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第九章:本能寺エスケープ ~史上最大の「退職」計画~
第45話 魔王の葬列、名もなき旅立ち
しおりを挟む 夜が、明けた。
東の空が白むと同時に、京の空を覆っていたどす黒い煙が、朝陽に照らされて禍々しい赤紫色へと変貌する。
本能寺は、燃え落ちた。
俺たちがいたあの場所は今、瓦礫と灰の山となり、歴史の彼方へと消え去ったのだ。
俺、緑野大地は、粗末な商人の服をまとい、竹笠を目深に被って街道を歩いていた。
隣には、荷物を背負った手甲脚絆姿の空と海。
どこからどう見ても、戦火を逃れて京を離れる、貧しい行商人の一行にしか見えないだろう。
だが、俺の足取りは鉛のように重かった。
物理的な疲労ではない。
魂が、ごっそりと削ぎ落とされたような喪失感だ。
街道には、明智軍の兵士たちが目を光らせていた。
彼らは必死の形相で、落ち武者狩りを行っている。
「止まれ! 貴様ら、どこへ行く!」
槍を突きつけられた瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。
長年染み付いた『天下人』としての癖で、つい「無礼者!」と怒鳴り返しそうになる。
グイッ
海が、俺の袖を強く引いた。
その痛みで、俺は我に返った。
今の俺は、信長ではない。
ただの、命惜しさに逃げ惑う、名もなき男だ。
「へ、へへぇ……! お、お侍様、お許しくだせぇ……!
あっしらは、若狭から来た海産物の行商人でごぜえます……京で火事があったと聞いて、恐ろしくなって逃げてきたところで……」
俺は地面に額を擦り付け、震える声で媚びへつらった。
泥の味と、草の匂いがする。
これまでの人生で、一度も味わったことのない屈辱。
だが不思議と、胸の奥で何かがスッと軽くなるのを感じた。
兵士は俺の情けない姿と後ろで怯えて抱き合う空と海を一瞥すると、鼻で笑って槍を引いた。
「フン、ただの臆病者か。行け!
上様……いや、信長の残党を見かけたらすぐに知らせろ!」
「は、はいぃぃ! ありがとうございますぅ~!」
俺たちは何度も頭を下げながら、その場を離れた。
兵士たちの背中が遠ざかると、俺は道端の草むらに座り込み大きく息を吐いた。
「……はぁ、はぁ……」
冷や汗で、背中がびっしょりと濡れている。
「……上手でしたよ、大ちゃん」
空が、俺の肩に手を置いた。
彼女の手もまた、小刻みに震えていた。
「あんな情けない声、初めて聞いた……でも、生きてるって感じがした」
海が懐から水筒を取り出し、俺に手渡してくれた。
「見事な演技でした、殿……いいえ、大吉さん」
「大吉……?」
「はい。それが、これからの貴方の名前です。
商家の手代、大吉。
わたくしは、妻のお島。空は妹のお空。
……そういう設定で、関所を抜けます」
大吉……
なんとも安直で、平凡で、めでたい名前だ。
第六天魔王・織田信長の名に比べれば、あまりにも軽く、頼りない。
だが、その軽さこそが、今の俺には救いだった。
「そうか……俺は大吉か」
俺は水を一口飲み、泥だらけの空を見上げた。
遠く京の方角から、早馬が駆けていくのが見える。
その背中の旗指物が、風に揺れている。
『信長、討ち死に!』
誰かの叫び声が、風に乗って聞こえてきた。
「聞いたか! あの魔王が死んだとさ!」
「明智様が討ち取ったらしいぞ!」
「これで、無理な徴兵も終わるか……ありがてぇ、ありがてぇ……」
すれ違う旅人や農民たちが、口々に噂している。
その声には悲しみよりも、安堵と喜びの色が濃かった。
俺は自分の死を喜ぶ声を聞きながら、奇妙な感覚に陥っていた。
怒りはない。悔しさもない。
ただ、「ああ、終わったんだな」という、深い納得だけがあった。
俺が必死に積み上げ守ろうとしてきた『織田信長』という虚像は、民衆にとってはただの恐怖の対象でしかなかった。
その巨人が倒れたことで、世界はまた一つ呼吸を取り戻したのだ。
(……十兵衛。お前は、これを背負う覚悟をしたのか)
民衆は、今は明智を称えるかもしれない。
だが、すぐに秀吉が戻ってくる。
主殺しの逆賊として、光秀が討たれる未来が俺には見えていた。
俺の命を救うために、自らを悪役に堕とした男。
俺の影武者となって、炎の中に消えた少年。
彼らの命の上に、今の「大吉」の命はある。
「……行こう」
俺は立ち上がった。
足の痛みも、心の痛みも、消えることはない。
だが、立ち止まることは許されない。
「どこへ行くの? 海ちゃん」
空が尋ねる。
海は、西の方角を指差した。
「まずは丹波の山奥へ。光秀殿の領地です。
灯台下暗し。混乱の最中、かえって捜索の手が及びにくい場所です。
そこでほとぼりを冷まし……いずれは、海を見に行きましょう」
「海……いいね。広い海が見たいな」
空が、煤だらけの顔で笑った。
その笑顔は、安土城の黄金の天主で見た時よりも、ずっと輝いて見えた。
俺たちは、再び歩き出した。
道なき獣道を、泥にまみれて。
帯刀もしていない。家臣もいない。
金も、権力も、名誉もない。
あるのは、背負ったわずかな荷物と、隣を歩く二人の幼馴染だけ。
だが、俺の胸の中に不思議な高揚感が芽生え始めていた。
明日の天気を気にする自由。
眠りたい時に眠る自由。
そして、愛する女たちと、誰に憚ることなく手をつなぐ自由。
それは、天下人だった頃の俺が、喉から手が出るほど欲しくて、決して手に入らなかったものだ。
ザッ、ザッ、ザッ
土を踏みしめる足音が、俺たちの新しい人生のリズムを刻む。
魔王の葬列は終わった。
ここからは、名もなき男たちの、果てしない旅路だ。
俺は、一度だけ京の方角を振り返り、心の中で小さく「さよなら」を告げると、前を向いた。
その視線の先には、まだ見ぬ「スローライフ」という名の、ささやかで、けれど眩しい光が待っていた。
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