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第五章:償いの天秤
第27話 高裁の壁
しおりを挟む冬の厳しい寒さが、首都東京の喧騒を包み込んでいた。
東京高等裁判所の荘厳な建物は、その寒さの中で一層重々しく、訪れる者に威圧感を与える。英里香は、コートの襟を立て、隣を歩く中村誠に声をかけた。
「中村さん、いよいよ高裁の第一回期日ですね。地裁とは雰囲気が違うかもしれませんが、やることは同じです。
私たちの主張を、堂々と伝えましょう」
「…はい。先生、よろしくお願いします」
中村の声は小さく、表情も硬い。
地裁での一部勝訴という僅かな光も、県の控訴という現実の前に、再びかき消されそうになっている。
彼の心労は察するに余りある。
法廷内は、地裁よりもさらに厳粛な空気に満ちていた。
高い天井、使い込まれた調度品、そして正面に座る三人の裁判官。
その視線は鋭く、英里香は自然と背筋が伸びるのを感じた。
新潟県側の代理人も、地裁とは別の、より老獪そうな弁護士に代わっている。県の本気度がうかがえた。
控訴審の口頭弁論が始まった。
まず、県側の代理人が立ち上がり、地裁判決を痛烈に批判した。
「第一審判決は、飲酒運転という行為の悪質性、及びそれが教育現場に与える深刻な影響を著しく軽視したものであり、到底容認できません。
飲酒運転根絶は、新潟県民全体の悲願であり、社会的な要請であります…… にも関わらず、事前に厳格対応を通達していた教職員の行為に対し、安易に退職金の一部支給を認めることは、県の取り組みを骨抜きにし、他の教職員への示しがつきません。
他の都道府県においても、同様の事案でより厳しい処分が下されている例は多数存在します!」
代理人は、いくつかの判例を挙げ、処分の正当性を滔々と述べ立てた。
その主張は、個人の事情よりも組織の論理と社会的な規範を優先するものだった。
次に英里香が反論に立った。
「控訴人の主張は、形式的な厳罰化に終始し、本件の個別具体的な事情を全く考慮していません。 第一審判決が認定した通り、被控訴人・中村誠は、30年以上にわたり教育現場に貢献し、生徒・同僚から厚い信頼を得てきました。
本件事故は物損にとどまり、被控訴人は深く反省しております。これらの事実を総合的に評価すれば、退職金の全額不支給という処分が、著しく均衡を欠き、過酷であることは明らかです。
他の公務員の処分事例と比較しても、本件処分が突出して重いことは、第一審で提出した証拠が示しております。
処分の公平性の観点からも、第一審判決は維持されるべきです」
英里香は、地裁での主張を軸に、さらに裁量権の逸脱・濫用に関する法的論点を補強し、冷静に、しかし毅然と反論した。
英里香は、この日のために準備した新たな書証も提出した。
それは、明日菜の紹介で意見を求めた、労働法や行政法を専門とする著名な大学教授による意見書だった。
懲戒処分の相当性を判断する上で、いかに個別事情の考慮が重要であるか、判例や学説を引用しながら詳細に論じられており、英里香の主張を学術的な見地からも裏付けるものだった。
高裁での審理は、数回の期日を経て、長期化の様相を見せ始めた。
新潟県側は執拗に地裁判決の不当性を主張し、英里香は粘り強く反論を続ける。
その間にも、中村の心は少しずつ擦り減っていった。
ある期日の後、中村は弱々しく英里香に訴えた。
「先生……もう、これ以上は……。私のせいで、先生にも多大なご迷惑を……。もう、諦めた方が、いいのかもしれません……。新潟県には、逆らえないのかもしれない……」
その目には、かつての光が消えかかっていた。
「中村さん!」英里香は思わず声を荒らげた。
「何を弱気なことを言っているんですか !
ここで諦めたら、それこそ新潟県側の思う壺ですよ !
私たちは間違ったことを主張しているわけじゃない。
法廷で、正々堂々と戦っているんです。
もう少しです。判決まで、どうか心を強く持ってください !」
英里香の叱咤に、中村はハッとしたように顔を上げた。
その強い眼差しに、彼は再び奮い立つ力を得たようだった。
ある日の午後、東京の事務所で高裁に提出する準備書面を作成していた英里香は、少し煮詰まっていた。
そんな時、ふと、巧の恋人であるジャンヌからもらったアロマオイルのことを思い出した。
「集中力を高め、心を落ち着かせる効果があるかもしれませんわ」と、優しい笑顔で渡してくれたものだ。
英里香は、デスクの隅に置いてあったアロマディフューザーに、数滴オイルを垂らしてみた。
ラベンダーと柑橘系の爽やかな香りが、ふわりと漂う。
(…うん、少しリラックスできるかも…)
英里香が深呼吸した、まさにその瞬間だった。
「むはー ! なんじゃこの魅惑的な香りはー!? 脳が覚醒する感じがするのじゃー !」
事務所のドアが勢いよく開き、潮来由利凛が目を輝かせながら飛び込んできた。
相変わらずのフリル付き白衣姿だ。
「英里香ちゃん!この香りの秘密を教えるのじゃ ! 妾の新発明『超記憶定着ブレインブースター』に、この香りの成分を加えれば、ノーベル賞は間違いなしじゃ!」
言うが早いか、由利凛はディフューザーに駆け寄り、怪しげなスポイトを取り出してオイルを吸い取ろうとする。
「こら!由利凛!何するのよ!
それは人からもらった大切な…あっ!」
英里香が止めようとした拍子に、ディフューザーが倒れ、オイルが由利凛の白衣にかかってしまった。
「あわわわ!妾の白衣がラベンダーの香りに !
これでは学会で笑いものじゃ !」
「自業自得でしょ !」
結局、事務所内はアロマの香りと、由利凛の奇妙な悲鳴と、英里香の怒声で満たされることになった。
(…本当に、あの子がいると落ち着かないんだから…)
由利凛をなんとか追い出し、英里香は再び書面に向き直った。
くだらない騒動だったが、なぜか少しだけ気分が晴れたような気もする。
ジャンヌの優しさと、由利凛の破天荒さが、知らず知らずのうちに英里香の心を支えているのかもしれない。
高裁での審理は、いよいよ大詰めを迎えていた。 新潟県側の主張は平行線を辿り、英里香たちも反論を尽くした。
あとは、裁判所の判断を待つばかりだ。地裁判決は維持されるのか、それとも覆されるのか。
もし覆された場合、戦いの舞台は最高裁へと移ることになるだろう。
英里香は窓の外を見やった。
東京の空は、冬の鉛色の雲に覆われている。
だが、その雲の切れ間から、いつか必ず光は差すはずだ。
英里香は気を引き締め、来るべき判決の日に備えるのだった。
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