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第八章:生存権の境界線
第51話 閉ざされた窓口
しおりを挟む数日後、英里香は新緑の眩しい湘浜県港南市にいた。東京から電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られてたどり着いたその街は、穏やかな海沿いの風景とは裏腹に、どこか閉塞感が漂っているように感じられた。
斎藤良雄と「港南の暮らしを守る会」の代表を務める初老の女性・高橋と共に、問題の港南市役所へと向かう。
市役所の建物は、地方都市によくある、やや古びたコンクリート造りだった。
しかし、その入口には不釣り合いなほど新しい監視カメラが複数設置され、ガラス扉の向こうに見える案内係の視線も、どこか鋭く感じられる。
まるで、助けを求める市民を選別するかのような冷たい空気が流れていた。
「…先生、大丈夫でしょうか……また、あの人に会うと思うと…」
隣を歩く斎藤の声が震えている。
無理もない。 彼にとって、この場所は屈辱と絶望の記憶が刻まれた場所なのだ。
「大丈夫です、斎藤さん。
今日は私がついています。 それに、高橋さんも」
英里香は力強く頷き、高橋代表も
「一人じゃありませんよ」と斎藤の肩をそっと叩いた。
福祉課の窓口で名乗り、斎藤良雄氏の件で担当係長の山岡健一氏に面会を求めると、奥からやや小太りで、鋭い目つきをした四十代後半ほどの男が現れた。山岡係長だった。
彼は英里香(弁護士バッジを付けている)を一瞥すると、面倒くさそうに眉をひそめた。
「ああ、弁護士さんですか。 斎藤さんの件ね。
うちは規定通り、適切に対応してますよ。
何か問題でも ?」
応接スペースに通されたものの、山岡は椅子にふんぞり返り、腕を組んだまま、明らかに敵意を含んだ口調で言った。
「山岡係長、単刀直入にお伺いします」
英里香は冷静に、しかし毅然とした態度で切り出した。
「斎藤さんに対する申請時の対応、そして現在の1日1000円という分割支給は、生活保護法及び憲法に違反する疑いが極めて濃厚です。
その根拠と経緯について、ご説明いただけますか?」
「根拠 ? 本人の希望と、うちの指導方針ですよ」
山岡は鼻で笑った。
「斎藤さん、自分で金銭管理できないって言ってたじゃないですか。 だから、こっちで『指導』してやってるんです。
毎日窓口に来れば、規則正しい生活にもなるし、一石二鳥でしょう ?」
その言葉は、詭弁に満ちていた。
斎藤は隣で悔しさに唇を噛み締めている。
「斎藤さんは、そのような『指導』に同意した覚えはない、とおっしゃっていますが?」
「いやいや、ちゃんと納得してましたって。
記録にもそう残ってますよ」
「その記録の開示をお願いできますか ? それと、申請時の面談記録も」
「はあ? なんで部外者のあんたに、個人情報を見せなきゃならんのですか。
守秘義務ってものがあるでしょう」
山岡は、あからさまに話を逸らそうとする。
「だいたい、あんたら支援団体も、なんでもかんでも権利だって騒ぎ立てて…本当に困ってる人の邪魔してるだけなんだよ」
議論は完全に平行線だった。
山岡は違法性を認めようとせず、のらりくらりと言い分を繰り返し、最後は「忙しいんでね」と一方的に話を打ち切って席を立ってしまった。
「…ひどい…何も変わっていない…」斎藤は力なく呟いた。
高橋代表も深いため息をつく。
「予想はしていましたが……あの調子では、まともな話し合いは望めませんね」
「ええ」英里香は頷いた。
「ですが、今日のやり取りで確信しました。
彼は意図的に違法行為を行っている。
そして、それを隠蔽しようとしている。
突破口は必ずあります」
市役所を後にした英里香たちは、「守る会」の小さな事務所に場所を移し、本格的な調査を開始した。
高橋代表の呼びかけで、斎藤と同様に港南市福祉課で不適切な対応を受けた経験を持つ人々が、少しずつ集まり始めていた。
「私も、『仕事を探す気がないなら申請するな』って言われました…」
「子供がいるのに、『一時的に施設に預けたらどうか』なんて…信じられません」
「ハンコを預かっておく、って言われて…断れなかった。勝手に使われてないか心配で…」
「担当の人がコロコロ変わるのに、なぜか山岡さんだけはずっといるんです。みんな、彼には逆らえないみたいで…」
集まる証言は、どれも港南市福祉課の異常さを物語っていた。
これは単なる山岡係長の個人的な問題ではなく、組織全体に蔓延る構造的な問題である可能性が高い。
その頃、東京の嵐と蝶子は、別件(盗難事件の捜査協力という名目)で港南市役所を訪れていた。
福祉課にも立ち寄り、それとなく職員たちの様子を観察する。
「…妙だな」
市役所を出た後、嵐は蝶子に呟いた。
「福祉課だけ、やけに空気がピリピリしてる。
他の課の職員も福祉課の話になると口が重くなるし……あの山岡って係長、相当な権力を持ってるみたいだぞ」
「ええ。それに、警察OBらしき男性職員が、相談窓口の近くに複数いるのも気になったわ。
威圧感を与えるためかしら……」
蝶子も冷静に分析する。
二人は掴んだ情報を整理し、すぐに英里香に報告を入れた。
夜、英里香がホテルで報告書をまとめていると、巧から暗号化された通信が入った。
『英里香、港南市のデータを分析した結果が出たぞ。驚くべきことに、この5年間で生活保護の新規申請受理率が全国平均の半分以下に激減している。
特に、母子世帯と若年層の利用者が異常に少ない。
市の言う「自然減」や「就労支援の成果」だけでは、到底説明がつかない数字だ』
巧が送ってきたグラフは、港南市の異常性を一目で示していた。
『さらに、福祉課の予算配分を見ると、相談業務やケースワークに割かれるべき人件費や研修費用が極端に少なく、代わりに警備関連費や…なぜか「広報費」の項目が他市より突出している。
これは、何かを隠蔽、あるいは正当化するための意図的な操作を感じる』
閉ざされた窓口、職員たちの萎縮、警察OBの影、そして異常なデータ……。
港南市が抱える闇は想像以上に深く、根強いものかもしれなかった。
英里香のスマートフォンが、けたたましい着信音と共に震えた。画面には「潮来由利凛」の文字。うんざりしながら応答する。
「英里香ちゃーん!
聞いたぞ、港南市の悪事! 妾の『お役所ハッキングドローン・カミカゼ7号』がついに完成したのじゃ! これで市役所のサーバーに侵入して、悪事の証拠を根こそぎ……」
「絶対にやめて!」英里香は即座に叫んだ。
「いい? 由利凛、絶対に、絶対に余計なことはしないで!
これは法的な手続きで解決すべき問題なの!」
「むぅ、つまらんのう…せっかく英里香ちゃんのためを思って……」
「とにかく、何もしないで!」
英里香は念を押し、一方的に通話を切った。深いため息が出る。
調査は始まったばかりだ。壁は厚く、相手は手強い。
英里香はホテルの窓から港南市の夜景を見下ろした。昼間とは違う、静かで美しい街並み。
この街のどこかで、今も助けを求められずに苦しんでいる人がいる。
(必ず、この閉ざされた窓口をこじ開けてみせる…)
ちょうど昼食時に食べた、港南名物だという「釜揚げしらす丼」の優しい味を思い出しながら、英里香は新たな闘志を静かに燃やしていた。
あの美味しかったしらすのように、この街の人々が安心して暮らせるようにしなければ。
長い戦いになりそうだ、と覚悟を決めた。
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