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第三章:明日への序章
第10話 それぞれの新たな船出
しおりを挟む判決が言い渡された後、東京地方裁判所の前は、しばし安堵と祝福の空気に包まれていた。降り続いていた小雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から差し込んだ初夏の日差しが、濡れた路面をきらきらと照らしていた。
まるで、この瞬間を祝福するかのように。
「大江戸先生、橘先生、本当に、何度お礼を言っても足りません……!」
倉田遥は、まだ涙の跡が残る顔で、しかし晴れやかな笑顔を浮かべて、英里香と橘弁護士に深々と頭を下げた。
その表情には、長かった苦しみから解放された安堵と、未来への微かな希望が宿っていた。
「倉田さん、本当によく頑張りました。今日の勝利は、何よりも倉田さん自身の勇気がもたらしたものです」
英里香がそう言うと、遥はまた目頭を押さえた。
そこへ、裁判を見守っていた御門が、穏やかな表情で近づいてきた。
「大江戸、橘先生、ご苦労だった。見事な戦いぶりだったな」
そして、英里香に向かって、いつもの厳しい口調を少しだけ緩めて付け加えた。
「……特に、大江戸。 お前、少しは弁護士らしくなったじゃないか」
素直な褒め言葉ではないかもしれないが、英里香にとっては、どんな賛辞よりも嬉しい言葉だった。
師からの認められたという実感が、じわりと胸に広がっていく。
「ありがとうございます、所長」
英里香は、照れくささを隠すように、深く頭を下げた。
あの日から、数週間が過ぎた。
梅雨も明け、A市の街には本格的な夏の到来を告げる強い日差しが降り注いでいる。
英里香は、時折、倉田遥と連絡を取り合っていた。
遥は、判決後もカウンセリングを続けながら、少しずつ、しかし着実に心の回復への道を歩んでいた。
『先生、私、新しい仕事を探そうと思うんです』
ある日の電話で、遥がそう切り出した。その声には、以前のような怯えや不安はなく、確かな前向きな響きがあった。
『もう、過去のことに縛られてばかりいるのはやめようって。
今回の経験は辛かったけど、それを乗り越えたことを、これからの力にしたいんです』
英里香は、遥のその言葉に心から嬉しくなった。
「素晴らしい決意ですね、倉田さん。
何か私にできることがあれば、いつでも言ってください。
履歴書の書き方とか、面接対策とか、いくらでも相談に乗りますから」
「本当ですか!? 嬉しいです!」
それから遥は、英里香のアドバイスも受けながら、精力的に就職活動を開始した。
面接で、過去の経験について尋ねられることもあったというが、彼女はもう、卑屈になったり怯えたりすることはなかった。
毅然と、しかし誠実に事実を伝え、それを乗り越えて新しいスタートを切りたいという強い意志を示した。
そして、努力は実を結んだ。
判決から二ヶ月ほど経ったある日、英里香のスマートフォンに、遥からの弾むような声の電話がかかってきた。
『先生! 決まりました! 新しい会社、内定いただきました!』
「本当ですか!? おめでとうございます、倉田さん!」
英里香も、自分のことのように嬉しかった。電話の向こうで、遥が喜びのあまり少し涙ぐんでいるのが伝わってくる。
『ありがとうございます ! 先生のおかげです。これからは、新しい場所で、また一から頑張ります !』
その声は、希望に満ち溢れていた。
過去の傷が完全に消えたわけではないだろう。
それでも、彼女は力強く、新たな一歩を踏み出したのだ。
一方、英里香自身も、この事件を通して弁護士として大きな成長を遂げていた。
初めて担当した労働審判での悔しさ、そして遥の事件で味わった怒りや無力感、それでも諦めずに真実を追求し、依頼者に寄り添い続けた経験。
そのすべてが、彼女を精神的に強く、そして視野の広い弁護士へと変えていた。
仕事への取り組み方も、以前とは明らかに違っていた。
感情に流されることなく、常に冷静に状況を分析し、多角的な視点から戦略を立てる。
依頼者の言葉に真摯に耳を傾け、その心情を深く理解しようと努める。
御門も、そんな英里香の変化を認め、より複雑で重要な案件を彼女に任せるようになっていた。
「大江戸グループの令嬢」という色眼鏡で彼女を見る者は、少なくとも事務所内にはもういなかった。
彼女が自分の力で勝ち取った信頼と実績が、それを証明していたからだ。
そんなある日の午後、事務所にひょっこりと兄の嵐が顔を出した。
手には、近くの有名店のどら焼きの紙袋を提げている。 おそらく、口実だろう。
「よう。近くまで来たから、差し入れだ」
ぶっきらぼうに言いながら、嵐はどら焼きの袋を英里香のデスクに置いた。
「あら、珍しい。どういう風の吹き回し?」
英里香がからかうように言うと、嵐は少し照れたように視線をそらした。
「…別に。…こないだの裁判、勝ったんだってな。やるじゃないか、お前も」
その言葉は、兄からの素直な称賛だった。
「まあね。お兄ちゃんこそ、あの時の松永の情報、結構役に立ったわよ。ありがとう」
英里香も、素直に感謝の言葉を返した。
「…ふん。まあ、困ったことがあったら、いつでも…いや、たまには頼れよ。刑事の情報網も、捨てたもんじゃないぞ」
「はいはい。 その時は、遠慮なく協力要請させてもらうわ。どら焼き、ごちそうさま」
軽口を叩き合いながらも、二人の間には、以前のような刺々しい雰囲気はない。
互いの仕事や立場を認め合い、尊重し合える、そんな新しい関係が築かれ始めていた。
英里香は、もはや「大江戸グループの令嬢」という肩書に、過剰に反発することも、劣等感を抱くこともなくなっていた。
それは消し去ることのできない事実であり、時に重荷になることもあるかもしれない。
しかし、それ以上に、「弁護士・大江戸英里香」として自分の足で立ち、依頼者のために戦い、勝利を掴んだという経験が、彼女に揺るぎない自信を与えていた。
事務所の窓からは、夏の強い日差しを浴びて輝くA市の街並みが見渡せる。
英里香は、自分のデスクに山積みになった新しい事件のファイルに目を向けた。
それは、また別の誰かの苦しみや葛藤が詰まった、困難な案件かもしれない。
しかし、今の英里香の目には、不安の色はない。
むしろ、次なる挑戦への静かな意欲が宿っていた。
様々な人々との出会いと別れ、怒り、涙、そして喜び。数々の経験を経て、彼女は確かに成長した。
弁護士・大江戸英里香の戦いは、まだ始まったばかりだ。
理不尽に立ち向かい、傷ついた人々に寄り添い、真実の光を見つけ出すために。
彼女は今日も、依頼者のために、この街で奔走する。その先に、どんな未来が待っているのかは分からない。
それでも、彼女は進み続けるだろう。
確かな信念と、ささやかな希望を胸に抱いて。
英里香は、新しいファイルの一番上に手を伸ばし、その表紙をゆっくりと開いた。
窓の外では、夏の空がどこまでも青く広がっていた。
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