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第八章:生存権の境界線
第54話 法廷 - 人権の砦
しおりを挟む梅雨入り前の、束の間の晴れ間が広がった2025年のある日。
湘浜県地方裁判所の前には、朝から多くの報道陣と支援者の姿があった。
港南市の生活保護行政の違法性を問う国家賠償請求訴訟の第一回口頭弁論が開かれるのだ。
英里香が提起したこの訴訟は、単なる一個人の権利救済に留まらず、全国的な生活保護行政のあり方、そして憲法が保障する生存権そのものへの問いかけとして、大きな注目を集めていた。
法廷内は、開廷前から異様な熱気に包まれていた。
傍聴席は満席で、立ち見も出るほどだ。
最前列には、緊張した面持ちの原告・斎藤良雄と、彼を支える「港南の暮らしを守る会」の高橋代表、そして英里香の仲間たち、嵐、巧、明日菜、ジャンヌ、蝶子、そしてなぜか少し離れた席に座る玉井刑事の姿もあった。
皆、固唾を飲んで裁判の開始を待っている。
被告席には、港南市の代理人弁護士と、市の担当職員(山岡係長の姿はなかった)が硬い表情で座っていた。
「開廷します」
裁判長の厳かな声が響き渡り、法廷は水を打ったように静まり返る。
まず、英里香が弁護人席から静かに立ち上がった。
背筋を伸ばし、裁判官、そして傍聴席全体を見渡す。
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「原告代理人の大江戸です。本日は、憲法第25条が保障する『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』、すなわち生存権が、被告港南市によって組織的に、かつ著しく侵害された事実について、冒頭陳述を行います」
英里香の声は、静かだが凛として法廷に響いた。
「被告港南市福祉課、特に山岡健一係長(当時)は、生活に困窮し、最後のセーフティネットを求めて訪れた原告に対し、申請権そのものを侵害する暴言や威圧的な態度を繰り返し、違法な『水際作戦』を行いました。
さらに、申請を受理した後も、生活保護法の趣旨を完全に無視し、最低生活費基準を大幅に下回る『1日1000円』という非人道的な分割支給を、あたかも『指導』であるかのように強要し続けました。
これは、単なる行政の裁量逸脱ではありません。 法を執行すべき行政機関による、明白な違法行為であり、原告の人格と尊厳を踏みにじる、許されざる人権侵害であります」
英里香は、手元の資料に目を落とし、斎藤から預かった日記の一部を読み上げた。
「『今日も、窓口で1000円を受け取った。これで、明日一日どう生きろというのか。パンを買うか、薬を買うか。寒くて眠れない夜が続く。もう、死んだ方が楽なのかもしれない…』」
悲痛な言葉が、法廷の空気を重くする。傍聴席からは、すすり泣く声も聞こえた。
「被告港南市は、原告から人間としての尊厳を奪い、生きる希望さえも打ち砕いたのです。
我々は、今後の審理において、被告らの違法性を、内部資料を含む客観的な証拠をもって、余すところなく明らかにしてまいります」
英里香は、内部告発資料の存在を暗に示唆し、市側を牽制した。
続いて、被告・港南市の代理人弁護士が反論に立った。
ベテランらしい落ち着いた口調だが、その内容は英里香の主張を真っ向から否定するものだった。
「被告代理人でございます。原告代理人の主張は、極めて一方的かつ感情的なものであり、事実誤認も甚だしいと言わざるを得ません。
被告港南市は、生活保護法に基づき、常に適正な業務執行に努めてまいりました。
斎藤氏への対応についても、彼の状況を考慮した上での『丁寧な指導』であり、分割支給に関しても、彼の金銭管理能力への配慮と、自立支援の一環として、本人の理解と同意のもとに行われたものです。
一部、担当者の言葉に行き過ぎがあった点は認めますが、それはあくまで現場レベルでのことであり、組織的な違法行為など断じて存在しません。原告の請求には、何ら法的根拠はありません」
代理人は、あくまで市の正当性を主張し、問題を個々の職員の「些細なミス」や「行き過ぎ」に矮小化しようとする姿勢を崩さなかった。
冒頭陳述が終わると、証拠調べに移り、原告である斎藤良雄本人の尋問が行われた。
英里香に促され、証言台に進み出た斎藤は、緊張で顔面蒼白だった。声も震え、言葉も途切れがちだ。
「斎藤さん、落ち着いて、ありのままをお話しください」
英里香は、できるだけ穏やかな声で語りかけた。傍聴席の高橋代表や仲間たちの励ますような視線が、斎藤に注がれる。
斎藤は、何度も深呼吸を繰り返し、ぽつりぽつりと語り始めた。
病気で職を失った経緯、市役所の窓口で受けた山岡係長の暴言、申請を妨害された時の屈辱感、そして1日1000円で生活することの想像を絶する過酷さ……。
「電気もガスも止められて…冬は、寒くて、寒くて…食べ物も満足に買えず、ゴミ箱を漁ろうかと思ったこともありました……。
役所の人は、私を人間だと思っていないんだ、と…何度も、死のうと…思いました…」
涙ながらの告白に、法廷内は静まり返り、裁判官も厳しい表情で聞き入っていた。
市側代理人からの反対尋問もあったが、斎藤の真摯な訴えの前には、その質問もどこか空々しく響いた。
続いて英里香は、巧が作成した「港南市における生活保護行政の異常性を示す統計データ」と、長年生活困窮者支援に携わってきたNPO法人代表による「1日1000円支給がいかに非人道的であるか」を述べた意見書を証拠として提出した。
客観的なデータと専門家の知見が、斎藤の証言の信憑性をさらに補強した。
その頃、傍聴席の一角では、小さな騒動が起こりかけていた。
潮来由利凛が、バッグから何やら怪しげなヘッドセットを取り出し、
「ふむ、被告代理人の脳波は嘘をついておるな……この『嘘発見ヘッドセット・しんじつ君』で暴いてやるのじゃ!」
と装着しようとしたのだ。
すかさず隣に座っていた夜野蝶子が、その手を掴み、冷たい視線で一言。
「やめなさい。そんなオカルトグッズで法廷を混乱させないで。静かに傍聴していなさい」
「むぅ…蝶子には科学的ロマンが分からぬのじゃ……」
由利凛は、しぶしぶヘッドセットをしまった。
第一回口頭弁論は、そこで閉廷となった。
英里香は、確かな手応えを感じていた。
斎藤の魂からの訴えは、間違いなく法廷の空気を動かした。
提出した証拠も、市の主張の不自然さを際立たせたはずだ。
しかし、相手は行政組織。
これから、様々な反論や妨害工作が予想される。 内部告発者の保護も、引き続き最優先課題だ。
「始まりましたね」
法廷を出ると、御門が静かに声をかけてきた。
「ええ。これからが、本当の戦いです」
英里香は、決意を込めて頷いた。
人権の砦であるべき法廷で、今、生存権の境界線を問う戦いが始まった。
英里香は斎藤の、そして声なき多くの人々の思いを背負い、次なる準備へと向かう。
その足取りは、重く、しかし迷いはなかった。
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