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第八章:生存権の境界線
第50話 生存権の境界線
しおりを挟む(第七章で対峙した)巨大IT企業の闇、高村亮の無実証明から数ヶ月が過ぎた。
桜の季節はとうに終わり、日差しには初夏の力強さが感じられるようになっていた。
御門法律事務所には、激動の日々の後とは思えないほど穏やかな、しかしどこか張り詰めた空気が戻りつつあった。
先日、黄昏時に襲われた際の傷は幸いにも浅く、英里香の日常業務に支障はなかった。
むしろ、あの事件は彼女の中に守られることへの戸惑いと同時に、理不尽な暴力に対する静かな怒りを新たに刻み込んだ。
そして、身を挺して自分を守った玉井刑事への、言葉にし難い感情も……。
英里香は、溜まっていた書類の山を片付けながら、時折窓の外に目をやる。
法律は人を守る盾であるはずだ。
だが、その盾が届かない場所で、声なき悲鳴を上げている人々がいる。
高村亮事件で垣間見た技術の進歩の影、そして前々回の須田和夫事件で痛感した司法の構造的問題…。弁護士として、自分は何をすべきなのか。自問は続く。
そんな午後の静寂を、内線電話の呼び出し音が破った。受付の事務員からだった。
「先生、アポイントメントのない方なのですが…『港南の暮らしを守る会』の方のご紹介だとおっしゃる男性が、ぜひ先生にと…かなり、お疲れの様子ですが…」
「港南の暮らしを守る会」…確か、以前セミナーで交流のあった、K県で生活困窮者支援を行っているNPO法人だ。
英里香は訝しみながらも、
「…分かったわ。応接スペースにお通しして」と応じた。
応接スペースに向かうと、ソファに一人の男性が深く沈むように座っていた。
年の頃は五十代半ばだろうか。着古された作業着のような服は清潔だったが、その顔色は土気色で、目の下には深い隈が刻まれている。
力なく俯いた横顔には、生きる気力すら失ってしまったかのような、深い絶望の色が漂っていた。
「お待たせいたしました。弁護士の大江戸です」
英里香が声をかけると、男性はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
その虚ろな瞳が英里香を捉える。
「…あ…大江戸先生…ご紹介いただいた、斎藤と…申します……」
か細く、掠れた声だった。
彼は立ち上がろうとしたが、足元がおぼつかない様子でよろめく。
「どうぞ、おかけになったままで」
英里香は静かに促し、彼の向かいに腰を下ろした。
「『守る会』の方から、何かご相談があると伺いましたが」
斎藤良雄と名乗った男性は、震える手で膝に置いた布製の鞄を握りしめ、ぽつりぽつりと語り始めた。
数ヶ月前まで、彼は港南市で小さな町工場に勤めていた。
しかし、長年の無理が祟って体を壊し、働けなくなった。
貯金も底をつき、家賃の支払いも滞り始め、彼は最後の手段として、市の福祉課に生活保護の申請に訪れたのだという。
「そしたら…担当の、ヤマオカという係長さんに…『まだ若いんだから働け』『病気 ?怠けてるだけだろ』『家族に頼れ、みっともない』って…怒鳴られて……申請の紙さえ、もらえなかったんです……」
斎藤の目から、涙とも汗ともつかない雫がこぼれ落ちた。
「何度も…何度も足を運んで、やっと……申請は受理されたんですが、今度は……『あんたみたいな人間には金銭管理が必要だ』とか言って…保護費を、窓口で、毎日1000円ずつしか…渡してくれないんです…」
英里香は息をのんだ。
1日1000円。 家賃や光熱費を考えれば、食事すらままならない金額だ。
「しかも、ハローワークに行って、求職活動をしてきた証明がないと、その1000円も渡さない、とか…体調が悪くて行けない日もあって…それでも…月末には、帳簿上は、満額支給されたってことに…なっているらしくて……」
聞くに堪えない話だった。
生活保護は、憲法で保障された国民の権利だ。
それを、行政の担当者が感情や偏見で歪め、申請を妨害し、違法な条件を突きつけ、人間としての尊厳を踏みにじる。
これは、単なる不適切な対応ではない。
明確な人権侵害であり、行政による組織的な違法行為の可能性すらあった。
(第七章の事件を経て)英里香の中では、個別の犯罪だけでなく、社会のシステムが生み出す理不尽さへの問題意識がより強くなっていた。
目の前の斎藤の苦しみは、まさにその構造的な問題の犠牲者の姿だった。
怒りが、静かに、しかし確実に込み上げてくる。
「斎藤さん、それは…許されることではありません」
英里香の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。 迷いはなかった。
「この件、私がお引き受けします。
これは斎藤さん個人の問題ではありません。
港南市の行政が、憲法で保障された権利を組織的に踏みにじっている、重大な問題です」
斎藤は、英里香の力強い言葉に驚いたように顔を上げ、その目にわずかな光が宿った。
「せ、先生……?」
「諦めないでください。 一緒に戦いましょう。
あなたの尊厳と、権利を取り戻しましょう」
斎藤が、少しだけ安堵の表情を見せて帰った後、英里香はすぐに御門所長の元へ向かい、事の経緯を報告した。
御門は静かに英里香の話を聞き終えると、重々しく口を開いた。
「…やはり、そういうことが起きているか。
近年の生活保護バッシングや、国の財政難を背景にした締め付けが、現場の『水際作戦』を助長しているのだろう。
行政を相手取る訴訟は、時間も労力もかかる。証拠集めも困難を極めるだろう。だが……」
御門は英里香の目を真っ直ぐに見据えた。
「ここで誰かが声を上げなければ、この国のセーフティネットは名ばかりのものになる。
大江戸君、これは君にとっても、我々法律家にとっても、非常に重要な戦いだ。 事務所として全力で支援する。やりなさい」
その言葉は、英里香の決意をさらに固いものにした。
すぐに、チーム大江戸のメンバーに連絡を取る。
嵐は電話口で、『なんだそりゃ!役所がそんなことしていいわけねえだろうが!』と、持ち前の正義感から即座に憤慨し、警察としてできる範囲での情報収集を約束した。
巧は『生活困窮者の生存権に関わる問題か…客観的なデータ分析でサポートしよう。
彼らがどれだけ非人間的な状況に置かれているか、数値で示してやる必要がある』と冷静ながらも熱意を見せた。
明日菜は『行政訴訟となると費用も嵩むでしょうけれど、心配はいらないわ。
グループとして全面的にバックアップする。
必要な情報や人脈も提供しましょう』と力強く応じた。
ジャンヌも『斎藤さんのような方の心のケアも重要になりますね。私にできることがあれば、ぜひ』と申し出てくれた。
仲間たちの心強い言葉に、英里香は改めてチームの結束を感じた。
どんなに困難な相手でも、この仲間たちとなら戦える。
ちょうどその時、事務所のドアが控えめにノックされた。
顔を出したのは、まだ少し足を引きずっている玉井刑事だった。 手にはコンビニの袋を持っている。
「あ、先生 ! お疲れ様です !
その、体の調子もだいぶ良くなってきたので、何かお手伝いできることはないかと…あ、これ、差し入れのゼリー飲料です!リハビリにもいいかと!」
英里香は、彼の少し心配そうな顔と差し出されたゼリー飲料を見て小さく息をついた。
アノ事件以来、彼に対する見方が少し変わったのは事実だったが、相変わらずのようだ。
「ありがとう、玉井刑事。 気持ちは嬉しいわ。
でも、まずは自分の体を完全に治すのが最優先よ。 無理は禁物」
普段より少しだけ、声のトーンが柔らかかったかもしれない。
「は、はい!そうですよね!
でも、何かあったらすぐ呼んでください!」
玉井刑事はぱっと顔を輝かせ、敬礼して去っていった。
英里香は、斎藤から預かった資料の束に目を落とした。
港南市という、閉鎖的な行政組織が相手。
法廷で彼らの違法性を証明するのは、容易ではないだろう。だが、やるしかない。
憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」とは何か。
生存権の境界線は、どこにあるのか。
この国のセーフティネットの根幹を揺るがしかねない問題に英里香は弁護士として、そして一人の人間として、真正面から挑む決意を固めた。
長い戦いの火蓋は、今、切って落とされた。
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