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第六章:偽りの証明
第31話 母の祈り
しおりを挟む梅雨入り前、束の間の晴れ間が広がった初夏の一日。
御門法律事務所の大きな窓からは、初夏の強い日差しが差し込み、埃をきらきらと照らし出していた。
大江戸英里香は、山積みになった書類と格闘しながら時折、窓の外に広がる都会の景色に目をやっていた。
中村誠教諭の事件(第五章)での最高裁逆転敗訴は、彼女の心に重い影を落としていた。
法の下で救われない現実、社会の空気という見えない壁……。
弁護士として自分が信じる正義とは何か、自問自答する日々が続いていた。
「…大江戸先生」
不意にかけられた声に、英里香は顔を上げた。
応接スペースのソファに、小柄な老婆が深々と腰かけていた。
年の頃は七十代後半だろうか。 使い古された杖を握りしめ、深く刻まれた皺には長い年月の苦労が滲み出ている。
今日の依頼者、須田節子と名乗った女性だった。
「お待たせいたしました、須田さん」
英里香は平静を装い、彼女の向かいに腰を下ろした。
節子は、持っていた風呂敷包みを震える手で解き始めた。
中から出てきたのは、古ぼけたアルバムと分厚い裁判記録のコピーの束だった。
「先生……どうか、息子の……和夫の無実を証明してくださいまし…」
絞り出すような声だった。
その目には、藁にもすがるような、必死の光が宿っている。
英里香は黙って頷き、節子の言葉に耳を傾けた。
事件が起きたのは、もう十数年も前のことだという。
絹川(きぬかわ)市という、北関東の地方都市。当時4歳だった清水さなえちゃんという女の子が、父親がパチンコに興じている間に、店の駐車場から忽然と姿を消した。
翌朝、市の中心を流れる絹川の河川敷で、変わり果てた姿で発見された。
世間を震撼させた幼女誘拐殺人事件。
警察は大規模な捜査本部を設置したが、捜査は難航した。
そして事件から一年後、突然逮捕されたのが、節子の息子、須田和夫だった。
当時、彼は市内の幼稚園でバスの運転手として働いていた。
「和夫は…少しばかり、人より物事を理解するのがゆっくりで…その…」
節子は言葉を濁した。
資料には、和夫が軽度の知的障害を持っている可能性が示唆されていた。
「警察は、そんな息子を何日も家に帰さず、脅したり賺したりして…無理やり『やりました』と言わせたんです……!」
逮捕の決め手となったのは、被害者の衣服に付着していた体液と、和夫のDNA型が一致した、という鑑定結果だった。
当時、まだ導入され始めたばかりのDNA型鑑定は、「科学的な動かぬ証拠」として、世間の注目を集めていた。
「でも、息子は事件当日、一日中、家におりました! アリバイだってあったんです!
なのに警察は…鑑定結果が出ると、もう息子の話なんて、まるで聞こうとしませんでした……」
節子の目から、堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「裁判でも、DNAが一致するなら間違いない、と…無期懲役でした……」
これまでも、別の弁護士が再審請求を試みたが、DNA鑑定という壁は厚く、ことごとく棄却されてきたという。
「もう、頼れるのは先生しか……このままでは、息子が刑務所にいる間に、私が先に逝ってしまう……」
英里香は、差し出された資料に目を落とした。
自白調書は、知的障害のある人間が語ったとは思えないほど詳細かつ流暢で、不自然な変遷を繰り返している。
アリバイを証言するはずだった人物は、警察の圧力で証言を翻した形跡がある。そして、DNA鑑定……。
(DNA鑑定が、本当に絶対的なのか…?)
前回の事件で、英里香は司法の壁の厚さを痛感したばかりだ。
「社会観念」という曖昧な基準が、長年真面目に勤め上げた教師の未来を奪った。
今度は、「科学的証拠」という、より強固に見える壁が立ちはだかる。覆すのは容易ではない。 正直、気が重かった。
しかし、目の前で息子の無実を信じ、祈るように訴える老婆の姿を見ていると、弁護士としての使命感が、心の奥底から湧き上がってくるのを止められなかった。
この母親の涙を、見過ごすわけにはいかない。
「……鑑定結果、ですか」
静かに口を開いたのは、いつの間にか隣に立っていた御門武志だった。
彼は、英里香が目を通していた鑑定書のコピーを手に取り、鋭い目で内容を確認している。
「なるほど……MCT118法か。懐かしいな」
御門は呟くように言った。
「大江戸君、この鑑定法が使われていたのは、DNA鑑定の黎明期だ。
現在のSTR法に比べれば、識別能力は格段に低い。
特定の条件下、例えば試料が古かったり、複数の人間のDNAが混じっていたりすると、誤判定のリスクも指摘されていた」
御門は英里香に向き直り、静かに続けた。
「科学は常に進歩する。
そして、捜査も、裁判も、人が行う以上、過ちは起こり得る。
重要なのは、先入観を持たず、全ての可能性を疑い、客観的な事実だけを積み重ねていくことだ。DNA鑑定という言葉に、惑わされてはいけない」
その言葉は、英里香の迷いを吹き飛ばすのに十分だった。
「須田さん」英里香は節子の手をそっと握った。
「大変お辛い思いをされてきましたね。
お気持ち、お察しします。……この事件、私たち御門法律事務所でお引き受けします。
時間はかかるかもしれません。
困難な道のりになるでしょう。
でも、私たちは諦めません。
和夫さんの無実を証明するために、全力を尽くします」
節子の顔が、驚きと、そして微かな希望の光で輝いた。
「ほ、本当ですか…?
先生……ありがとうございます……!」
老婆は何度も何度も頭を下げ、涙を流した。
節子が帰った後、英里香はすぐに行動を開始した。
まずは、いつもの「チーム大江戸」への協力要請だ。
兄の嵐には電話で事情を説明した。
「…また冤罪事件か。
しかもDNA鑑定が決め手とはな。
こりゃ骨が折れるぞ、英里香。 当時の絹川県警の資料なんて、まともに残ってるかどうか…まあ、やれるだけやってみるが」
口ではぼやきながらも、妹のためなら一肌脱ぐのが嵐だった。
次に、物理学者の兄・巧。
「DNA鑑定の再鑑定か。当時の技術なら、確かに疑問点は多い。もし証拠品が残っていて、最新技術で鑑定できれば、違う結果が出る可能性はある。
理論的な検証と、再鑑定の実現可能性を探ってみよう」
科学者としての探求心が刺激されたのか、協力は快諾だった。
そして、大江戸グループ専務の姉・明日菜。
「了解したわ、英里香。
調査費用、鑑定費用、必要なものは全てグループでバックアップする。
あなたは事件に集中して。ただし、無茶はしないこと」
常に冷静で的確なサポートを約束してくれた。
(よし、これで体制は整った…)英里香は気を引き締めた。
その時、英里香のスマートフォンが軽快な電子音と共にメッセージの受信を告げた。
画面には、幼馴染の天才(?)科学者、潮来由利凛からのメッセージが表示されていた。
『英里香ちゃん!
妾が開発した最新鋭『冤罪レーダー・りんりんサーチ』が、絹川市方面に強い冤罪反応をキャッチしたのじゃ!
これは一大事! すぐに『真実発見ドローン改・アスカ弐号機』を出動させる! 待っておれ!』
「……また始まった」英里香は深い、深いため息をつき、メッセージアプリを閉じた。
前途多難な事件に、さらなる波乱要因が加わった予感がした。
と、事務所のドアが遠慮がちにノックされ、ひょこっと顔を出したのは、警視庁捜査一課の玉井二郎刑事だった。
その手には、なぜか和菓子らしき箱が握られている。
「あ、あの、大江戸先生! お疲れのところすみません! これ、絹川市の名物、焼きまんじゅうです! よろしければ、皆さんと……」
英里香は、書類の山に視線を戻しながら、努めて冷静に答えた。
「ありがとう、玉井刑事。
でも、今はそれどころじゃないの。悪いけど、後にしてくれる?」
「あ、は、はい! 失礼しました!」
玉井刑事はしょんぼりと肩を落とし、ドアの向こうに消えた。
(まずは、絹川へ行って、現場を見て、話を聞くことからね…)
英里香は決意を新たに、須田和夫事件の膨大な資料の束へと、再び向き直った。
長い戦いの火蓋は、今、切って落とされた。
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