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第五章:償いの天秤
第30話 灰色の決着
しおりを挟む最高裁判決から数日が過ぎた。
東京の御門法律事務所には、まだ重い空気が漂っていた。
応接スペースのソファには、最高裁での敗訴という厳しい現実を受け止めきれずにいる中村誠が、力なく座っていた。
あの日以来、彼はほとんど言葉を発さず、ただ虚空を見つめている時間が多かった。
英里香もまた、深い無力感に苛まれていた。
積み上げてきた証拠、揺るぎないはずだった法理、そして依頼者の人生。
その全てが、最高裁の壁の前に砕け散った。
自分の弁護は、何が足りなかったのか。
どうすれば、違う結果を導けたのか。
答えの出ない問いが、頭の中を巡る。
「……もう、終わりなんですね……先生」
中村が、かすれた声でぽつりと呟いた。
「30年間の教員生活も、退職金も、そして…私の人生も……全て、あの日の、たった一杯の酒で……」
その目には、涙さえ浮かんでいない。
あまりの絶望に、感情さえも枯渇してしまったかのようだ。
英里香は、かける言葉が見つからなかった。
どんな慰めも、今の彼には空虚に響くだけだろう。
法廷では毅然と戦えた。
だが、法が救えなかった依頼者を前に、弁護士として何ができるというのか。
「……大江戸先生」
静かな声に振り返ると、御門所長がコーヒーカップを二つ持って立っていた。
一つを英里香に、もう一つを中村に差し出す。
「中村さん、今は辛いでしょう。
しかし、法的な決着がついたからといって、あなたの人生が終わったわけではありません」
御門は静かに、しかし確かな重みのある声で語りかけた。
そして、英里香に向き直る。
「大江戸先生、今回の判決は厳しいものだった。だが、これもまた『法』の一つの姿だ。
法は万能ではない。
時には社会の空気や時代の要請に左右され、必ずしも個人の心情に寄り添えるとは限らない。
我々弁護士は、その限界を知りながらも、法の下で最善を尽くすしかない」
御門の目は、英里香の心の揺らぎを見透かすように、厳しくも温かい光を宿していた。
「今回の敗北から、何を学び、次にどう繋げるか。
それが、君の弁護士としての真価が問われるところだぞ」
その言葉は、英里香の胸に深く突き刺さった。
そうだ、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
その日から、兄姉たちが代わる代わる英里香の様子を見に来たり、連絡をくれたりした。
『おい英里香、落ち込んでる暇があったらメシ行くぞ!奢ってやる!』
という嵐からの不器用な励まし。
『今回の判決に関する学術的な考察レポートを送っておいたよ。今後の参考に』
という巧らしい冷静なサポート。
『何か必要なものがあれば、いつでもグループのリソースを使う準備はできているわ。
遠慮なく言いなさい』
という明日菜の頼もしい言葉。
彼らの存在が、沈んだ英里香の心を少しずつ温めてくれた。
そんな中、玉井刑事も心配して事務所を訪れた。
「だ、大江戸先生! あの…その、大変でしたね! 先生は最後まで立派に戦われました!
元気を出してください!
よろしければ、気分転換に美味しいと評判のケーキ屋さんでも…」
「…玉井刑事、お気持ちは嬉しいですが、今はそっとしておいていただけますか」
英里香は、さすがに疲れた表情で彼を追い返した。
そして、数日後の午後。事務所のドアが、いつものようにけたたましい音を立てて開かれた。
「英里香ちゃーん! 暗い顔は似合わんぞ!
こんな時は、無理やりにでも笑顔になるのが一番じゃ!」
現れたのは、やはりこの人、潮来由利凛だった。手には、奇妙なヘッドギアのようなものが握られている。
「これは妾の新発明、『スマイル強制ギプス・ハッピーメーカー』じゃ!
これを装着すれば、どんなしかめっ面も、たちまち満面の笑顔に!
さあ、まずは英里香ちゃんから…」
「いらないわよ! そんなもので笑顔になっても虚しいだけでしょ!」
英里香が拒否すると、由利凛はターゲットをソファに座る中村に向けた。
「ならば、そこのおっちゃ…いや、おじ様!
あなたからハッピーにしてしんぜよう!」
「ひっ!?」
中村が怯えたように後ずさる。
「由利凛、やめなさい!」
英里香が止めに入る。
「何を言うか! 笑う門には福来るのじゃ!」
「そういう問題じゃないでしょ!」
いつものように、事務所はドタバタ騒ぎになった。
御門所長はやれやれと額を押さえ、事務の田所さんは慣れた様子でお茶の準備をしている。
もみ合いになる中で、英里香は思わず吹き出してしまった。
目の前の光景があまりにも馬鹿馬鹿しくて、そして、なぜか少しだけ救われた気がしたのだ。
「…ふふっ…あはは!」
突然笑い出した英里香に、由利凛も中村も、そして御門までもが目を丸くしている。
「な、なんじゃ英里香ちゃん、ついに壊れたか!?」
「…違うわよ。…ありがとう、由利凛。
少し、元気が出た」
英里香は、涙を拭いながら言った。
その様子を見て、中村の表情もわずかに和らいだように見えた。
騒動が収まった後、英里香は改めて中村に向き直った。
「中村さん。法的な決着はついてしまいましたが、先生の人生は、ここで終わりじゃありません。
先生が30年間、生徒たちに愛情を注いできた事実は、決して消えません。
これからの生活のこと、何か私にできることがあれば、弁護士としてではなく、一人の人間として、いつでも力になります。
ですから…どうか、前を向いてください」
英里香の真摯な言葉に、中村はゆっくりと、しかし確かに頷いた。
中村が帰った後、英里香は一人、事務所の窓から夕暮れの東京の街並みを見下ろした。
敗北の痛みはまだ残っている。
法の限界も痛感した。
しかし、御門の言葉、仲間たちの支え、そして由利凛の起こした騒動が、彼女の中に新たな決意を灯していた。
(法は万能じゃない。でも、無力でもない。救える人もいれば、救えない人もいる。それでも、私は弁護士として、目の前の依頼者のために、諦めずに戦い続けるしかない。この敗北を、必ず次に繋げる…!)
理不尽に立ち向かい、傷ついた人々に寄り添い、真実の光を探し続ける。
その道は険しく、時に報われないこともあるだろう。
それでも、彼女は進む。確かな信念と、ささやかな希望を胸に。
その時、デスクの電話が鳴った。
新しい依頼を告げる音だ。
英里香は深呼吸を一つすると、受話器を取った。 その声には、もう迷いはなかった。
「はい、御門法律事務所、大江戸が承ります」
窓の外では、都会の灯りがきらめき始めていた。
弁護士・大江戸英里香の新たな戦いは、もう始まっている。
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