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第六章:偽りの証明
第37話 失われた時間
しおりを挟む運命の日、東京高等裁判所の法廷は、異様なほどの静寂と熱気に包まれていた。
須田和夫の再審請求に対する決定が今日、言い渡される。
傍聴席を埋め尽くした報道陣、支援者、そして固唾を飲んで裁判官の言葉を待つ須田節子さん。
英里香も、弁護人席で、祈るような気持ちでその瞬間を待っていた。
やがて、裁判長が重々しく口を開いた。
「主文。本件再審請求を認める。須田和夫に対し、再審を開始する」
その瞬間、法廷内にどよめきと、抑えきれない歓声が沸き起こった。
節子さんは、隣に座る支援者の肩に顔をうずめ、声を殺して泣き始めた。
英里香も込み上げる熱いものを感じ、思わず目頭を押さえた。
長かった戦いが、ついに報われたのだ。
裁判長は、静粛を促すように咳払いを一つすると、さらに続けた。
「なお、本決定に基づき、須田和夫に対する刑の執行を停止する」
再審開始だけでなく、即時の釈放も認められたのだ。
法廷は、再び大きな拍手と歓声に包まれた。
検察官は苦虫を噛み潰したような表情で、微動だにしなかった。
その日の午後。東京拘置所の重々しい門が、ゆっくりと開かれた。
門の前には早朝から多くの報道陣と、「祝・再審開始! 須田和夫さんは無実だ!」と書かれた横断幕を掲げた支援者たちが詰めかけていた。
やがて、一人の男が刑務官に付き添われて姿を現した。
須田和夫。十数年ぶりに、自由の空気を吸う瞬間だった。
しかし、そこにいたのは、かつての写真で見た、人の良さそうな幼稚園バスの運転手の面影ではなかった。
長く過酷な拘禁生活は、彼の心身を深く蝕んでいた。
白髪は増え、背中は丸まり、その足取りはどこかおぼつかない。
そして何より、その表情には、喜びよりも深い戸惑いと、外界への怯えのようなものが色濃く浮かんでいた。
フラッシュの閃光と、怒涛のように浴びせられる報道陣の声に、彼はただ立ち尽くすばかりだった。
「和夫…! 和夫!」
人垣をかき分けるようにして、節子さんが息子の元へ駆け寄った。
変わり果てた息子の姿に、言葉を失いながらも、その痩せた体を、皺だらけの手で何度も何度もさすった。
「…かあ…ちゃん…?」
和夫は、まるで現実感が掴めないかのように、母親の顔をぼんやりと見つめている。
その口から漏れた声は、ひどくか細く、掠れていた。
「よかった…本当によかった…!」
節子さんは、嗚咽しながら息子に抱きついた。
その涙は、喜びだけではない。
失われた十数年という、あまりにも長すぎた時間への悲しみ、そして、これから息子が背負っていくであろう困難な現実への不安が入り混じった複雑な涙だった。
英里香も、嵐や御門、支援者たちと共に、その光景を静かに見守っていた。
胸が締め付けられるような思いだった。
無実の罪で奪われた時間は、二度と戻らない。
そして、彼の社会復帰への道は決して平坦ではないだろう。
知的障害のある彼が、この急激に変化した社会に再び適応していくのは、並大抵のことではない。
「…これからが、本当の始まりだな」
嵐が隣で、静かに呟いた。
その通りだった。再審公判で無罪を確定させることは、もはや確実と言っていい。
だが、それだけでは終わらない。
英里香は、失われた時間に対する正当な補償を得るための、刑事補償請求の準備も進めなければならないと考えていた。
そして何より、和夫さんが安心して暮らせる環境を整え、社会復帰を長期的にサポートしていく体制を、皆で作り上げていく必要があった。
一方で、この「勝利」には拭いがたい影も差していた。
再鑑定で検出された、「未知の第三者のDNA型」。
それは、真犯人が野放しになっている可能性を強く示唆していた。
嵐と彼の同僚であり恋人でもある夜野蝶子は、独自に絹川県警や警察庁に働きかけ、この第三者のDNAに関する再捜査の可能性を探っていた。
しかし、壁は厚かった。
「ダメだ…」
警視庁に戻った嵐は、悔しそうにデスクを叩いた。
「当時の殺人罪の公訴時効は15年。
とっくに成立している。
法的には、もう捜査を再開する根拠がない、の一点張りだ」
2010年に殺人罪の公訴時効は撤廃されたが、それは法律施行前の事件には遡及適用されない。
須田事件の真犯人は法の下で裁かれることは、もうないのだ。
「被害者のさなえちゃんの無念は…真実は、このまま闇の中ってことか…」
蝶子も、やるせない表情で呟いた。
法は、時に残酷なまでに現実的だった。
冤罪被害者を救う道が開かれても、真の正義が果たされるとは限らない。
このやるせない現実は、英里香たちの心にも重くのしかかった。
その夜、御門法律事務所の会議室で、和夫さんの釈放を祝う、ささやかな会が開かれた。
節子さんが心を込めて作った煮物や支援者たちが持ち寄った料理が並ぶ。
主役の和夫さんは、まだ周囲に馴染めない様子で部屋の隅で小さくなっていたが、節子さんや英里香が優しく声をかけると、少しだけ表情を和らげた。
そんな和やかな雰囲気の中に、またしても場違いな(?)発明品を持ち込んできたのは、潮来由利凛だった。
「和夫殿!
十数年のブランクなんぞ、この妾の発明にかかれば一瞬じゃ!」
由利凛は奇妙なアンテナがいくつも付いた、銀色のヘルメットを取り出した。
「名付けて『一瞬で現代社会に適応できるヘルメット・和夫スペシャル』じゃ!
これを被れば、最新の流行からSNSの使い方、電子マネーのチャージ方法まで、全ての情報が脳にダイレクトインストールされるのじゃ!
さあ、被るのじゃ!」
由利凛が、目を丸くしている和夫さんにヘルメットを被せようとした瞬間、すっと伸びてきた手が、それを制止した。大江戸グループ専務、明日菜だった。
「やめなさい、由利凛。
そういうのは、本人のペースに合わせて周りがゆっくりサポートしていくべきものでしょう」
明日菜は冷静に、しかし有無を言わせぬ迫力で言った。
「和夫さんの社会復帰については、専門家チームを編成して大江戸グループとしても全面的に支援する計画を立てているわ。
あなたの怪しげな発明の出番はないの」
「むむぅ…妾の善意が…」
由利凛は不満そうにヘルメットを引っ込めた。
そのやり取りを見て、和夫さんの口元に、ほんのわずかだが笑みが浮かんだように見えた。
失われた時間は戻らない。
真犯人は捕まらないかもしれない。
それでも、彼を取り巻く温かい支援の輪は彼の未来を少しずつ照らし始めていた。
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