24 / 57
第五章: 桶狭間 ~奇跡を起こすのは誰だ?~
第22話 奇跡への助走、太陽と月の情報戦
しおりを挟む今川軍接近の報せが届いてから、那古野城の時間は、まるで澱んだ水のように重く、ゆっくりと流れていた。
家臣たちは、来るべき滅亡を前に、ただ右往左往するばかり。そんな絶望的な空気の中、俺はといえば、自室に籠もり、昼夜を問わず幸若舞こうわかまい「敦盛」の稽古に明け暮れていた。
「……人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり……」
俺が虚ろな目で舞い続ける姿は、すぐに城中の知るところとなった。
「殿は、あまりの恐怖に、ついに気でも狂われたか……」
「もはや、織田家もおしまいじゃ……」
家臣たちの絶望は、頂点に達していた。今川方に通じる間者も、おそらくは「信長、現実逃避し狂乱」とでも報告したことだろう。
それでいい。俺のうつけは、敵を欺くための、最大の罠なのだから。
俺が、うつけの舞で敵味方の目を欺いている、その裏で俺たちの、本当の戦いは始まっていた。
「……よし、これでよし、と」
鏡に映る自分の姿を見て、空は満足げに頷いた。
そこにいたのは、信長の側室・吉乃の面影すらない、日焼けした快活な町娘だった。海の知恵を借り、古い着物を汚し、顔には薄く煤すすを塗りたくっている。
「空、本当に大丈夫なの? 危ないよ……」
俺が心配そうに言うと、空は「だいじょーぶ!」と、拳を握って見せた。
「大ちゃんが、訳の分からない記憶を頼りに頑張ってるんだもん。わたしだって、じっとしてられないよ!」
彼女は、信頼できる侍女のお花の手引きで、夜陰に乗じて城を抜け出した。
向かった先は、今川軍の侵攻から逃れてきた人々が集まる、城下の避難場所だった。
空は、そこで持ち前の太陽のような明るさを全開にした。
「おっちゃん、大変だったね! これ、お食べよ!」
持参した握り飯を配り、子供たちの頭を撫で、老人たちの話に熱心に耳を傾ける。その屈託のない笑顔と優しさは、絶望に沈んでいた人々の心を、少しずつ解きほぐしていった。
そして、彼女は、何気ない世間話の中から、ダイヤモンドの原石のような情報を、一つ、また一つと拾い集めていく。
「今川の兵隊さんたち、もう勝ったも同然だって、昼間からお酒飲んでるって話だよ」
「お殿様(義元)は、そりゃあ立派な金の輿に乗って、戦なんて他人事みたいなんだとさ」
「ああ、田楽狭間って谷のあたりかい? あの辺りは、一度大雨が降ると、道がぬかるんで馬も進めなくなる、難儀な場所でな……」
一つ一つは、ただの噂話や農夫のぼやき。
だが、それらは、俺たちの運命を左右する、あまりにも重要な情報だった。
一方、城の奥深く。海の部屋は、さながら織田軍の作戦司令室と化していた。
床一面に広げられた尾張の古地図。壁際に山と積まれた、過去の合戦に関する書物。そして、揺らめく蝋燭の灯りが、地図上の特定の地点を、怪しく照らし出している。
そこは、「田楽狭間」と呼ばれる、狭くて窮屈な谷だった。
「……来たわね」
深夜、泥だらけの姿で戻ってきた空から報告を受け取ると、海は静かに頷いた。
空が持ち帰った、人々から直接聞き出した生の情報を、海は自らが持つ知識と、現代で得た論理的思考で、濾過し、分析し、再構築していく。
「空の情報通り、敵本陣がこの田楽狭間に置かれる可能性は極めて高い。この地形、大軍が油断して布陣すれば、格好の的です」
海は、地図上の谷を、細い指でなぞった。
「そして、大地の記憶にある『雨』。この時期の尾張は、梅雨。南からの湿った空気が山にぶつかり、局地的な豪雨、いわゆるゲリラ豪雨を発生させやすい。……奇襲の条件は、整いつつあります」
報告を終え、空は疲労からその場にへたり込んだ。
「あー、お腹すいたー……。もう、くたくただよー」
その、泥に汚れた頬を見て、俺は思わず、自分の懐から高価な絹の袖を取り出し、彼女の顔を拭ってやろうと手を伸ばした。
「……!」
不意に顔が近づき、空が驚いたように息を呑む。俺も、彼女の大きな瞳を間近に見て、心臓がトクンと跳ねた……気まずい沈黙。
その時、俺たちの間に、すっと白い手が差し出された。
濡れた手ぬぐいを持った、海の手だった。
「……殿の御召し物を、汚してはなりませぬ」
海は、表情一つ変えずにそう言った。その声は平坦だったが、なぜか俺には、ほんの少しだけ棘があるように聞こえた。
「むー……」
空は少しだけ頬を膨らませたが、大人しくその手ぬぐいを受け取った。
張り詰めた空気の中の、ほんの束の間の、奇妙な三角関係。
だが、俺たちはすぐに、目の前の現実へと引き戻された。
海が、地図の一点を、強い意志を込めて指し示す。
「問題は、タイミングです。その『雨』が、いつ、どれだけの規模で降るのか。それを見極めなければ、我々に勝機はありません」
奇跡への助走は、ほぼ終わった。
あとは、天が、俺たちに微笑むかどうか。
俺たちは、言葉なく、互いの顔を見合わせた。
三人の心臓の鼓動だけが、やけに大きく部屋に響いていた。
41
あなたにおすすめの小説
戦国鍛冶屋のスローライフ!?
山田村
ファンタジー
延徳元年――織田信長が生まれる45年前。
神様の手違いで、俺は鹿島の佐田村、鍛冶屋の矢五郎の次男として転生した。
生まれた時から、鍛冶の神・天目一箇神の手を授かっていたらしい。
直道、6歳。
近くの道場で、剣友となる朝孝(後の塚原卜伝)と出会う。
その後、小田原へ。
北条家をはじめ、いろんな人と知り合い、
たくさんのものを作った。
仕事? したくない。
でも、趣味と食欲のためなら、
人生、悪くない。
扱いの悪い勇者パーティを啖呵切って離脱した俺、辺境で美女たちと国を作ったらいつの間にか国もハーレムも大陸最強になっていた。
みにぶた🐽
ファンタジー
いいねありがとうございます!反応あるも励みになります。
勇者パーティから“手柄横取り”でパーティ離脱した俺に残ったのは、地球の本を召喚し、読み終えた物語を魔法として再現できるチートスキル《幻想書庫》だけ。
辺境の獣人少女を助けた俺は、物語魔法で水を引き、結界を張り、知恵と技術で開拓村を発展させていく。やがてエルフや元貴族も加わり、村は多種族共和国へ――そして、旧王国と勇者が再び迫る。
だが俺には『三国志』も『孫子』も『トロイの木馬』もある。折伏し、仲間に変える――物語で世界をひっくり返す成り上がり建国譚、開幕!
俺しか使えない『アイテムボックス』がバグってる
十本スイ
ファンタジー
俗にいう神様転生とやらを経験することになった主人公――札月沖長。ただしよくあるような最強でチートな能力をもらい、異世界ではしゃぐつもりなど到底なかった沖長は、丈夫な身体と便利なアイテムボックスだけを望んだ。しかしこの二つ、神がどういう解釈をしていたのか、特にアイテムボックスについてはバグっているのではと思うほどの能力を有していた。これはこれで便利に使えばいいかと思っていたが、どうも自分だけが転生者ではなく、一緒に同世界へ転生した者たちがいるようで……。しかもそいつらは自分が主人公で、沖長をイレギュラーだの踏み台だなどと言ってくる。これは異世界ではなく現代ファンタジーの世界に転生することになった男が、その世界の真実を知りながらもマイペースに生きる物語である。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
MP
ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
うちの冷蔵庫がダンジョンになった
空志戸レミ
ファンタジー
一二三大賞3:コミカライズ賞受賞
ある日の事、突然世界中にモンスターの跋扈するダンジョンが現れたことで人々は戦慄。
そんななかしがないサラリーマンの住むアパートに置かれた古びた2ドア冷蔵庫もまた、なぜかダンジョンと繋がってしまう。部屋の借主である男は酷く困惑しつつもその魔性に惹かれ、このひとりしか知らないダンジョンの攻略に乗り出すのだった…。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる