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第五章:償いの天秤
第29話 正義の行方
しおりを挟む霞が関にそびえ立つ、白亜の殿堂、最高裁判所。
その大法廷は、日本の司法の頂点にふさわしい荘厳さと、息を呑むような静寂に満ちていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアが鈍い光を放ち、壁に飾られた法曹界の先人たちの肖像画が、これから行われる判断の重さを見守っているかのようだ。
冬の終わりを告げる冷たい空気が漂う中、英里香は弁護人席で背筋を伸ばし、正面の裁判官席を見据えていた。
隣には、この数年間でさらに白髪が増え、深く刻まれた皺に緊張を滲ませる中村誠が座っている。
彼の人生の、最後の審判が下されようとしていた。
傍聴席は、この歴史的な裁判を見届けようとする人々で埋め尽くされていた。
支援者、報道陣、法学の研究者らしき人々。
そして、固唾を飲んで英里香たちを見守る、嵐、巧、明日菜、ジャンヌ、蝶子、由利子、天音たちの姿もあった。
玉井刑事も、休暇を取って駆けつけているようだ。
由利凛の姿だけが見当たらないのが、少しだけ気になったが、今は集中しなければならない。
やがて、廷吏の声が響き渡り、裁判長を筆頭とする15名の最高裁判所判事が、黒い法服を揺らしながら厳かに入廷、着席した。
法廷内の空気が、さらに張り詰める。
弁論が始まった。 まず、英里香が立った。
これまでの地裁、高裁での主張を踏まえ、さらに練り上げた最終弁論。
その声は、大法廷の隅々にまで、凛として響き渡った。
「…本件における退職金全額不支給処分は、単なる行政裁量権の問題に留まりません。
それは、憲法が保障する法の前の平等(14条)、そして実質的な生存権(25条)にも関わる重大な問題であります。
他の公務員の類似事案と比較しても著しく均衡を欠く本件処分は、明確な合理性を欠き、平等原則に反する疑いが濃厚です。
さらに、長年の勤続に対する対価であり、老後の生活基盤でもある退職金を全額剥奪することは、被控訴人の生存権を脅かすに等しい過酷な措置であり、憲法が保障する最低限度の生活をも危うくするものです。
飲酒運転という行為は断じて許されるものではありません。
しかし、その『償い』は、罪と罰の均衡を著しく欠き、個人の尊厳を踏みにじるものであってはならない。
裁判所におかれましては、第一審、第二審の賢明なるご判断を維持され、法の支配と人権保障という憲法の基本理念に基づき、本件処分を取り消す決定をされることを、強く求めます」
英里香は理路整然と、しかし熱を込めて訴え、深く一礼して席に戻った。
傍聴席からは、抑えた拍手が小さく起こった。
続いて、新潟県側の代理人が最終弁論を行った。 彼は、あくまで飲酒運転根絶という公益性の高さを前面に押し出し、組織としての規律維持、県民への説明責任を強調した。
「……教育者という特殊な立場を鑑みれば、より高度な倫理観が求められるのは当然であります。
事前に厳格対応を通達していたにも関わらず行われた本件行為に対し、断固たる措置をとることは組織として、また社会全体の規範意識を守る上で不可欠であります。
退職金全額不支給はやむを得ない判断であり、適法であると確信いたします」
双方の弁論が終わると、裁判長が静かに口を開き、双方代理人に対し、いくつか核心を突く質問を投げかけた。
処分の妥当性を判断する上での個別事情の考慮範囲、社会情勢の変化が司法判断に与える影響、そして他の公務員との処分の公平性について…。
代理人たちは、それぞれの立場から懸命に答えたが、裁判官たちの真意を測りかねている様子だった。
短い質疑応答の後、裁判長は法廷内を見渡し、厳かに告げた。
「以上をもって、弁論を終結します。
判決を言い渡します」
即日判決。 英里香は息をのんだ。
法廷内の誰もが、身じろぎもせず、裁判長の次の言葉を待った。
中村は固く目を閉じ、祈るように手を握りしめている。
裁判長は、手元の判決書に目を落とし、静かに、しかし揺るぎない声で主文を読み上げた。
「主文。原判決(東京高裁判決)を破棄する。
本件控訴に基づき、第一審判決中、被告(新潟県)敗訴部分を取り消す。
同部分に関する原告(中村誠)の請求を棄却する。 訴訟総費用は原告の負担とする」
……破棄。 棄却。 逆転敗訴。
一瞬、法廷は水を打ったように静まり返った。
誰もが、その言葉の意味を理解できずにいるかのようだった。
「……あ……」
最初に声にならない声を漏らしたのは、中村だった。
彼の顔から急速に血の気が引き、その体はがくりと前に傾いた。
隣にいた英里香が咄嗟に支える。
彼の目からは、もはや涙も流れず、ただ深い、底なしの絶望だけが浮かんでいた。
「そんな……どうして……」
英里香もまた、全身の力が抜けるような感覚に襲われた。
頭が真っ白になり、目の前が霞む。地裁、高裁と積み重ねてきた主張が、最後の最後で、こうもあっさりと覆されるとは。
裁判長は続けて、判決理由の要旨を淡々と述べ始めた。
飲酒運転に対する社会的非難の高まり、新潟県の厳罰化方針と事前通達の事実を重く評価し、「退職金全額不支給処分が、社会観念上、著しく妥当性を欠くとまでは言えない」という結論だった。
5人の裁判官による反対意見が付されたことにも、簡潔に触れられた。
その言葉は、もはや英里香の耳には届いていなかったかもしれない。
傍聴席も、沈痛な空気に包まれていた。
すすり泣く声すら聞こえない、重い沈黙。嵐も巧も、ただ唇を噛みしめ、やり場のない怒りと無力感に拳を握りしめていた。
由利子は、静かに目を閉じている。
やがて、裁判長が閉廷を告げ、裁判官たちが退廷していく。彼らの後ろ姿が、やけに遠く感じられた。
英里香は、まだ声もなく立ち尽くしている中村の腕を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
周囲の喧騒も、カメラのフラッシュも、今は何も感じない。
ただ、法廷の重く冷たい扉だけが、現実を突きつけている。
正義はどこにあるのか。法の秤は本当に公平だったのか。
答えの見えない問いが、英里香の胸の中で渦巻き始める。
勝訴を信じて戦ってきた日々が、まるで幻だったかのように遠ざかっていく。
法廷の重い扉が、ゆっくりと閉ざされた。その向こう側にあるはずの光が、今はあまりにも遠く、霞んで見えた。
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