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第五章:償いの天秤
第26話 僅かな光、再び影
しおりを挟む木枯らしが吹き始め、空気が冬の色を帯び始めた頃、中村誠の運命を左右する判決の日が訪れた。
新潟地方裁判所の法廷には、前回を上回る傍聴者が詰めかけ、固唾を飲んで裁判官の入廷を待っていた。
英里香は弁護人席で、隣に座る中村の強張った肩に気づき、小さく声をかけた。
「中村さん、深呼吸してください。どんな結果が出ても、私たちがついています」
「……先生……」
中村はかすかに頷いたが、その顔からは血の気が引いていた。
30年以上の教師生活、そしてその後の苦悩の日々が、この一瞬に凝縮されているかのようだ。
やがて、廷吏の声と共に裁判官が入廷し、法廷は静寂に包まれた。
裁判長はゆっくりと判決書を開き、主文を読み上げた。
「主文。被告(新潟県)は、原告(中村誠)に対し、金517万円及びこれに対する…(訴状送達の日の翌日から支払い済みまで年3分の割合による金員)…を支払え。原告のその余の請求を棄却する」
一瞬の沈黙。 そして、意味を理解した中村の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
嗚咽が漏れる。
完全勝訴ではない。 懲戒免職そのものは覆らなかった。
しかし、退職金全額不支給という最も過酷な処分は覆り、その一部(判決文から逆算すれば約3割)を取り戻すことができたのだ。
「……よかった……本当によかった……!」
傍聴席の最前列で、中村の妻がハンカチで目頭を押さえ、隣の元同僚と肩を叩き合っている。
英里香もまた、胸の奥から込み上げてくる安堵感に深く息をついた。
全額支給とはならなかったものの、裁判所が処分の過酷さを認め、裁量権の濫用を認定した意義は大きい。
何より、中村が僅かでも報われたことが嬉しかった。
裁判長は続けて、判決理由の要旨を述べ始めた。
「…原告の飲酒運転行為は、公務員、とりわけ教育者として県民の信頼を著しく損なうものであり、懲戒免職処分はやむを得ないものと認める。 しかしながら、退職金は長年の勤続に対する功労報奨及び老後の生活保障という性格をも有するものであるところ、原告の30年以上にわたる誠実な勤務態度、本件事故が物損にとどまったこと、深く反省していることなどを総合考慮すれば、これを全額不支給とすることは、他の非違行為に対する処分との均衡を著しく欠き、社会通念上相当性を欠くと言わざるを得ず、被告に与えられた裁量権の範囲を逸脱・濫用したものとして違法である…」
裁判所の判断は、飲酒運転への厳しい姿勢を示しつつも、個別の事情を考慮し、一定のバランスを取ったものだった。
閉廷後、裁判所の廊下は安堵と祝福の空気に包まれた。
「先生! 本当に、ありがとうございました…! 私のような者のために…」
中村は、何度も何度も英里香に頭を下げる。
「中村さん、本当によく頑張りました。
これは、中村さん自身の誠実さが勝ち取った結果ですよ」
英里香は、その手をしっかりと握り返した。支援者たちも駆け寄り、中村の肩を叩き、涙ながらに労をねぎらっている。
事務所に戻ると、電話が鳴った。以前の依頼者、鈴木一郎の母・トメ子さんからだった。
ニュースで判決を知り、お祝いを言いたかったのだという。
『先生、よかったねぇ…!
中村さんにも、よろしくお伝えくださいな。諦めないで、本当によかった…』
トメ子さんの温かい言葉に、英里香の胸も熱くなる。様々な事件を通して繋がっていく縁を感じた。
しかし、安堵の時間は長くは続かなかった。
数日後、英里香の元に届いたのは、県側が高裁判決を不服として、東京高等裁判所に控訴したという通知だった。
「…控訴……ですか……?」
知らせを聞いた中村の声は、再び力を失っていた。
せっかく掴んだ僅かな光が、また厚い雲に覆われようとしている。
「どうして…裁判所が認めてくれたのに……もう、私は許されないのでしょうか……」
長引く戦いに、彼の心は限界に近いのかもしれない。
英里香は、中村の落胆を痛いほど感じながらも、強い口調で言った。
「中村さん、ここで気持ちを切らしてはいけません!
新潟県側が控訴してくることは、ある程度予想していました。
彼らには彼らの立場と、譲れない一線があるのでしょう。
ですが、地裁が私たちの主張を認めた事実は大きい。
高裁でも気を引き締めて、もう一度しっかり主張しましょう。
大丈夫、私たちはまだ負けていません!」
英里香の瞳には、再び闘志が宿っていた。このまま終わらせるわけにはいかない。
その日の夕方、事務所で高裁への準備を始めようとしていた英里香の元へ、一人の訪問者が現れた。
玉井刑事だった。 手には、少し気恥ずかしそうに小さな花束を抱えている。
「あ、あの、大江戸先生! 地裁判決、ニュースで見ました! さすがです! 先生の正義感と弁護士としての手腕には、いつも感服しておりまして…!
つきましては、ささやかながら祝勝会など、いかがかな、と…」
玉井刑事は、頬を赤らめながら、しどろもどろに言う。
英里香は、山積みの資料から顔を上げ、大きな溜息をついた。
「…玉井刑事。お気持ちはありがたいですけど、見ての通り、それどころじゃないんです。
戦いはまだ始まったばかりなので」
ピシャリ、とまではいかないまでも、やんわりと、しかしきっぱりと断る。
「そ、そうですか…! すみません、お邪魔しました! では、応援しています!」
玉井刑事は、敬礼だけはビシッと決め、少し寂しそうに事務所を後にした。
(…ほんっと、タイミングが悪いんだから…)
英里香は苦笑しつつも、すぐに表情を引き締めた。
高裁での戦いは、さらに厳しいものになるかもしれない。
新潟県の抵抗はより強固になるだろう。
だが、一度は掴んだ光だ。それを再び手放すわけにはいかない。
英里香はペンを握り直し、控訴理由書の分析に取り掛かった。
法廷の天秤は、まだ揺れ続けている。
その針を再び、そして今度こそ決定的に「正義」の側へと傾けるために、彼女の新たな戦いが始まろうとしていた。
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