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第八章:生存権の境界線
第53話 反撃の狼煙
しおりを挟む降りしきる雨が、御門法律事務所の大きな窓を叩いていた。
英里香は、数日前に内部告発者の石田幸子から新たに受け取ったUSBメモリの中身を、息を詰めて確認していた。
そこには、前回提供された資料よりもさらに踏み込んだ、港南市福祉課の闇を示すデータが記録されていた。
山岡係長が、生活保護申請者への対応について部下に指示を出している会議の音声データ(隠し録音されたものだろう)。そこには、
「申請に来てもすぐに受理するな。 まず家族構成と資産状況を徹底的に洗え」
「少しでも疑わしければ『調査中』で保留。面倒な奴は諦めさせるのが一番だ」
といった、申請権侵害を明確に指示する言葉が生々しく記録されていた。
さらに、斎藤良雄が「本人の希望」で分割支給に同意したとされる書類の、本来の書式との比較データ。
そこには、同意欄の筆跡が不自然であることや、作成日が他の記録と矛盾している点などが、石田自身による詳細な注釈付きで示されていた。
極めつけは、斎藤が決して受け取っていないはずの日付の保護費受領簿のコピー。そこには、斎藤の名前と共に、福祉課が保管していたはずの彼の認印が、確かに押されていたのだ。
「……ここまでやっていたなんて…」
英里香は、その組織的な不正と人権蹂躙の徹底ぶりに、改めて怒りと共に戦慄を覚えた。
これだけの証拠があれば、もはや港南市側の「適切な指導」「本人の同意」という言い逃れは通用しないだろう。
英里香は、御門所長、そして兄の嵐、巧、明日菜たちと緊急のオンライン会議を開き、これらの新証拠を共有した。
「決定的だな」
嵐が厳しい声で言った。
「これだけの証拠があれば、言い逃れはできん。訴訟に踏み切るべきだ」
「音声データと文書記録、そして受領印の不正使用。合わせ技でいけば、裁判所も市の違法性を認めざるを得ないだろう」
巧も分析結果を添えて同意する。
「問題は、内部告発者の保護ね。
訴訟になれば、市側は情報源の特定に躍起になるでしょう。
石田さんの安全確保が最優先よ」
明日菜が冷静に指摘した。
御門も頷く。
「訴訟は最終手段だが、ここまで事態が明らかになった以上、踏み込むべきだろう。
ただし、相手は行政組織だ。
あらゆる反撃と妨害を想定し、慎重に進めなければならない。
斎藤さんの意思も、改めて確認する必要がある」
英里香は、港南市にいる斎藤と電話で連絡を取った。
訴訟に踏み切ることのリスク、時間的・精神的な負担、そしてそれでも戦う意義を丁寧に説明する。
斎藤はしばらく黙って聞いていたが、やがて、震える声で答えた。
「…先生、お願いします。もう、私のような人間が出てほしくないんです。
市に、ちゃんと間違いを認めさせてください。
私も、最後まで戦います」
彼の声には、これまでの絶望とは違う、確かな決意が宿っていた。
数日後、英里香は地方裁判所に訴状を提出した。
原告は斎藤良雄。被告は港南市、そして職権乱用等の責任を問い、山岡健一係長個人も加えた。
請求内容は、
①違法な行政指導等による精神的苦痛に対する慰謝料
②違法な分割支給によって受け取れなかった生活保護費の差額支払い
③再発防止策の確約と公式な謝罪、の三点。
訴状提出と同時に、英里香は御門法律事務所で記者会見を開いた。
集まった多くの報道陣を前に、彼女は用意した資料を示しながら、港南市福祉課で行われてきた組織的な人権侵害の実態を冷静かつ強い口調で告発した。
「これは、単なる一職員の行き過ぎた行為ではありません。
生活保護という、国民の生存権を守る最後のセーフティネットを行政自らが破壊しようとした、極めて悪質な事例です。
私たちは、法廷でその違法性を徹底的に追及し、二度とこのような悲劇が繰り返されないよう、断固として戦います」
英里香の訴えは、テレビや新聞で大きく報じられ、社会に衝撃を与えた。
案の定、港南市側の反応は早かった。
市長名で「遺憾の意」を示すコメントを発表しつつも、「係争中の案件についてはコメントを差し控える」とし、すぐに代理人弁護士を選任。
代理人弁護士は、
「原告の主張は一方的であり、事実に反する部分が多い。市としては法廷で正当性を主張する」
との反論声明を発表した。
そして水面下では、内部告発者の特定作業が始まった。
福祉課内での聞き取りが強化され、石田に対する無言の圧力が増していく。
彼女からの連絡も、以前より途絶えがちになっていた。
「…やはり、動き出したか」
報告を受けた嵐は、苦々しく呟いた。
「卑怯な手を使いやがる。 石田さんの安全は、俺たちが絶対に守る」
嵐は、警視庁の信頼できる同僚や、玉井刑事(すでに現場復帰していた)とも連携し、石田の通勤経路や自宅周辺の見守りを強化。
直接的な脅威がないか、細心の注意を払い始めた。
事務所では、英里香が膨大な裁判資料の作成に追われていた。
内部告発資料の証拠としての整理、他の被害者の陳述書の作成、巧がまとめたデータ分析報告書の精査…。
連日の徹夜作業で、さすがの英里香にも疲労の色が見え始めていた。
そんな深夜、事務所のドアがそっとノックされた。 顔を出したのは玉井刑事だった。 手には、湯気の立つ紙カップと、コンビニの袋を提げている。
「…先生、まだお仕事中ですか?
少し休憩されてはと思いまして…温かいお茶と、あと…やっぱり、あんぱんです!」
玉井刑事は、少し照れたように笑いながら、定番の差し入れを差し出した。
英里香は、モニターから目を離し、少し驚いた顔で玉井を見た。 そして、ふっと息をつくと、珍しく小さく笑みを浮かべた。
「……ありがとう、玉井刑事。
ちょうど、一息入れたいと思ってたところよ。
あんぱんは、もういいって言ったはずだけど……まあ、一つだけ、いただくわ」
「は、はいっ!」
玉井刑事は、ぱあっと顔を輝かせた。
英里香は、温かいお茶を一口飲み、少しだけ凝り固まった肩をほぐした。
目の前には、これから始まるであろう、長く厳しい法廷闘争が待ち受けている。
行政という巨大な組織を相手に、真実を証明することの困難さ。
内部告発者の安全。
そして、斎藤さんのような人々が、当たり前に人間らしい生活を送れる社会の実現…。
やるべきことは山積みだ。
だが、一人ではない。
頼もしい仲間たちがいる。
そして、勇気を出して声を上げてくれた人がいる。
英里香は、提出したばかりの訴状の控えを手に取り、その重みを確かめるようにぎゅっと握りしめた。
反撃の狼煙は上がった。
あとは、法廷という舞台で、彼らの不正を白日の下に晒すだけだ。
英里香の瞳に、再び強い決意の光が宿った。
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