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第九章:本能寺エスケープ ~史上最大の「退職」計画~
第43話 本能寺の変(表) ~敵は本能寺にあり~
しおりを挟む天正十年、六月二日。未明
その瞬間は、唐突に訪れた。
静寂に包まれていた本能寺の境内に、乾いた銃声が轟き、無数の蹄の音が地響きとなって押し寄せたのだ。
バンッ! バンッ!
「敵襲! 敵襲ーッ!」
警護の兵たちの悲鳴と怒号
俺、織田信長こと緑野大地は、寝所の中でその音を聞いていた。
布団から跳ね起きる。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
ついに、始まった。
俺たちの運命を分かつ、最後にして最大の「大芝居」が……
障子が荒々しく開け放たれ、小姓の森蘭丸が転がり込んでくる。
彼は、この計画を知る数少ない共犯者の一人だ。
「上様! 謀反にございます!
軍勢が、本能寺を完全に包囲しております!」
蘭丸の顔は蒼白だが、その瞳は強い意志で輝いている。彼もまた、命がけでこの茶番劇を演じきろうとしているのだ。
俺は、あえて驚いたふりをして問いかけた。
「……誰だ。誰の指図だ」
「旗印は、水色桔梗!
……明智日向守、光秀殿にございます!」
その名を聞いた瞬間、俺の口元に自然と笑みが浮かんだ。
自嘲ではない。安堵と感謝の笑みだ。
「……そうか。是非もなし」
俺は呟いた。
よくぞ来た、十兵衛。
お前は約束通り、俺を殺しに来てくれたのだな。
◇
俺は弓を掴み、広縁へと飛び出した。
外は、既に明智軍の兵たちで溢れかえっていた。
松明の明かりが闇を焼き、鬨の声が鼓膜を震わせる。
「我こそは織田信長なり! かかってまいれ!」
俺は矢を番え、闇雲に放った。
ヒョウッ!
放たれた矢は、兵たちの盾に突き刺さる。
これは演技だ。だが、手加減は許されない。
俺が本気で抵抗する姿を見せなければ、天下を欺くことはできない。
明智兵たちも、まさかこれが「主君逃走のための狂言」だとは知らされていない。彼らは本気で俺を殺しに来ている。
殺気……恐怖……硝煙の匂い……
戦場のリアリティが、俺の肌を焼く。
二の矢、三の矢……やがて、弦がブツリと切れた。
俺は弓を投げ捨て、次は槍を手に取る。
「蘭丸! 女房衆を逃がせ!
『上様は自害なされる』と触れて回れ!」
「はっ!」
蘭丸が駆け出す。
彼は、寺にいる無関係な侍女たちを裏口から逃がすと同時に、「信長死亡説」を確定させるための証言者をばら撒く役割を担っている。
その時、包囲軍の向こうから、悲痛な叫び声が聞こえた。
「かかれぇぇッ!
敵は……敵は本能寺にありぃぃッ!」
明智光秀の声だ。
その声は、憎しみに燃える逆賊の咆哮には聞こえなかった。
愛する主君を永遠に失う悲しみと、それでも主君を救わんと欲する決死の覚悟……涙で濡れた、魂の絶叫だった。
(聞こえているぞ、十兵衛……!)
俺は、槍を振るいながら、心の中で彼に呼びかけた。
ありがとう……俺のために、天下の大罪人になってくれて。
この借りは、一生かかっても返せない。
火の手が上がった、本堂の方角から紅蓮の炎が夜空を焦がし始める。
熱風が頬を打ち、黒煙が視界を遮る。
潮時だ、俺は槍を捨て燃え盛る炎を背にして奥殿へと退いた。
そこには、旅装束に身を包んだ空と海が待っていた。
「大ちゃん!」
「殿、ご無事ですか!」
二人の顔は煤で汚れ、瞳には恐怖と焦燥が浮かんでいる。
だが、互いの手を固く握りしめ、決して離そうとはしていない。
「ああ。十兵衛が、派手にやってくれたおかげだ。
誰も、俺たちが逃げるなんて思っちゃいない」
俺は、荒い息を整えながら言った。
海が、床の間の掛け軸を剥ぎ取る。
その奥の壁には、巧妙に隠された回転扉のスイッチがあった。
彼女がそれを押し込むと、ゴゴゴ……と重い音を立てて、壁の一部が開き、暗い闇への入り口が姿を現した……地下通路、海が京の屋敷の改築工事に紛れて、密かに掘らせておいた脱出ルートだ。
「さあ、急ぎましょう。火が回れば、この部屋も崩れ落ちます」
海が先導しようとする。
その時、背後の障子が開き、蘭丸が飛び込んできた。
彼の白い小袖は、返り血と煤で赤黒く染まっていた。
「上様! 時間を稼ぎました!
明智の兵たちは、上様がこの部屋で自害されたものと信じ込んでおります!」
「よくやった、蘭丸! さあ、お前も来い!」
俺は蘭丸の手を引こうとした。
だが、蘭丸はその場から動こうとしなかった。
彼は、静かに首を横に振ったのだ。
「……いいえ。私は、ここに残ります」
「なっ……何を言っている!?」
蘭丸は、炎に照らされた顔で、美しく、そして悲しげに微笑んだ。
「誰かが、ここで死なねばなりません。
明智の兵が入ってきた時、誰もいなければ、抜け穴が露見する恐れがあります。
私が上様の介錯を務め、その後を追って果てた……その死体が必要です」
「馬鹿なこと言うな! 一緒に逃げるんだ!
そんなの、俺が許さない!」
俺が叫ぶが、蘭丸は一歩下がった。
「上様……いいえ、大地様。
貴方様には、たくさんの夢を見させていただきました。
天下布武、安土の城、そして、争いのない平和な世……
その夢の続きを生きるのは、貴方様と、お二方です」
彼は、深々と平伏した。
「私の命は、貴方様にお預けした時から、この日のためにありました。
……どうか、お幸せに……私の最愛の主君」
「蘭丸ッ!!」
俺が手を伸ばそうとした瞬間、轟音と共に天井の一部が崩落し、俺と蘭丸の間を炎の壁が遮った。
「行ってくださいッ!!」
炎の向こうで、蘭丸が絶叫する。
彼は刀を抜き、迫りくる明智兵の方へと向き直った。
俺は、血が出るほど唇を噛み締めた。
涙が溢れて止まらない。
俺の自由のために、十兵衛は汚名を被り、蘭丸は命を捨てる。
なんて多くの犠牲の上に、俺の「スローライフ」はあるんだ。
「……大ちゃん、行こう! 蘭丸くんの想いを無駄にしちゃダメ!」
空が泣きながら俺の腕を引っ張る。
「殿! 今、行かねば、全員死にます!」
海も悲痛な声で叫ぶ。
俺は、炎の向こうの少年の影に向かって、心の中で詫び、そして感謝した。
(ありがとう、蘭丸。お前のこと、一生忘れない……!)
俺は踵を返し、暗い地下通路へと飛び込んだ。
空と海がそれに続く。
最後に海が仕掛けを作動させ、重い扉が閉ざされた。
その瞬間、外の轟音と熱気が遮断され、俺たちは完全な闇と静寂の中に閉じ込められた。
頭上では、「織田信長」という歴史上の巨人が、炎の中で死んでいく。
俺の抜け殻。俺の虚像。
第六天魔王は、本能寺の炎と共に灰になる。
そして、今ここにあるのは、全てを捨て、ただの人間へと還っていく「緑野大地」と、二人の幼馴染だけ。
暗い、カビ臭い地下道。
俺たちは、手探りで前へと進み始めた。
この長い闇の先に、本当に光があるのかどうか、今はまだ分からない。
ただ、背中には蘭丸の命が、胸には光秀との約束がある。
立ち止まることなど、許されなかった。
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