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第3話 綻びる完璧な朝(歩 視点)
しおりを挟む「お父様、賢明なご判断です。これで歩さんの将来も、お二人の老後も安泰ですよ」
麦田さんは、父が差し出した実印と通帳を愛おしそうに見つめた。
父の退職金。
それは、父が四十年間、満員電車に揺られながら家族のために削り出してきた時間の結晶だ。
「竜一くん、よろしく頼むよ。歩のことも、このお金も」
父の声は少し震えていたけれど、どこか晴れやかだった。母も隣で、「これで安心ね」とハンカチを握りしめている。
私はその光景を見て、胸の奥がチリりと痛んだ。
なぜだろう。
波風ひとつ立たない、理想的な結末のはずなのに。
竜一さんの横顔が、朝日を浴びているはずなのに、なぜかどす黒い影を帯びているように見えた。
「……ッ、あああ!!」
突然、麦田さんが短い悲鳴を上げた。
テーブルの下で、テミスが麦田さんの高級スラックスに噛み付いていたのだ。
「テミス! 放しなさい!」
私は慌てて引き離そうとしたが、テミスは離さない。それどころか、麦田さんのブランド物の鞄を前脚で激しく引っかき、床に叩き落とした。
ガシャリ、と嫌な音がして鞄が開く。
中から、数枚の名刺入れと、スマホが二台転がり出た。
「おい、このクソ猫……ッ!!」
耳を疑った。
そこにあったのは、今まで聞いたこともないような、低く、濁った、暴力的な声だった。
麦田さんは反射的にテミスを蹴り飛ばそうと足を振り上げた。
「テミス、危ない!」
私は思わず叫んでテミスを庇った。
私の腕に、麦田さんの革靴が鈍い音を立てて当たる。
「あっ……」
静まり返るリビング。
麦田さんはハッとした表情で足を引っ込め、すぐにいつもの柔和な顔を作った。
「す、すみません、歩さん! 大丈夫ですか? つい、大切な書類を汚されると思って、体が勝手に……」
彼は必死に弁明し、床に散らばった荷物をかき集める。
その時、私は見てしまった。
彼が慌てて拾い上げた名刺入れからこぼれた、別の名刺を。
そこには『経営コンサルタント 佐藤健二』という、全く別の名前が印字されていた。
「竜一さん……その名刺、だれ?」
私の問いに、麦田さんの動きが止まる。
「ああ、これは……仕事で預かっている、知人のですよ。よくあることでしょう?」
彼は笑った。でも、その目は笑っていなかった。
冷たい、蛇のような目が私を射抜く。
父も母も、呆然と彼を見つめている。
「……にゃあ」
私の腕の中で、テミスが静かに鳴いた。
その声は、これまでのような怒りではなく、まるで「やっと気づいたのね」と呆れているようだった。
波風を立てたくなかった。
でも、私の目の前にいるこの人は、一体誰なのだろう。
朝食のパンケーキの甘い香りが、急に吐き気をもよおすような異臭に変わった気がした。
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