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最終章:その後の三人 ~戦国スローライフ、ここに極まれり~
第46話 山崎の戦い、友の死と新しい名前
しおりを挟む 本能寺の変から、半月が過ぎようとしていた。
俺たちは、京から北西へ数日の距離にある、丹波の山奥の寒村に身を寄せていた。
ここはかつて明智光秀が治めた領地だが、山深い僻地ゆえに、中央の喧騒は嘘のように遠い。
「……よいしょ、っと」
俺は、鉈を振り下ろし、薪を割った。
カーン! という小気味よい音が静かな山間に響く。
手には、剣ダコとは違う、新しいマメがいくつも潰れては固まっていた。
今の俺の名は「大吉」
戦火を逃れて流れてきた、元商家の手代という設定だ。
住まいは、村外れにある廃屋同然の空き家。
天井には穴が空き、床はきしみ、夜になれば隙間風が容赦なく吹き込むボロ家だ。
天下人・織田信長としての暮らしとは、天と地ほどの差がある。
絹の着物は麻の着物に、山海の珍味は麦飯と漬物に……
家臣たちの傅く声は、虫の音と風の音に変わった。
だが、俺は不思議と不満を感じていなかった。
薪を割り、水を汲み、畑を耕す。
生きるために体を動かす、その単純な疲労が俺の頭から『天下』という重い枷かせを削ぎ落としてくれるようだった。
「おーい、大ちゃん……じゃなくて、大吉さーん! お昼だよー!」
畑の方から、手拭いを姉さん被りにした空、今は『お空』が手を振っている。
その顔は泥で汚れているが、日焼けした肌は健康的で、以前よりも生き生きとして見えた。
「はいはい、今行くよ」
俺は汗を拭い、縁側へと戻った。
そこには海、今は『お島』が、質素な膳を用意して待っていた。
「今日のおかずは、村の方に頂いた大根の葉の炒めものと、川魚の塩焼きです……塩加減、少し控えめにしてみました」
海もまた、豪華な打掛を脱ぎ捨て、地味な着物に身を包んでいる。
最初は竈の火付けにも苦労していた彼女だが、持ち前の器用さと分析力で、今では立派に「商家のしっかり者の女房」を演じきっている。
「いただきます」
三人で手を合わせ、粗末な食事を口にする。
魚は小骨が多いし、麦飯はパサパサしている。
だが、美味い。
毒見役もいない。
政務の話もしなくていい。
ただ「美味しいね」と言い合える、この時間が何よりも贅沢だった。
◇
だが、そんな穏やかな時間は、一本のニュースによって破られた。
村に、塩売りの行商人がやってきたのだ。
彼は、京の都で起きた「天下分け目の大戦」の話を、興奮気味に語って聞かせた。
「いやぁ、凄まじい戦だったそうでさぁ!
あの日、本能寺で信長公を討った明智光秀様ですがね……」
俺たちの箸が、ピタリと止まる。
「中国大返し、ってやつですよ!
備中高松にいたはずの羽柴秀吉様が、まるで神速の如き速さで京へ戻ってきたんです!
そして、山崎の地で明智軍と激突しましてな……」
羽柴秀吉……藤吉郎
あいつが、戻ってきたのか。
俺の死を知って、毛利との戦を即座にまとめ、全軍を率いて駆け戻ってきた。
常識では考えられないスピードだ。
(……あいつ、気づいてやがったな)
俺は直感した。
秀吉は、俺が本能寺で「死んだふり」をしたこと、あるいは光秀が汚名を被ったことを、薄々勘付いているのではないか。
だからこそ、迷いなく「主君の仇討ち」という最大の大義名分を掲げ、天下取りのレースに躍り出たのだ。
「そ、それで……明智様は?」
海が、震える声で尋ねる。
行商人は、首を横に振った。
「負けましたよ。多勢に無勢、総崩れですわ。
光秀様は敗走の途中、落ち武者狩りの農民に竹槍で突かれて……無念の最期を遂げられたとか」
カラン……
空の手から、茶碗が滑り落ちた。
俺は、息をするのを忘れていた。
十兵衛が、死んだ。
俺を逃がすために。
俺の自由と引き換えに、逆賊の汚名を着て、泥の中で死んだ。
目の前が真っ暗になった。
激しい耳鳴りがする。
俺は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で食いしばった。
ここで取り乱してはならない。
俺は「大吉」だ。天下人の死に一喜一憂するただの庶民でなければならない。
「……そう、ですか。
乱世とは……怖いものですねぇ……」
俺は喉から血が出るような思いで、その言葉を絞り出した。
行商人が去った後、俺たち三人は無言で家の中に入った。
◇
その夜、俺たちは裏庭に小さな石を積んで、墓を作った。
誰の墓とは書かない。
だが、俺たちの心の中には、明智光秀と森蘭丸の姿があった。
「……すまん、十兵衛。すまん、蘭丸」
俺は、地面に膝をつき、嗚咽を漏らした。
「俺は……お前たちの命を踏み台にして、生き延びた。
俺だけが幸せになって、お前たちは……!」
罪悪感が、どす黒い波となって俺を飲み込む。
俺は本当に、これでよかったのか?
天下人としての責任を放棄し、部下に死を押し付けて逃げた卑怯者ではないのか?
「……大吉さん」
海が、静かに俺の隣に座った。
彼女の瞳も潤んでいるが、その視線は真っ直ぐに石を見つめている。
「自分を責めてはいけません。
それをすれば、彼らの覚悟を、貴方が否定することになります」
「……海……」
「光秀殿は、貴方を救うことを選びました。
蘭丸は、貴方の夢を守ることを選びました。
それは、彼らが自らの意志で勝ち取った『忠義の極み』です。
貴方が不幸になれば、彼らの死は無駄になります。
貴方が笑って生きることだけが……彼らへの唯一の供養なのです」
海の言葉は、冷たい理屈のようでいて、誰よりも彼らの想いを汲み取っていた。
「そうだよ、大ちゃん」
空が、俺の背中に抱きついた。
「生きよう。
泥水をすすってでも、カッコ悪くても……
私たちが幸せになることが、二人の願いだったんだから」
二人の温もりが、俺の凍りついた心を溶かしていく。
俺は、涙を拭い、夜空を見上げた。
月が出ていた。
あの本能寺の夜と同じ、静かな月だ。
十兵衛。蘭丸。
見ていてくれ。
俺は生きる。
お前たちが守ってくれたこの命、最後の一滴まで使い切って、絶対に幸せになってやる。
「……ああ。そうだな」
俺は立ち上がった。
「『秀吉が勝った』ということは、これからはあいつの時代だ。
戦国の世は、終わりに向かうだろう」
俺が成し遂げられなかった天下統一。
それを、あの猿……秀吉が引き継ぎ、完成させる。
少し悔しい気もするが、不思議と安堵の方が大きかった。
あいつなら、きっとうまくやる。
俺よりもうまく、血を流さずに世を治めるだろう。
「俺たちの『織田信長』としての役目は、終わったんだ」
俺は、改めて二人の顔を見た。
煤けた顔、荒れた手。
だが、そこにはかつてないほど穏やかな光が宿っていた。
「行こう、空、海。
明日は畑の畝を作り直さないといけないし、屋根の修理もしなきゃならない……忙しくなるぞ」
「うん! 大根、いっぱい育てようね!」
「ふふ、今度は雨漏りしないように、しっかり直してくださいね、あなた」
あなた……海にそう呼ばれて、俺は照れくさそうに鼻をかいた。
山崎の戦い……歴史上では、明智光秀の三日天下が終わった日。
そして俺たちにとっては、過去への未練を断ち切り、本当の意味で「名もなき三人」としての人生が始まった日となった。
遠くで、夜明けを告げる一番鶏の声が響いた。
戦国の夜が明け、新しい時代が始まろうとしていた。
その片隅で、俺たちのささやかなスローライフもまた、確かに息づき始めていた。
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