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1 カフェオレ頭の彼
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トク、と胸の奥が脈打った。街灯に照らされたその横顔は、間違いなく彼だった。
十一月も余すところあと五日となった今日の気温は、十二月下旬並みだったのだそうだ。夜になって冷え込みはさらに増してきている。
副島糸恵は、カフェの窓際の席でスマホの画面を眺めていた。店の中は暖かいけれど、ガラス越しに伝わる外気温のせいか体の左側だけ少しひんやりとする。
くだらないネットニュースを読んでいる途中で、テーブルの上のカップに手を伸ばしかけてやめた。残り四分の一ほどになったブラックのオリジナルブレンドからは、すでに湯気も香りも立たない。
視線を戻し、時刻を確認すると十九時五十分を回っていた。つまり五十分以上も待っていることになる。
待ち合わせ場所へ向かっている途中に、急なトラブルで少し遅れそうだから、どこか暖かい所で待っていてくれるようにと連絡が届いたのだった。OK、と一旦返し、さらに、待ち合わせ場所からほど近いこの店の名前を伝えた。
糸恵はできるだけ早く会社を出られるように、昨日のうちにやれることは残業して片付け、今日も昼休みを早めに切り上げて仕事をこなしたのだったが、向こうだってわざと遅れているわけではないのだから仕方がない。
思わずため息が漏れる。スマホをテーブルの上に置き、背中を椅子にもたれて見るともなく外に目をやった。すぐ前の交差点では、赤信号に足止めされた人たちが、肩をすくめたりポケットに手を突っ込んだりして色が変わるのを待っている。
その中に、彼はいた。通りの方を向いて、黒っぽいコートを着て立っていた。彼が横を向かなかったら、きっと気づかないままだったのだろう。
頭をもたげつつあったイライラは、込み上げる懐かしさに一瞬にして追いやられた。
愛おしさにも似た懐かしさの中には、微かな痛みが混ざっていた。
* * *
彼と初めて会ったのは、十一年前、大学に入学して間もない頃だった。たしか必修科目の英語の授業の時で、たまたま前の席に座ったのが彼だった。チャラチャラしたヤツ。それが後ろ姿の第一印象だった。彼の髪の色が、カフェオレみたいだったから。
まだ授業が始まる前で教室内がざわついている中、おそらく二、三列後ろ辺りから、「りゅう、りゅう」と誰かを呼ぶ声がした。すると前の席のカフェオレ頭が不意に振り返った。糸恵は思わず顔を上げ、目が合った。が、彼の視線はすぐに後ろへと移り、声をかけた人と親しげに話しだした。
糸恵はなんだか恥ずかしくなってうつむいた。まつ毛が長く、ほんのりと淡い栗色。彼はそんな目をしていた。流暢な日本語で話しているものの、色白の肌といい、顔立ちといい、彼が純粋な日本人でないことは一目瞭然だった。
王子様みたい。
まるで少女のように、糸恵はそんなことを思った。目が合った瞬間から耳まで赤くなっていくのが自分で分かった。糸恵のことなど見ていないのは分かっているけれど、早く前を向いてほしい、そう思いながら、彼が話をしている間、シャープペンシルをいじったりしてずっと下を向いていた。
話を終えても、彼は前を向こうとしなかった。糸恵がおもむろに視線を上げると、彼は待っていたかのように軽く微笑んでから前を向いた。
その日の授業は完全に上の空だった。とったノートを後で見返しても、自分で何を書いたのか全く分からなかった。
以来、糸恵は彼の姿を目で追うようになった。いかにも人目を惹く華やかな雰囲気。女の子のあしらいに慣れた都会の男の子であることは想像に難くない。糸恵の苦手なタイプだ。なのに、気が付けば彼の姿を探しているのだった。来るはずの授業で見かけない日は落胆し、逆に、いつもは見ない時間にたまたま見かけたりすると心が躍った。
「りゅう」と呼ばれていた彼の名前は立花龍之介と言った。いかにも和風のその名前と見た目とのギャップもまた、彼の魅力の一つであることに違いなかった。
糸恵は長崎出身で、大学進学に合わせて上京した。地元にももちろんそれなりに素敵な人はいたし、外国人だっていた。だが、東京という所は格別だった。上京したばかりの糸恵には、街行く人達はみんな洗練されているように見えたし、大学でも東京出身の子はおしゃれで余裕があるように見えたけれど、立花龍之介はそんな中にいても目立っていた。
入学してほどなく、サバサバして物おじしない東京育ちの萌と、岡山出身でおっとりした性格の菜々美と仲良くなった。慣れない都会での生活で萌の存在は頼りになったし、菜々美は菜々美で、同じ地方出身者同士、悩みや不安を共有出来て心強かった。
ある時、急に授業が休講になり、三人で学内のカフェテリアで暇を潰していた。
「これ見て思い出したんだけどさあ、立花龍之介っているじゃない?」
萌は唐突に言って、手に持っていたジュースのパックを二人に見せた。黄色い髪の、外国人の男の子のキャラクターが描かれている。
「誰それ」
一瞬ドキッとした糸恵と違い、菜々美は名前を聞いただけではピンとこないようだった。
「ほら、目立つのいるじゃん。ハーフの」
それを聞いた菜々美は「あ~、あの王子様みたいな人ね」と、糸恵が最初に思ったのと同じ言葉を口にした。きっとたいていの人間は、彼にそういった印象を抱くのだろう。
「糸恵さあ、あいつのこと気になってるでしょ」
萌のまさかの発言に、咄嗟に返す言葉が出てこない。見透かしたように萌は続けた。
「いっつも見ちゃってるじゃん」
「そんなこと……」
立花龍之介に対する気持ちを口にしたことは一度もない。なのに何かと勘のいい萌は気づいていたらしい。気恥ずかしくて、糸恵は口ごもった。
「ああいうタイプ、近付かない方がいいんじゃない?」
そう言って萌はジュースのストローをくわえた。
「どうして?」
菜々美が聞き返す。萌がストローを外すと、ズ、と音がした。
「だって相当モテるでしょ。モデルとかのスカウトマンにもよく声をかけられるらしいよ。顔面入試とかあったら東大に入れるんじゃない? 女なんて選び放題だろうしさ、絶対いっぱい遊んでるって。もしつき合ったとしても絶対泣かされると思う」
萌はまたストローをくわえた。
「誰も、近付くなんて言ってないじゃない。私だって自分の事くらい分かってるから」
そう、自分のことくらい分かっている。立花龍之介とつき合うなんて事態にはなりえるはずがないのだ。萌だって、気をつかって「もしつき合ったとしても」という言い方をしてくれたけれど、きっとそうなるとは思っていない。心配しているのはただ“遊ばれる”ことのほうだ。
「ただ見てるだけだよ。目の保養。だって地元にあんな人いないもん」
「あたしの地元にもいない」
菜々美はそう言った後に、「でもあたしはちょっと苦手かな。なんかリアリティないもん」と付け加えた。立花龍之介にはリアリティがない。たしかにその通りだと思った。どこかで自分たちと同じような日常生活を送っている姿など、まるで想像できないのだった。
十一月も余すところあと五日となった今日の気温は、十二月下旬並みだったのだそうだ。夜になって冷え込みはさらに増してきている。
副島糸恵は、カフェの窓際の席でスマホの画面を眺めていた。店の中は暖かいけれど、ガラス越しに伝わる外気温のせいか体の左側だけ少しひんやりとする。
くだらないネットニュースを読んでいる途中で、テーブルの上のカップに手を伸ばしかけてやめた。残り四分の一ほどになったブラックのオリジナルブレンドからは、すでに湯気も香りも立たない。
視線を戻し、時刻を確認すると十九時五十分を回っていた。つまり五十分以上も待っていることになる。
待ち合わせ場所へ向かっている途中に、急なトラブルで少し遅れそうだから、どこか暖かい所で待っていてくれるようにと連絡が届いたのだった。OK、と一旦返し、さらに、待ち合わせ場所からほど近いこの店の名前を伝えた。
糸恵はできるだけ早く会社を出られるように、昨日のうちにやれることは残業して片付け、今日も昼休みを早めに切り上げて仕事をこなしたのだったが、向こうだってわざと遅れているわけではないのだから仕方がない。
思わずため息が漏れる。スマホをテーブルの上に置き、背中を椅子にもたれて見るともなく外に目をやった。すぐ前の交差点では、赤信号に足止めされた人たちが、肩をすくめたりポケットに手を突っ込んだりして色が変わるのを待っている。
その中に、彼はいた。通りの方を向いて、黒っぽいコートを着て立っていた。彼が横を向かなかったら、きっと気づかないままだったのだろう。
頭をもたげつつあったイライラは、込み上げる懐かしさに一瞬にして追いやられた。
愛おしさにも似た懐かしさの中には、微かな痛みが混ざっていた。
* * *
彼と初めて会ったのは、十一年前、大学に入学して間もない頃だった。たしか必修科目の英語の授業の時で、たまたま前の席に座ったのが彼だった。チャラチャラしたヤツ。それが後ろ姿の第一印象だった。彼の髪の色が、カフェオレみたいだったから。
まだ授業が始まる前で教室内がざわついている中、おそらく二、三列後ろ辺りから、「りゅう、りゅう」と誰かを呼ぶ声がした。すると前の席のカフェオレ頭が不意に振り返った。糸恵は思わず顔を上げ、目が合った。が、彼の視線はすぐに後ろへと移り、声をかけた人と親しげに話しだした。
糸恵はなんだか恥ずかしくなってうつむいた。まつ毛が長く、ほんのりと淡い栗色。彼はそんな目をしていた。流暢な日本語で話しているものの、色白の肌といい、顔立ちといい、彼が純粋な日本人でないことは一目瞭然だった。
王子様みたい。
まるで少女のように、糸恵はそんなことを思った。目が合った瞬間から耳まで赤くなっていくのが自分で分かった。糸恵のことなど見ていないのは分かっているけれど、早く前を向いてほしい、そう思いながら、彼が話をしている間、シャープペンシルをいじったりしてずっと下を向いていた。
話を終えても、彼は前を向こうとしなかった。糸恵がおもむろに視線を上げると、彼は待っていたかのように軽く微笑んでから前を向いた。
その日の授業は完全に上の空だった。とったノートを後で見返しても、自分で何を書いたのか全く分からなかった。
以来、糸恵は彼の姿を目で追うようになった。いかにも人目を惹く華やかな雰囲気。女の子のあしらいに慣れた都会の男の子であることは想像に難くない。糸恵の苦手なタイプだ。なのに、気が付けば彼の姿を探しているのだった。来るはずの授業で見かけない日は落胆し、逆に、いつもは見ない時間にたまたま見かけたりすると心が躍った。
「りゅう」と呼ばれていた彼の名前は立花龍之介と言った。いかにも和風のその名前と見た目とのギャップもまた、彼の魅力の一つであることに違いなかった。
糸恵は長崎出身で、大学進学に合わせて上京した。地元にももちろんそれなりに素敵な人はいたし、外国人だっていた。だが、東京という所は格別だった。上京したばかりの糸恵には、街行く人達はみんな洗練されているように見えたし、大学でも東京出身の子はおしゃれで余裕があるように見えたけれど、立花龍之介はそんな中にいても目立っていた。
入学してほどなく、サバサバして物おじしない東京育ちの萌と、岡山出身でおっとりした性格の菜々美と仲良くなった。慣れない都会での生活で萌の存在は頼りになったし、菜々美は菜々美で、同じ地方出身者同士、悩みや不安を共有出来て心強かった。
ある時、急に授業が休講になり、三人で学内のカフェテリアで暇を潰していた。
「これ見て思い出したんだけどさあ、立花龍之介っているじゃない?」
萌は唐突に言って、手に持っていたジュースのパックを二人に見せた。黄色い髪の、外国人の男の子のキャラクターが描かれている。
「誰それ」
一瞬ドキッとした糸恵と違い、菜々美は名前を聞いただけではピンとこないようだった。
「ほら、目立つのいるじゃん。ハーフの」
それを聞いた菜々美は「あ~、あの王子様みたいな人ね」と、糸恵が最初に思ったのと同じ言葉を口にした。きっとたいていの人間は、彼にそういった印象を抱くのだろう。
「糸恵さあ、あいつのこと気になってるでしょ」
萌のまさかの発言に、咄嗟に返す言葉が出てこない。見透かしたように萌は続けた。
「いっつも見ちゃってるじゃん」
「そんなこと……」
立花龍之介に対する気持ちを口にしたことは一度もない。なのに何かと勘のいい萌は気づいていたらしい。気恥ずかしくて、糸恵は口ごもった。
「ああいうタイプ、近付かない方がいいんじゃない?」
そう言って萌はジュースのストローをくわえた。
「どうして?」
菜々美が聞き返す。萌がストローを外すと、ズ、と音がした。
「だって相当モテるでしょ。モデルとかのスカウトマンにもよく声をかけられるらしいよ。顔面入試とかあったら東大に入れるんじゃない? 女なんて選び放題だろうしさ、絶対いっぱい遊んでるって。もしつき合ったとしても絶対泣かされると思う」
萌はまたストローをくわえた。
「誰も、近付くなんて言ってないじゃない。私だって自分の事くらい分かってるから」
そう、自分のことくらい分かっている。立花龍之介とつき合うなんて事態にはなりえるはずがないのだ。萌だって、気をつかって「もしつき合ったとしても」という言い方をしてくれたけれど、きっとそうなるとは思っていない。心配しているのはただ“遊ばれる”ことのほうだ。
「ただ見てるだけだよ。目の保養。だって地元にあんな人いないもん」
「あたしの地元にもいない」
菜々美はそう言った後に、「でもあたしはちょっと苦手かな。なんかリアリティないもん」と付け加えた。立花龍之介にはリアリティがない。たしかにその通りだと思った。どこかで自分たちと同じような日常生活を送っている姿など、まるで想像できないのだった。
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