っている。
被告席には、やつれたようにも見える松永が、弁護士と短い言葉を交わしていた。
傍聴席の最前列には、御門の姿もあった。
午後1時30分。廷吏の声が響き、全員が起立する。
黒い法服の裁判官が静かに入廷し、席に着いた。法廷内が静まり返る。
誰もが、裁判官の次の言葉を待っていた。
裁判官は、手元の判決書に目を落とし、厳かな声で主文を読み上げた。
「主文。原告の請求をいずれも棄却する」
短く、しかし決定的な宣告。
一瞬の沈黙の後、遥の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
声にならない嗚咽が漏れる。
隣に座る英里香も、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
全身の力が抜けるような安堵感と、困難な戦いを乗り越えた達成感。
思わず、遥の肩を抱き寄せそうになるのを、ぐっと堪えた。
橘弁護士と目が合い、互いに深く、静かに頷き合った。勝ったのだ。
裁判官は、続けて判決理由の要旨を説明し始めた。
「…原告の行為は、部下である倉田遥氏の信頼関係を一方的に破壊し、その人格権及び性的自由を著しく侵害する悪質なセクシャルハラスメント行為と認めるのが相当である。
…倉田遥氏の証言は、事件当時の状況や心理状態について具体的かつ詳細であり、その供述内容は極めて迫真性に富み、全体として信用することができる。
…これに対し、原告の証言は、客観的証拠であるL○NEメッセージの内容と明らかに矛盾する点が多く、自己に都合の良い弁解に終始しており、その信用性には重大な疑義があると言わざるを得ない。
…原告には、自らの行為に対する真摯な反省の情が窺われないこと、本件行為が倉田氏に与えた精神的苦痛の程度が極めて深刻であることなどを総合考慮すれば、被告会社が被告に対し行った懲戒解雇処分は、懲戒権の行使として客観的に合理的理由があり、社会通念上相当なものと認められ、権利の濫用にはあたらない…」
裁判所の判断は、英里香たちの主張を全面的に認めるものだった。
遥は、判決理由を聞きながら、何度も何度も頷き、とめどなく流れる涙をハンカチで拭っていた。
それは、苦しみと恐怖から解放された安堵の涙であり、自らの尊厳が守られたことへの喜びの涙でもあっただろう。
英里香は、その姿を見守りながら、この勝利は、何よりも遥自身の勇気がもたらしたものだと、改めて強く感じていた。
原告席の松永は、判決理由が読み上げられる間、顔面蒼白のまま、力なく項垂れていた。彼の隣に立つ弁護士は、険しい表情で判決書に目を落としている。
閉廷後、法廷の外は、安堵と祝福の空気に包まれた。
「先生…! 橘先生…! 本当に……本当に、ありがとうございました…!」
遥は、英里香と橘弁護士の前に進み出て、涙ながらに何度も頭を下げた。
「倉田さん、本当によく頑張りましたね。
これは、倉田さんの勇気が勝ち取った勝利ですよ」
英里香がそう言うと、遥はまた涙を溢れさせた。
そこへ、御門が近づいてきた。
「大江戸、橘先生、ご苦労だった。見事な戦いぶりだった」
御門は、いつもの厳しい表情を少しだけ緩め、労いの言葉をかけた。
英里香は、師からの言葉に、深く頭を下げた。
一つの長く、困難な戦いが、今、終わった。
降り続いていた小雨も、いつの間にか上がっている。
雲の切れ間からは、柔らかな日差しが差し込み始めていた。
それはまるで、遥と英里香の新たな門出を祝福しているかのようだった。
0
あなたにおすすめの小説
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる