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1 運命の(?)再会
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短く最後の挨拶を終えると、大きな花束を抱え、遠慮がちな拍手に送られながら、沢井奈瑠は自分のいた部署を後にした。
廊下に出るとすぐ、申し訳程度に作っていた笑顔を消して軽くため息を吐く。奈瑠がどんな顔をしたらいいのかわからないのだから、周りはもっとそうだろう。
エレベーターホールにはちょうど空のエレベーターが停まっていてすんなりと乗り込んだ。待っている間に誰かと顔を合わせるのもバツが悪いので助かった。
やがて一階に着き、扉が開く。広いロビーへと足を踏み出し、もう二度とここへ来ることもない、と思う。感慨とか寂しさとかではなく、ただ、そう思った。
男性が二人、エントランスを入って来た。一人は普通に前を向いて歩いて来る。もう一人は、うつむきがちに。
どちらとも目を合わすことなくすれ違った。が、奈留はつと立ち止まり、振り返って名前を呼んだ。
「保之」
彼は足を止めると、ゆっくりと、神妙な面持ちで振り返った。
ロビーの真ん中で、黙って見つめ合う。
周りの人たちが、それとなく、でも興味深げにこちらを窺っているのがわかる。保之と一緒に入って来た男性も、先に行ってエレベーターを待つふりをしているけれど、きっと神経はこちらに集中させているに違いない。
奈瑠は静かに保之の前へと進み出た。そして、左腕に抱えていた花束を右手に持ち替えると、保之の左頬に思いっきり叩きつけた。
花びらと一緒にほのかな香りが舞う。
保之は顔を横に向けたまま、眉根を寄せて黙っている。
周りの人間がもうあからさまにこっちを見ている中、奈瑠はくるりと踵を返すと、まっすぐ前を向き、靴音を響かせながらロビーを後にした。
いつもの道からは少し外れた先にある公園のベンチに腰を下ろし、目の前の風景を眺めるともなく眺める。
あとしばらくすれば、この広い公園の桜の木も満開の花を咲かせるだろう。そして行きかう人たちは笑顔でそれを見上げるのだ。なんだか、世の中の人みんなが自分より幸せに思えた。
ふと、赤ちゃん連れの母親の姿が目に留まる。保之を奪った女も、やがてあんな風にベビーカーを押すのだろうか。
違う部署で、顔は知っている程度だった保之と親しくなったのは、三年ほど前、お互いの部署合同でのプロジェクトに二人が携わったのがきっかけだった。優秀で、誠実な印象の人だった。かと言ってカタブツというわけではなく、難しい専門用語などは冗談を交えてやさしく説明してくれたりして、話していて楽しかった。
二人の距離が急激に縮まったのは打ち上げの飲み会の席だった。それまではしたことのなかったプライベートな話もして、連絡先も交換した。先に聞いてきたのは保之の方だったが、正直うれしかった。ただ酒席の勢いもあったので、後日改めて食事に誘われたときはもっとうれしかった。そうやって二人はつき合うようになり、たまに喧嘩することはあっても関係が壊れることはなく、去年ついにプロポーズされたのだった。奈瑠にとって保之は運命の人、のはずだった。
あの日、保之が結婚できないと言って土下座をした日、「わかった」と言って指輪を投げつけたものの、勢いにまかせた部分もあって、まさか本当にそれで二人が終わってしまうとは思っていなかった。
頭が真っ白で何も考えられなかったけれど、二人で積み上げてきたものがそんなに簡単に崩れてしまうなんてありえなかった。小さい喧嘩はたくさんしてきたし、売り言葉に買い言葉で別れを口にしたことだってある。それでも、二人は二人のままだった。
保之が「嘘に決まってるだろう」と言って笑いかけてくる夢を何度も見た。けれど実際にはそんな日はやって来なかった。
保之は式場をキャンセルしたり、方々に頭を下げて回ったりして、結婚を取り消すことに奔走していた。
奈瑠は自分だけが現実の外に放り出され、置いてけぼりにされたような気持ちだった。
相手の女は「堕ろせって言うなら死ぬ」と言ったらしいが、じゃあ奈瑠が「別れるって言うなら死ぬ」と言ったら保之はどうしただろう。きっと言ったところで結果は変わらなかっただろうが、それでも、どうせならもっと困らせてやればよかったとも思う。
二人の結婚が土壇場でダメになったという噂は、その理由も含めてたちまち社内に広がった。興味本位でわざわざ慰めを言いに来る人もいたが、たいていはかける言葉を見つけられずに、腫れ物にさわるようにして奈瑠に接した。
(まだ若いんだし、これからまだまだ出会いはあるよ)
そう言ってくれた人も少なからずいた。だが言われるほど若くはない。今年の誕生日がくれば三十二だ。
(結婚前にわかってよかったじゃない。籍入れたあとだったら悲惨だよ)
それは、そうなのかもしれない。
(世の中にはもっとひどい目に遭ってる人がたくさんいるんだよ。結婚がダメになるなんて別に珍しい話じゃないし、そのうちいいことあるって)
言われなくてもそんなことは十分わかっている。これから何十年も生きればうれしいとか楽しいとか思えることもあるだろうし、憎しみとか未練とか、言葉で言い表しがたい澱んだ気持ちも、いつかは時間が解決してくれるのだろう。それも頭ではわかっている。わかってはいても、一方では持て余してしまうほどに辛いのだ。この感情をどこに持っていけばいいのか見当もつかない。
今までだって辛いことはいろいろあった。だがその度にどうにか乗り越えてきた。友達に延々と愚痴を聞いてもらったり、飲んでカラオケでパーっと騒いだり、後先考えずに買い物をしてみたり。けれど今回は今までとは勝手が違う。そういうことをしてみる気にもなれないのだ。
何でも話せた学生時代からの親友は、「いつでも電話していいんだからね」と言ってくれているものの、今は自分の家庭を持ち、子育てに追われている。昔のように甘えられるはずもない。
(退職願、取り下げたらどうだ。人事の方には僕から話をするから。君はただ堂々としていればいいんだ)
部長はそう言ってくれたけれど、どうしてもそんな気にはなれなかった。保之のバンコクへの赴任が内定していたから、辞めて一緒に行くことになっていたのだ。
わりと名の知れた大学を出て、「いいところにお勤めですね」と言われる会社に就職した。運もあったにせよ、もちろん努力もした。いいことばかりではなかったけれど、楽しいこともあったし、それなりにやりがいも感じていた。
そんな仕事を辞めることに全く悩まなかったと言えば嘘になる。それでも、保之と一緒に行く道を選んだ。そして、その保之に裏切られた。
住む所だってもうすぐなくなる。今住んでいるマンションは四月末が契約更新なのだが、更新しない旨早めに不動産会社に伝えてあった。五月には結婚式をあげ、その後すぐにバンコクへと発つ予定だったから、それまでの間は保之のマンションで暮らすことにしていたのだ。結婚が無しになったあと、やはり契約更新したいと申し出たが、何かと条件のいい物件のため、既に次の入居者が決まっていて無理だった。
三月は有給休暇の消化もあって会社へはあまり行っていなかったけれど、かと言って新しい部屋を探す気力も湧いてこなかった。
ろくな食事もとらず、ベッドから起き上がることすら億劫で、顔も洗わない、シャワーも浴びない、着替えもしない、どうしてもトイレが我慢できなくなったときだけ起き上がる、そんな生活だった。
実家は電車を乗り継いで一時間ほどの場所だが、帰ろうとは思わなかった。
奈瑠は両親にとって初めての子どもで、実の母は、奈瑠を産んですぐに亡くなった。だからきょうだいはいない。今実家には、父と、その奥さんのみや子さんがいる。大学教授である父は穏やかな人だが、自分の仕事に何よりも没頭してしまうタイプで、一般的ないい父親とは言い難かった。結婚がダメになったと報告した時も、静かに「そうか。残念だったね」と言っただけだった。
父とみや子さんとは、奈瑠が二十歳を過ぎてから結婚した。みや子さんは明るくさっぱりした人で、別に結婚に反対ではなかったけれど、さすがにその歳にもなって他人と暮らすことは気が進まなかった。だからそれを機に一人暮らしを始めたのだったが、たまには実家に顔を出すし、関係が悪いわけではない。ただ、落ち着ける場所とは言い難いのだ。
奈瑠にとって実の母は最初から写真の中の人でしかなかったけれど、もし生きていたらどうだっただろうと思う。友達のところみたいに、美味しいご飯を作ってくれたり、一緒に買い物に行ったりしただろうか。辛い時には、抱きしめてくれただろうか。幼い頃から、幾度となくそんなことを思った。
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