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第五章:償いの天秤
第25話 法廷の天秤
しおりを挟む木々の葉が色づき始めた新潟地方裁判所。
その日、第3号法廷の前には、朝から傍聴希望者の列ができていた。
元高校教師、中村誠の退職金不支給処分取り消しを求める裁判の第一回口頭弁論期日が開かれるのだ。
「一度の過ち」に対する処分の妥当性を問うこの裁判は、地元メディアでも小さく報じられ、静かな関心を集めていた。
開廷時刻が近づき、英里香はやや緊張した面持ちの中村と共に法廷へ向かう。
「中村さん、大丈夫ですか? 落ち着いて、正直に話せばいいんです」
「…はい。先生、よろしくお願いします」
中村の声はまだ硬いが、英里香の言葉に小さく頷いた。その目には、諦めだけではない、自分の人生を取り戻そうとする意志の光がわずかに見えた。
法廷内は、傍聴席の半分ほどが埋まっていた。
最前列には中村の妻と、支援を申し出てくれた元同僚たちの姿が見える。
英里香は弁護人席に着き、隣の中村に目配せをして、正面の裁判官席を見据えた。
対面の席には、県の代理人である、いかにも堅物そうな男性弁護士が座り、分厚いファイルを広げている。
やがて、黒い法服に身を包んだ裁判官が入廷し、開廷が宣言された。
ピンと張り詰めた空気の中、まず英里香が立ち上がり、冒頭陳述を始めた。
「原告代理人の大江戸です。
本件で我々が争うのは、原告・中村誠に対する懲戒免職処分の効力そのものではありません。
原告は、自らの犯した飲酒運転という過ちを深く反省しております。
しかし、それに伴う退職金の全額不支給という処分は、原告の長年にわたる誠実な勤務実績、深い反省の情、そして事故の態様等に照らし、著しく妥当性を欠き、被告である新潟県に与えられた裁量権の範囲を逸脱・濫用するものであり、違法であると主張いたします」
英里香は、落ち着いた、しかし力強い口調で、争点を明確にした。
続いて、県側の代理人が反論に立つ。
「被告代理人です。原告の行為は、生徒・保護者及び県民の教育行政に対する信頼を著しく失墜させるものであり、断じて許されるものではありません。
特に、被告(新潟県)においては飲酒運転根絶に向けた取り組みを強化し、全教職員に対し厳格な対応を行う旨を通達していたにも関わらず、原告はこれを無視した。
教育者としての適格性を欠くと言わざるを得ず、懲戒免職及び退職金の全額不支給という処分は、社会通念に照らし相当なものであります」
双方の主張が出揃い、証拠調べへと移った。
まず、証言台に立ったのは、中村の元同僚だったベテラン教師だ。
「中村先生は、まさに『教師の鑑』のような方でした。どんな生徒にも分け隔てなく接し、休日返上で部活動の指導にあたり…彼ほど生徒のことを考えていた教師を、私は他に知りません」
次に、成人した元教え子の一人が証言した。
「私は高校時代、少し道を踏み外しそうになった時期がありました。でも、中村先生だけは、最後まで私を見捨てずに、何度も話を聞いてくれました。先生がいなければ、今の私はいません」
彼らの証言は、中村が築き上げてきた「誠実さ」を裏付けるものだった。英里香は、これらの証言が裁判官の心証に響くことを期待した。
そして、中村本人が証言台に立った。彼はまず、深く頭を下げ、謝罪の言葉を述べた。
「この度は、私の軽率な行動により、多くの方々にご迷惑とご心配をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。教育者として、決してあってはならない過ちを犯しました。毎日、後悔と反省の念に苛まれております」
声は震え、目には涙が浮かんでいた。英里香は、事前に打ち合わせた通り、彼の教育への思いを引き出す質問を重ねた。
「先生が30年間、教員として最も大切にしてきたことは何ですか?」
「…それは…どんな生徒の中にもある、可能性の芽を信じ、それを伸ばす手伝いをすること…です。勉強ができる子も、そうでない子も、スポーツが得意な子も、苦手な子も…みんな、かけがえのない存在ですから…」
言葉は途切れがちだったが、そこには偽りのない教育への情熱が感じられた。しかし、県側代理人の反対尋問は厳しかった。
「あなたは、飲酒運転の危険性を十分認識していたはずですね ?
新潟県の通達も読んでいたはずです。
それでも飲酒運転をした。それはなぜですか?」
「……本当に、どうかしていたとしか…申し訳ありません……」
「反省していると言うが、それは職や退職金を失ったからではないのですか ?」
厳しい追及に、中村は言葉を詰まらせ、ただ「申し訳ありません」と繰り返すしかなかった。
次に英里香は、書証として、中村の過去の表彰歴や勤務評価、そして巧が作成した経済状況シミュレーションデータを提出した。
「裁判官にご覧いただきたいのは、こちらの資料です。
これは、原告が退職金を全額失った場合、65歳以降の生活がいかに困窮するかを示したものです。 基礎年金だけでは、最低限の文化的な生活を送ることすら困難になります。
退職金は、単なる褒賞ではなく、老後の生活保障という重要な意味合いも持っています。
それを全額不支給とすることは、原告から生存の基盤そのものを奪いかねない、あまりにも過酷な処分と言わざるを得ません」
客観的なデータが、処分の重さを浮き彫りにする。
裁判官も、神妙な顔で資料に目を通していた。
その時だった。傍聴席の一角で、なにやらゴソゴソと奇妙な動きがあった。
見ると、潮来由利凛が、銀色に光るヘルメットのようなものを取り出し、隣に座る嵐(非番で傍聴に来ていた)に被せようとしているではないか !
「ちょ、やめろ由利凛! なんだこれ!?」
「静粛に!」廷吏が鋭く注意する。
「これは『全自動反省測定器・改』じゃ! 嵐兄ちゃんの脳波から反省度を…いや、こっちじゃなくて、あの証言台の…むぐっ」
嵐が慌てて由利凛の口を塞ぎ、係員に促されて二人はそそくさと退席させられた。
(…まったく、あの子はどこでも騒ぎを起こすんだから…)
英里香は内心で大きな溜息をついたが、気を取り直して裁判官に向き直った。
幸い、裁判官は由利凛の奇行には気づかなかったようだ。
一通りの証拠調べが終わり、裁判官は次回の期日を指定し、閉廷を告げた。
法廷を出ると、中村はどっと疲れた様子で椅子に座り込んだ。
「先生…私、ちゃんと話せていたでしょうか…」
「大丈夫ですよ。 中村さんの誠実さ、反省の気持ちは、きっと伝わったはずです」
英里香はそう励ましたが、県側の強硬な姿勢と、裁判官の読めない表情に、一抹の不安も感じていた。
法廷という天秤の上で、中村の30年の功績と反省、そして一度の過ちが、どのように計られるのか。
判決の日まで、英里香と中村は、固唾を飲んでその時を待つことになった。
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