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第四章:虚構の断罪者
第18話 再審の扉
しおりを挟む降りしきる梅雨の雨が、東京高等裁判所の重厚な石造りの建物を濡らしていた。
その正面玄関に、英里香は師である御門武志、そして数名の協力弁護士と共に立っていた。
その手には、分厚い再審請求申立書の束が握られている。
長きにわたる調査と、多くの人々の協力によって掴み取った真実への扉を開くための鍵だ。
「行きましょう、先生」
御門の静かな声に促され、英里香は深く頷き、固い決意を胸に、裁判所の扉をくぐった。
申立書を提出した後、弁護団は裁判所近くの会見場で記者会見を開いた。
フラッシュが焚かれ、多くのマイクが向けられる中、英里香は毅然とした態度でマイクの前に立った。
「本日、私たちは、A市一家惨殺事件で死刑判決を受けた鈴木一郎氏について、東京高等裁判所に再審請求を申し立てました」
英里香は、まずそう切り出し、今回の再審請求に至った経緯と、新たに発見された証拠の概要を説明した。
「最新のDNA鑑定により、鈴木氏のものとされる衣類から、鈴木氏とは異なる第三者のDNA型が検出されました。
これは、事件現場に鈴木氏以外の人物が存在したことを示す、極めて重要な科学的証拠です。
加えて、事件当時、検察側に不利な証言をしたために、公式記録からその存在が抹消された可能性のある証人の協力を得ることができました。
さらに、当時の捜査や鑑定がいかに杜撰で、予断に満ちたものであったかを裏付ける複数の証言や資料も入手しております」
英里香の言葉は明瞭で、淀みない。
集まった記者たちから、驚きとどよめきの声が上がる。
「これらの新証拠は、鈴木一郎氏の無実を強く示唆するものです。
私たちは、裁判所に対し、速やかな再審開始決定と、検察庁に対し未だ開示されていない全ての捜査資料の開示を強く求めます。
30年という長きにわたり、無実の罪で苦しんできた一人の人間の尊厳と失われた司法の正義を取り戻すために、私たちは全力で戦います」
英里香の力強い宣言は、テレビやインターネットを通じて瞬く間に日本中に広まった。
長年忘れ去られかけていた事件が、再び大きな社会的な関心を集め始めたのだ。
SNSでは「#鈴木一郎再審請求」「#冤罪を許すな」といったハッシュタグが飛び交い、街頭では支援団体による署名活動が活発化するなど、再審開始を求める世論の声は、日増しに高まっていった。
しかし、検察庁の抵抗は予想以上に強硬だった。数日後、弁護団に送られてきた検察側の意見書には、新証拠に対する徹底的な反論が書き連ねられていた。
『DNA鑑定結果は、鑑定試料の汚染や鑑定手法の信頼性の問題から証拠価値は極めて低い』
『新たな証人とされる人物の記憶は、30年という歳月により著しく減退・変容しており、信用性に欠ける』
『弁護側の主張は、憶測と飛躍に基づいたものであり、確定判決を覆すに足る新証拠とは到底認められない』
それは、組織の体面を守るため、そして一度下された「正義」を維持するために、あらゆる理屈をこねて新証拠の価値を貶めようとする、検察の強い意志の表れだった。
「……やはり、一筋縄ではいかないわね」
意見書を読んだ英里香は、唇を噛みしめた。
後日、高裁の一室で、裁判官、弁護側、検察側による三者協議が開かれた。重々しい雰囲気の中、英里香は御門と共に弁護人席に座り、検察官と対峙した。
「裁判所におかれましては、まず検察庁に対し、未開示証拠の一覧表の提出、および、特にDNA鑑定に関連する当時の捜査記録、指紋鑑定記録などの速やかな開示を命じていただきたく存じます」
英里香は、まず証拠開示の必要性を訴えた。
これに対し、検察官は渋面を作りながら反論する。
「開示すべき証拠は、既に開示済みであると認識しております。
弁護側が要求する資料は、本件とは関連性が薄いか、あるいは存在しないものです」
「存在しない、と断言できるのですか ?
それならば、なぜ一覧表の提出すら拒むのですか ?
やはり、何か都合の悪いものを隠しているとしか思えません」
「憶測で物を言うのはやめていただきたい。
我々は法に基づき……」
英里香と検察官の間で、激しい応酬が繰り広げられる。
英里香は、あくまで冷静に、しかし一歩も引かずに、検察側の主張の矛盾点や不誠実さを指摘していく。
時には、隣に座る御門が長年の経験に基づいた的確な補足説明や法解釈を加え、英里香をサポートした。
裁判官は、双方の主張を注意深く聞きながら、時折鋭い質問を投げかけ、争点を整理していく。
その表情からは、まだどちらの主張に傾いているかは読み取れないが、少なくとも、弁護側の主張を真摯に受け止め、慎重に審理を進めようという姿勢は感じられた。
数時間に及んだ三者協議は、具体的な結論には至らなかったものの、裁判官は検察に対し、一部資料の再検討と証拠開示に関するさらなる意見書の提出を求める形で閉会した。
一進一退の攻防。
再審の扉は、まだ固く閉ざされたままだ。
協議を終え、裁判所を出た英里香の表情には、疲労と共に先の見えない戦いへの不安もかすかに滲んでいた。
その夜、英里香は鈴木トメ子さんの元を訪れていた。
連日の報道や、先の見えない状況にトメ子さんは心身ともに疲弊し、不安を隠せない様子だった。
「先生……本当に、一郎は…再審は、始まるんでしょうか……? もう、これ以上、希望を持っては裏切られるのは…辛すぎます……」
涙ながらに訴えるトメ子さんの手を英里香はそっと握った。
大丈夫です、と安易な言葉は言えない。
だが、諦めるわけにはいかない。
その時、部屋の隅で静かにお茶を飲んでいた人物が、すっくと立ち上がった。
潮来由利子だった。
彼女は、大江戸兄妹の育ての親代わりとして、そして今はトメ子さんの精神的な支えとして、時折この家を訪れていたのだ。
「トメ子さん、英里香。 弱気になってどうするのです」
由利子の声は静かだが、有無を言わせぬ迫力があった。
彼女はゆっくりと庭先に面した縁側に歩み出ると、スッと息を吸い込み、古武術「潮来圓明流」の流麗な型を一つ、披露した。
その動きは年齢を感じさせないほど鋭く、力強い。
まるで、そこだけ空気が変わったかのような凛とした気配が漂う。
「道が険しいのは、最初から分かっていたことでしょう。
壁が高いのなら、それを打ち破る力をつければいい。
光が見えないのなら、自ら光となればいい。
……迷うな。 信じた道を、ただ真っ直ぐに進みなさい。 あなたたちの後ろには、私たちがついている」
型を終えた由利子は振り返り、二人を真っ直ぐに見据えて言った。
その言葉と佇まいは、まさに「霊長類最強の女」と呼ばれるにふさわしい、圧倒的な存在感を放っていた。
(なぜか背後に龍の幻影が見えたような気がしたのは、英里香の気のせいだろうか… ?)
由利子の力強い激励にトメ子さんの目には再び力が宿り、英里香の心に迷いは消えた。
そうだ、弱気になっている暇はない。
やるべきことは、まだ山ほどある。
再審の扉は重く、厚い。
だが、決して開かない扉ではない。
多くの人々の思いと、集められた真実のかけらを力に変えて、必ずこじ開けてみせる。
英里香は雨上がりの夜空を見上げ、改めて強く心に誓うのだった。
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