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第六章:偽りの証明
第34話 閉ざされた口
しおりを挟む元絹川県警警部補、真壁吾郎
彼が事件の鍵を握るかもしれない。
そう確信した英里香と嵐だったが、真壁の足取りを掴むのは容易ではなかった。
県警を退職後、彼はまるで世間から姿を消したかのように、その消息は途絶えていたのだ。
「困ったわね…彼に会って話を聞かないことには、先に進めないかもしれない…」
英里香は事務所で頭を抱えていた。
見かねた御門が、
「こういう時は、餅は餅屋、だろう」と呟き、英里香は姉の明日菜に連絡を取った。
大江戸グループの情報網は、警察組織の内部情報にアクセスすることはできないが、退職者の追跡調査などはお手の物だ。
『分かったわ、英里香。 少し時間はかかるかもしれないけれど、グループの調査部門と、それから…天音姉さんにも協力させてみる』明日菜は電話口で冷静に答えた。
天音とは、英里香たちの幼馴染である潮来由利凛の姉で、引きこもりながらも卓越した情報収集能力を持つ、大江戸グループ投資部門の隠れた実力者だ。
そして数日後、明日菜から連絡が入った。
『真壁吾郎の居場所、特定できたわ。絹川市の北西、かなり山深い地域に住んでいるようね。
住所と地図を送るわ』
添付された地図データを見て、英里香と嵐は顔を見合わせた。
そこは、最寄りの集落からも車で一時間以上かかるような、まさに人里離れた山奥だった。
「こんなところに…一体なぜ…」
「何か、世間から隠れたい理由でもあるのか…ますます怪しいな」
翌日、英里香と嵐は再び嵐の愛車、OEDOフェアリーテイルWXに乗り込み、地図が示す山奥へと向かった。
舗装された道はすぐに途切れ、車一台がやっと通れるような、轍の深い未舗装の悪路が続く。
低く唸るエンジン音を響かせながら、嵐は巧みなハンドルさばきで紅い車体を進めていく。
「兄さん、運転代わろうか?」
後部座席で地図を確認していた英里香が声をかけた。
「いらん。 お前じゃ、この道は無理だ。
大人しくナビしてろ」
嵐は悪態をつきながらも、その運転は正確だった。
しかし、しばらく進むと、道がいくつかに分かれており、カーナビも
「目的地周辺です」と表示するだけで役に立たない。完全に迷ってしまった。
「…どうするのよ、これ」
英里香が呆れたように言う。
「うるさい。ちょっと聞いてくる」
嵐は車を停め、ちょうど畑仕事から戻ってきたらしい、腰の曲がった地元のお爺さんに道を尋ねた。
「すみません、ちょっとお尋ねしますが、真壁さんという方の家は…」
「んあ? まかべ? まかべんとこのわげぇしがか?」
お爺さんは、強い地元訛りで答えたが、嵐にはその言葉の半分も理解できない。
「え? あの、真壁吾郎さんという…」
「んだで、まかべだっぺ?
あっこ曲がって、ぐーっと下って、また上がったとこだで。 すぐそこだわ」
「……」嵐は完全にフリーズしている。
英里香はインカム越しに吹き出しそうになるのを堪えながら言った。
『……兄さん、通訳お願い』
『俺に聞くな!』
嵐はインカムに怒鳴り返すと、お爺さんに適当に礼を言い、半ば勘で車を再び走らせた。
幸い、その勘は当たり、程なくして山の斜面にぽつんと建つ古びた小屋を発見した。
煙突からは細く煙が立ち上っており、人が住んでいる気配がある。
車を降り、二人は小屋の戸を叩いた。
しばらくして、中から現れたのは、日に焼け、無精髭を生やした初老の男だった。
年の頃は六十代半ばだろうか。鋭い目つきで二人を睨みつけ、警戒心を露わにしている。
この男が、真壁吾郎に違いなかった。
「…何の用だ。見慣れねぇ顔だな」
真壁はぶっきらぼうに言った。
英里香は名乗り、弁護士であること、そして十数年前に起きた絹川市の女児殺害事件、須田和夫さんの件で話を聞きに来たことを告げた。
その瞬間、真壁の表情が凍りついた。
鋭かった目が僅かに揺らぎ、そしてすぐに、固く閉ざされた仮面のような無表情へと変わった。
「……帰ってくれ。ワシはもう、とっくに警察を辞めた人間だ。
過去のことには関わりたくない」
真壁は戸を閉めようとした。
「待ってください、真壁さん!」
英里香は咄嗟に戸に手をかけた。
「お願いします。少しでいいんです。
須田さんは、今も無実を訴えています。
私たちは、再審請求の準備を進めているんです!」
「知ったことか! あれは終わった事件だ!」
真壁は吐き捨てるように言った。
その声には、苛立ちと、そして…どこか怯えのような響きが混じっていた。
英里香は、持っていた須田節子の写真を取り出し、真壁の目の前に差し出した。
「このお母さんは、ずっと一人で、息子の無実を信じて戦ってきました。
もうご高齢です。真実を知る前に、時間がなくなってしまうかもしれないんです!」
真壁は写真から目を逸らし、顔を歪めた。
長い沈黙が流れる。 鳥の声と、風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
嵐が静かに口を開いた。
「真壁さん、あんたも刑事だったなら分かるはずだ。一度背負っちまった後悔は、そう簡単に消えねぇ。
このまま、真実から目を背け続けて、あんた自身、本当に楽になれるのか?」
元刑事としての共感が、真壁の心の奥底にあるであろう葛藤に語りかける。
真壁は、きつく唇を結び、しばらく二人を睨みつけていたが、やがて、諦めたように深くため息をついた。
「……立ち話もなんだ。入れ」
小屋の中は、質素だが整理されていた。
囲炉裏には火が熾っており、壁には古い猟銃が立てかけてある。
真壁は、黙って二人にお茶を出すと、囲炉裏の前に胡座をかいた。
「…何が聞きたい」低い声だった。
英里香は、当時の捜査状況、特に和夫さんの自白の経緯やDNA鑑定への依存、そして「白いセダンの男」に関する情報について、慎重に質問を始めた。
真壁は、すぐには答えなかった。
時折、囲炉裏の火を見つめ、また沈黙する。
しかし、英里香と嵐の真剣な眼差しに、彼の重い口が少しずつ開き始めた。
「……あんな自白、まともじゃなかった。
最初からおかしかったんだ。だが、上は聞く耳を持たなかった……」
「DNA鑑定の結果が出た途端、空気は一変した。もう、和夫が犯人で決まりだと。
他の捜査は、全て打ち切りだ」
「白いセダン…?
ああ、そんな情報もあったな。
だが、鑑定結果の前では、誰も本気で追おうとはしなかった……」
言葉は断片的だった。
まだ多くを語ろうとはしない。
当時の捜査への批判を口にしながらも、その目には組織への忠誠心の名残や過去を暴かれることへの恐怖が見え隠れする。
真実を語りたい気持ちと、それを阻む何かが彼の内で激しくせめぎ合っているようだった。
それでも、真壁の口から漏れ出した断片的な言葉は当時の捜査がいかに歪んでいたか、そして冤罪が生まれるべくして生まれた可能性を強く示唆していた。
英里香と嵐は真壁の心の扉が、ほんの少しだけ開いたことを感じていた。
この閉ざされた口から、全ての真実を引き出すには、まだ時間が必要だろう。
しかし、確かな一歩を踏み出した手応えがあった。
帰り道、夕暮れの山道を走りながら英里香は静かに呟いた。
「時間はかかるかもしれない。
でも、きっと話してくれるわ。 真壁さんも、苦しんでいるはずだから…」
嵐は黙って頷き、アクセルを踏んだ。
紅いスポーツカーは、深い山の闇へと続く道を、確かな光で照らしながら進んでいった。
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