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第七章: 天下への道とスローライフの夢
閑話⑥ 秘密の共有
しおりを挟む 岐阜城の一角、あてがわれた一室の空気は、鉛のように重く澱よどんでいた。
季節は秋だというのに、私の心は小谷の雪の中に置き去りにされたままだ。
愛する夫・長政様は自害し、炎の中に消えた。
そして今日、追い打ちをかけるような無慈悲な報せが届いた。
継子である万福丸が、兄・信長の命により処刑されたと……
「……鬼」
乾いた唇から呪詛のような言葉が漏れる。
かつては不器用ながらも優しかった兄上。
けれど、今の兄上は違う。
天下という修羅の道を行くために、血も涙もない魔王に成り果ててしまった。
夫を奪い、あんなに幼い子供の命さえも奪うなんて……
(死んでしまいたい……)
膝の上で握りしめた手の中で、小さな守り刀が冷たく光る。
三人の娘たち茶々、初、江がいなければ、とっくに後を追っていただろう。
けれど、生きてこの地獄を味わい続けることが、織田の女の定めだというのなら、あまりにも残酷すぎる。
その時、障子の外から声がかかった。
「お市様。吉乃と、帰蝶にございます」
兄の側室と正室。
今の私には、最も会いたくない勝者側の人間たち。
「……会いたくありませぬ。誰とも」
拒絶の言葉を投げつけるが、二人は引き下がらなかった。
「どうしても、お伝えせねばならぬ儀がございます」
「……お市様。侍女たちは全て遠ざけました。
今、ここには我ら三人しかおりませぬ」
静かな、しかし強い意志を感じさせる声。
私は溜息をつき、力なく障子を開ける許可を出した。
入ってきた二人の顔を見て、私は息を呑んだ。
勝者の驕りなど微塵もない。
吉乃殿は泣き腫らしたような目で、帰蝶殿は張り詰めた糸のような真剣な眼差しで私を見つめていた。
「……何の用ですか。敗軍の将の妻を、笑いに来たのですか」
私の刺々しい言葉に吉乃殿は首を横に振り、私の冷え切った両手を強く握りしめた。
その手は、驚くほど温かかった。
「お市様。今からお話しすることは、どうか、墓場まで持っていくと誓ってください」
「……?」
帰蝶殿が音もなく私のそばに寄り、声を潜めて囁いた。
「万福丸様は……生きておられます」
時が、止まった気がした。
何を言われたのか、理解するのに数秒を要した。
「……な……え……?」
「兄上は……殿は、万福丸様を殺してなどおりませぬ」
帰蝶殿が淡々と、しかし熱のこもった口調で真実を語り始めた。
兄上が処刑を命じたふりをして、実は密かに助命を指示したこと。
木下藤吉郎という男が偽の首を用意し、悪役を被って万福丸を誰も知らぬ遠国の寺へと逃したこと。
「殿は恐れておいででした。
幼子を殺めることで、人の心を失ってしまうことを。
そして何より……お市様のお心が、これ以上壊れてしまうことを」
「そんな……」
吉乃殿が、涙を浮かべて微笑む。
「大ちゃん……ううん、上様はね、震えてたよ。
『俺は鬼になんかならない。お市を悲しませたくない』って。
だから、これは殿と藤吉郎殿、そして私たちだけの秘密なの」
私の中に築き上げられていた「冷酷な魔王」の虚像が、音を立てて崩れ落ちていく。
そこから現れたのは、昔と変わらない不器用で、甘くて……そして誰よりも優しい私の兄の姿だった。
「あに、うえ……っ!」
憎んでいた。呪っていた。
けれど、兄上は震える手で必死に私とあの子を守ってくれていたのだ。
「申し訳ありませぬ……! 兄上……!」
私は吉乃殿の胸に顔を埋め、今度は絶望ではなく、感謝と懺悔の涙を流した。
吉乃殿は、赤子をあやすように優しく私の背中を撫でてくれた。
…………その一部始終を、隣室との境にある襖の、僅かな隙間から見つめる小さな瞳があった。
お市の長女、茶々だった。
聡明な彼女は、母の悲しみも、父を奪った伯父・信長への憎しみも、幼いながらに誰よりも深く理解していた。
「織田は敵だ」
そう、幼心に刻み込んでいたはずだった。
けれど、今聞いた話は茶々の世界を根底から覆した。
(伯父上様は……お兄様を、助けてくださった……)
恐ろしい鬼だと思っていた伯父上。
けれど、本当は母上を泣かせまいと、嘘をついてまで守ってくれた。
そして、もう一人。
(木下藤吉郎……あの、猿のような顔をした男の人)
城内で何度か見かけたことがある。
いつも卑屈な笑みを浮かべ、皆から軽んじられていた男。
母上も「油断のならぬ男」と嫌っていた。
でも、その男が悪者の仮面を被って、兄である万福丸を逃してくれたのだという。
(すごい……)
茶々の胸に芽生えたのは、史実の彼女が抱くはずだった「憎悪」とは正反対の感情だった。
それは、幼い憧れにも似た「畏敬」と、淡い「好意」
(あの人は、お兄様の命の恩人……。見た目は猿でも、心は英雄なんだわ)
茶々は、ギュッと着物の裾を握りしめた。
隣ですやすやと眠る妹の初と江を見る。
(言わない……初にも、江にも。
これは、大人たちの秘密。
私が黙っていれば、お兄様は生きられる。
母上も、伯父上も守れる)
早熟な少女は、小さな胸に大きな秘密を抱え、大人たちの「共犯者」となることを誓った。
その瞳には、かつての暗い憎しみの色はなく、未来を見据える強い光が宿っていた。
そして、いつかあの「英雄」に礼を言おうと、密かに心に決めたのだった。
◇
吉乃殿と帰蝶殿が去った後。
私は一人、縁側へと出た。
雨上がりの夜空には、澄み渡った月が輝いている。
小谷の空とも、遠い寺の空とも、繋がっている月だ。
もう、死にたいとは思わない。
兄上のくれた命、藤吉郎殿が繋いでくれた命。
無駄にはできない。
「……万福丸」
月に語りかけるように、愛しい名を呼ぶ。
「生きていて……生きていれば、いつか」
風が、木々を揺らす。
それはまるで、遠い場所からの返事のように優しく私の頬を撫でた。
私は手を合わせた。
いつか訪れるかもしれない、再会の日を夢見て。
その横顔は敗北者のそれではなく、戦国の世を生き抜く母の強く美しい顔に戻っていた。
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