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第五章:償いの天秤
第23話 一杯の代償
しおりを挟む初冬の冷たい空気が、都会のビル風となって御門法律事務所の窓を叩いていた。
所内は相変わらず堆く積まれた書類と、微かなインク、そして誰かが淹れたであろうコーヒーの香りで満たされている。
そんな午後の静寂を破ったのは、受付の内線電話だった。
「先生、予約はなかったんですが、新潟県からお越しになったという方が…中村誠さんと仰います。かなり、お辛そうなご様子ですが…」
事務の田所さんの少し心配そうな声に、英里香は眉をひそめた。
予約なしの来訪者は珍しくないが、「新潟県から」「辛そうな様子」という言葉が妙に引っかかる。
「分かりました。応接室にお通ししてください。すぐ行きます」
英里香が応接室のドアを開けると、そこには背広姿の初老の男性が、硬いソファに深く沈み込むように座っていた。
年は五十代後半だろうか。
白髪の混じった髪は少し乱れ、目元には深い隈ができている。
何より、その表情には長年積み重ねてきたであろう誠実さと、それを打ち砕かれたかのような深い絶望の色が滲んでいた。
「はじめまして。弁護士の大江戸英里香です。
どうぞ、お掛けになったままで」
英里香は努めて穏やかに声をかけ、男性の向かいに腰を下ろした。
男性は力なく顔を上げ、か細い声で名乗った。
「……中村…誠と、申します。
突然、申し訳ありません…先生のお名前は、知人から伺いまして…藁にもすがる思いで、参りました」
その声は震え、言葉の端々から疲労と後悔が伝わってくる。
英里香が温かいお茶を勧めると、中村は震える手で湯呑みを受け取り、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私は……長年、新潟県の公立高校で、教員をしておりました。30年と、2ヶ月…」
彼の脳裏には、教え子たちの顔や、部活動に汗を流した日々が去来しているのだろうか。
わずかに遠い目をした後、彼は再び俯き、核心へと話を移した。
「……去年の春……職場の、歓迎会の帰りに……」
それは、中村にとって悪夢のような一夜だった。 居酒屋でのビール一杯と日本酒三合、二次会の居酒屋での中ジョッキ一杯。「大丈夫だろう」という、今となってはあまりにも甘い、そして致命的な判断。
約20キロ離れた自宅へ車を走らせた直後、信号のない丁字路で、優先道路から来た車と接触事故を起こしてしまった。
「幸い、お相手の方にも、私にも怪我はありませんでした。
ですが……駆けつけた警察官の呼気検査で……基準値を超えるアルコールが検出され……その場で、逮捕されました」
その後、罰金35万円の略式命令を受けた。
しかし、本当の罰はそこから始まったのだという。
「弁護士の先生からは、初犯だし物損事故だから、免職はないだろうと…そう言われていたんです。 なのに……新潟県教育委員会から届いたのは……『懲戒免職』の通知でした」
それだけではない。 中村の表情が、さらに深く歪んだ。
「そして……退職金も……30年以上、真面目に勤めてきた……その、退職金も……全額、不支給だと……1720万円、全てです……」
絞り出すような声だった。
彼の目からは、堪えきれない涙が静かに流れ落ちた。 老後のための大切な資金、そして何より、長年捧げてきた教員生活の証とも言える退職金。
それを、たった一度の過ちで全て失ったのだ。
「……自分のしたことは、決して許されることではありません。
深く、深く反省しております。ですが……ですが、この処分は……あまりにも、重すぎるのではないでしょうか……?
これでは、もう……生きていく希望も……」
中村の話を聞き終え、英里香は言葉を失った。
飲酒運転。 それは、多くの悲劇を生む可能性のある、絶対に許されない行為だ。
弁護士として、それを擁護するつもりは毛頭ない。
しかし、目の前にいるのは、長年教育現場に身を捧げ、今は深い後悔の念に苛まれている一人の人間だ。
彼が犯した過ちは大きい。
だが、その代償として、これまでの人生の積み重ねと未来の生活基盤の全てを奪うことが、果たして「正義」なのだろうか?
(飲酒運転は、絶対にダメ。それは大前提。でも、懲戒免職に加えて、退職金まで全額不支給… ? 過去の功績や反省の情は、全く考慮されないの…… ?)
英里香の胸の中で、法を守るべき弁護士としての立場と、目の前の依頼者の苦悩に寄り添いたいという気持ちが激しく揺れ動いていた。
その時、静かに話を聞いていた所長の御門が、口を開いた。
「中村さん、お辛い状況、お察しします」
御門は中村を労いつつも、冷静な口調で続けた。
「法的に争点となるのは、懲戒処分の相当性、特に退職金不支給という処置が、裁量権の範囲を逸脱・濫用していないか、という点でしょう。しかし……」
御門は一旦言葉を切り、厳しい現実を指摘した。
「近年、飲酒運転に対する社会的非難は非常に高まっています。
行政も厳罰化の傾向にあり、特に教育者という立場であれば、より厳しい目が向けられることは覚悟しなければならない。
裁判所も、そうした社会情勢を無視することはできません。
相当性、という一見曖昧な基準の中で、司法がどのような判断を下すか……これは、非常に難しい事件になるでしょう」
御門の言葉は安易な同情を許さない、現実的な重みを持っていた。
英里香は、御門と中村の顔を交互に見つめた。
そして、腹を括った。
「中村さん」
英里香の声には、迷いを振り払ったような力がこもっていた。
「先生が犯した過ちは、決して軽いものではありません。
それは、まずご理解いただかなければなりません。
ですが、その上で、今回の退職金全額不支給という処分が本当に妥当なのか、私も疑問を感じます」
英里香は真っ直ぐに中村を見据え……告げた。
「非常に困難な戦いになることは覚悟しています。
それでも、もし先生が戦うと決めたのなら…この事件、私に任せていただけませんか?
先生が30年間積み上げてきたものが、たった一度の過ちで全て無に帰してしまう……そんな理不尽を、法廷で問い質したい。
先生の失った信頼と未来を取り戻すため、全力でサポートさせていただきます」
英里香の力強い言葉に、中村の目に微かな光が宿った。
それは、絶望の淵でようやく見つけた、小さな希望の光かもしれない。
「…先生……ありがとう、ございます……! どうか……どうか、よろしくお願いいたします……!」
中村は、何度も何度も頭を下げた。
その日の夕方、英里香は事務所で一人、事件の資料を読み込んでいた。 早速、兄の嵐に電話をかける。
「もしもし、お兄ちゃん ?
ちょっと聞きたいんだけど、公務員の飲酒運転の処分って、最近どうなってるの ?」
『あ ? なんだ藪から棒に…って、まさかお前、飲酒運転の弁護でもする気か !?
英里香、言っとくがな、飲酒運転は絶対に許されることじゃねえぞ ! どれだけの人が……』
「分かってるわよ ! 事情があるの ! ちょっと調べて教えてちょうだい !」
『……たく、しょうがねえな…。
まあ、刑事としては、擁護する気には全くなれんがな !』
電話を切った英里香は、深い溜息をついた。
やはり、兄とは意見が合わない。
この先も、嵐との間で意見の衝突があるかもしれない。
そんな英里香の背後から、ひょっこりと顔を出したのは、玉井刑事だった。
手にはなぜか、コンビニの袋を持っている。
「あ、あの、大江戸先生! お疲れではないですか ?
差し入れに、この、巷で噂のプレミアムあんぱんなんですが…糖分補給にでも…」
「…結構です。今、取り込み中なので」
英里香は資料から目を離さずに、ピシャリと断る。
玉井刑事は「そ、そうですか…」と肩を落とし、すごすごと退散していった。
(…やれやれ……)
前途多難な予感。
英里香は気を引き締め直し、再び中村誠の事件ファイルに向き直った。
一杯の酒が招いた、あまりにも大きな代償。
その重さと向き合う長く厳しい戦いが、今、始まろうとしていた。
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